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第2章「風姿」(7)

 アルジマールがその扉を開けるのを、ヒースウッドは喉を滑り落ちるような冷たい感覚と共に見ていた。

 誰がその先にいるか――アルジマールは気付いていないように思える。

 扉は音もなく開く。

 風が、室内からアルジマール達の立つ廊下へ、ゆっくりと流れ込んだ。

 光――目を眩ます陽光が満ちている。

 そして海の青。

 前面は横いっぱいに窓が造られ、そこから海と空だけが見えた。

 部屋は横長に広い造りで、三組の長椅子と低い卓が中央辺りに置かれ、右奥に薄布を幾重にも掛けた寝台があった。

 寝台に、女が腰掛けていた。

 柔らかな笑みが頬を彩る。

「貴方は本当に法術しか知らないのね。女の私室に無断で入ったらいけないって、教わらなかったの? アルジマール」

「ルシファーか、久しぶり」

「それも無理矢理造り上げて――無粋ね」

 優しげな声の中に、皮膚を切るような(やいば)がある。

 ヒースウッドは唾を飲み込んだ。事実を知らない兵士達がルシファーの姿を目にして剣に手を掛けたのに気付き、ヒースウッドや少将ケーニッヒ、彼の同士達も見せかけ程度、剣の柄を握る。

 アルジマールは部屋に入って数歩進み、一人泰然としてルシファーと向き合った。

「無粋とは心外だな。僕の法術の粋を集めた傑作なのに」

「まあそうね、ここまで復元されるとは思ってなかったわ。でも私がさすがだと誉めてあげる義理は無いわね」

「思ってなかった? ――へぇ、知ってたんだ。誰に聞いたんだい」

 アルジマールの言葉がヒースウッドの心臓を刺し、全身が冷えると同時に、心拍数が一気に上がった。アルジマールや部下に聞かれるのではないかと恐れながら、心拍を沈めようと懸命に呼吸を押さえる。

 ルシファーがくすりと笑った。

「甘いわねぇ、私を誰だと思ってるの? 防御陣を巡らせている王都ならいざ知らず」

「ふん、まあね。でも君がここに来たって事は、それだけ大切なものがここにあるんだな。この部屋かい」

 ルシファーは寝台に腰掛けたまま、長椅子を挟んで立つアルジマールを見上げた。

「別に離反した今になって、見られて困るものがあるわけじゃないのよ」

 組んだ脚の膝に頬杖をつく。

「ただ、覗かれて気持ち良くはないわね。だから止めてもらおうと思って」

「悪いけど、君がまたこれを壊したところで、僕は何度でも復元できるよ」

「アルジマール」

 柔らかな口調は変わらず、ただ響きが、憐れみを含んだ。

「あなたまさか、ここから帰れると思っているの?」

 ヒースウッドにさえ、それは無慈悲な宣告に響いた。

 四大公の一人、風の王と、この国最高の大法術士――どちらの力が上回るのだろう。

 アルジマールを見れば、少しも動揺した様子がなく、飄々とした独特な雰囲気はこれまでと一切変わっていない。恐れていないのかと、ヒースウッドは内心舌を巻く思いだった。

「僕は当然、君が来るかもしれないと思ってた」

 アルジマールは少し顎を持ち上げ、(かず)きの奥の光る眼でルシファーの視線を受けとめた。

「その上でこの僕が、何の用意もしてないと思うかい」

「へえ?」

「全く自慢じゃないけどね、法術士なんて古来から相も変わらず、直接的な戦闘は著しく不利なんだよ。だからどうしたって護衛がいないと」

 護衛、という言葉にぎょっとしたのはヒースウッドや正規兵達だ。途端に及び腰になった兵士達を見て、ルシファーは呆れた笑いを浮かべた。

「彼等に護衛は無理じゃない?」

「ん? ああ、彼等か。違うよ君たち」

 アルジマールは兵士達を振り返って首を傾けた。

「君たちには害は及ばないって言っただろ?」

 兵士達が互いに顔を見合わせる。ヒースウッドはルシファーの顔を素早く盗み見て、前へ踏み出した。

「アルジマール院長、我々は貴方の護衛の為に」

「無理」

「――いえ!」

「ここから出た方がいいよ。ちょっと派手になる」

 そう言うとアルジマールは短い詠唱を二回、繰り返した。

 アルジマールの姿が歪む。

 その理由に気付き、ルシファーはまだ寝台に腰掛けたまま、細い眉を僅かに潜め、彼の正面の空間を見つめた。

 空間が歪んだからだ。アルジマールの姿が単なる色彩となって渦を巻くように見える。

 渦の中心が盛り上がった。

 五本の指が突き出し、それから手首から先が現れた。そして白刃――

 淡い光が零れる。

「……剣士」

 ルシファーの唇が動く。

 同時にルシファーは、アルジマールが作り出した渦へと、ふっと息を吹き掛けた。

 風が奔る。

 渦に届く寸前で、風は四散した。

「! ――」

 ルシファーは身を乗り出し、それから身体を戻すとアルジマールを面倒そうに睨んだ。

「言っただろ、僕が何も用意してないと思うのかってさ」

 もう既に渦は閉じ、代わりに一人、あたかも始めからそこにいたかのごとく立っていた。

 ヒースウッドや兵士達は信じられない思いに口を開け、まじまじとその存在を眺めた。

「剣士は護衛に最適だろ。こんなにレガージュが近いのに、呼ばない手はないよね」

 アルジマールの前に立っているのは、十五、六歳ほどの少女だ。肩に届く前にざっくりと切られた黒髪が、小造りな顔を縁取っている。

 右腕の肘から先、骨が盛り上がるようにして、既にその剣が姿を現していた。

 ヒースウッドや彼の部下達は、剣が発する肌を撫でるように冷たい空気を感じ取り、押されて数歩後退った。

 ルシファーは諦めた様子で息を吐き、それから笑った。

「久しぶりね、ユージュ」

 ユージュはじっと無言で、目の前にいる相手がそこにいる事を確かめるようにルシファーを睨んでいる。

「アルジマール、貴方も少し酷いんじゃないかしら。護衛だなんていって、この子初陣でしょう。こんなに可愛らしく成長したばかりなのに」

「昨日、この人が来た時、ボクが自分から頼んだんだ」

 抑えていたが声は微かに震えていた。ユージュの黒い瞳が燃え盛り輝く。

「その顔を覚えてる――あんたに次会ったら斬ってやるってずっと思ってた」

 ルシファーは唇の端を笑みの形に引き上げた。

「ザインはどうしたの。一人で戦えるのかしら」

「父さんは今は寝てる。剣を再生させなきゃいけないからね。でもちゃんと、父さんから剣の使い方は教わった」

「ザインは許してくれたの?」

「――」

 ルシファーは喉を仰け反らせて笑った。

「あなた達親子は良く似てるわ。あなただってそれが悲しかったでしょうに」

「うるさいっ」

「あなたが帰らなかったら父さんが悲しむわ」

 ユージュは唇を噛み締めた。

 剣先が微かに震えている。

 アルジマールは前に立つユージュの肩に手を置いた。

「大丈夫、僕がいる。君はちゃんとお父上のところに帰れるよ」

「――平気」

 ちらりとアルジマールを振り返り、ユージュは自分の右腕を左手で抑えた。

「これはね、嬉しいから震えてるの。だってずっと、そう願ってたんだから」

 低く呟く言葉は、自分にそう言い聞かせているようでもある。

「――安心していい」

 アルジマールはもう一度、そう口にした。

 ユージュは頷き、床を蹴った。

 右腕の刃が白く輝く。

 振り下ろした剣の先にルシファーの姿は無い。

「!」

 剣はそのまま、ただ寝台を斬り裂いた。

「うわ、まずいなぁ」

 アルジマールは被きの下で小さく呟いた。視線は二つに割れた寝台に注がれている。

 復元の前には見る事ができていた微細な粒子が、その部分だけすっかり霧消してしまった。ユージュの剣が消し去ったのだ。

 直後に、二つに割れた寝台は砂が崩れるように消えた。

 あの寝台はもう復元できない。

「両刃だったか――ユージュ」

 ユージュの剣が窓際に立つルシファーの姿を斬り裂く。壁が消失し、青い海と空が見えた。

 ルシファーがちらりと笑みを閃かせ、反対側に置かれた書棚の前に立つ。

 ユージュの剣が与える影響に気付いている。

 その上で、敢えてそこに立ったのなら――

「書棚か――ユージュ、」

 止めようとしたが既に、ユージュの剣はルシファーへ振り下ろされていた。





 天幕の中から拍手が湧き上がった。

 アスタロトはぴたりと足を止め、深く被った帽子の下からそっと天幕を見上げた。

 時間的に、今のは舞台が始まる時の拍手だろう。入り口を見ると近衛師団第一大隊の隊士が三人、受付の中に立っている。

 アスタロトが知っている顔ではないが、向こうは自分の顔を知っているだろうと思うとつい天幕の陰に隠れてしまった。

「――」

 隠れても仕方ない。さんざん迷った末にやはり見たくて来たのだから、入らないで帰るなんて情けない。

(見るだけ――、声掛けないですぐ帰るし)

 来た事がばれないようにする。

 意を決して息を吐き、アスタロトは帽子を被り直してから入口へ近付いた。帽子のおかげか幸い受付の隊士達はアスタロトとは気付かず、天幕の入口の布をたくし上げ、彼女を中に入れた。

 他の観客の邪魔にならないように静かに入り、天幕の一番後ろの列の空いていた席に座る。天幕内は薄暗かったが、舞台はそこだけ天幕の上部を抜いていて自然光が落ちていた。

 深い森が舞台上に造られている。結構手が込んだ造りで、この出し物に掛ける隊士達の意気込みが感じられた。

 物語は始まったばかりで、アスタロトは息を詰め、じっと舞台を見つめた。

 演目は内容は有名な叙事詩の一遍で、魔物退治の話だ。レオアリスの役が何か聞いていなかったが、まだ舞台上には姿は無い。

 ただ、この話は物語どおりなら終盤で派手な立ち回りがある。多分レオアリスはその辺りで出てくるのだろう。

 待ち遠しくて胸がどきどきした。

 陽が陰る。森の中におどろおどろしい音が轟き、長い布を翻し魔物が出現した。

(あ、グランスレイだ)

 目のふちに恐ろしげな隈取をして衣装もかなり派手だが、良く似合っていてつい吹き出しそうになった。

 魔物は森を守る女王を攫い、森を生き物の棲めない場所にしてしまう。

 主人公は森を逃げ出した住人達に頼まれて、友人達と共に女王を助けに行く事になる。この叙事詩は主人公の成長記でもあり、この演目ではまだ主人公は旅を始めたばかりだった。

 主役の隊士の顔をアスタロトは見た事は無かったが、主人公の少し弱腰な態度も良く演じていると思った。

 客席が台詞も聞き取れないほど騒がしくなったのはロットバルトが登場した時で、最前列辺りに陣取っていた娘達がきゃああと高い声を上げている。主人公に知恵を授ける魔法使い――法術士という役柄で、かなり女受けしているが、原作にはこの役は無い。

(……完全に票狙いだな。クライフ辺りの演出だろ)

 客席の騒ぎようを後ろから眺めていると、正規軍は勝てるかな、と率いる立場としてちょっと心配になった。

(いいなあ、見栄えするのがいて。うちでもやっぱ劇もやってるけど……西方の第一大隊のヤツなんてほぼ嫌がらせ状態せだし)

 西方第一大隊は気軽に食べられる料理や酒を売りにした店を出す予定と聞いていたが、さっき通りかかった時にちらりと見たら、ワッツを始めとした筋骨隆々の十数人の兵士達がゴツい女装を繰り広げつつ客引きしていた。いや、引きずり込んでいた。

(あの面子以外にいるだろ、誰か)

 本当は正規軍の出し物は全部回って激励するのが努めだが、立ち寄る勇気が無く、足早に通り過ぎてきた。溜息をついて舞台へ視線を戻す。

 物語が進み――、やがてレオアリスが舞台袖から現われると再びわっと歓声が上がった。観客席にいた子供達が大喜びして身体を揺らす。

 ほんの数席横から「レオアリスー!」と幼い声が上がりかけ、何となく聞き覚えがある声に視線をやり、アスタロトはギョッとした。

(ファルシオンだ……)

 お忍びだろう、傍らのおそらく侍従長に慌てて口を押さえられている。

(レオアリスは来てるの知ってるのかな)

 でも多分どちらにせよ、王が許可したからここにいるはずだ。

 どきりと胸が鳴る。

 もしかしたら、エアリディアルも来ているのではないかと思ったからだ。

 もう一度そっと、ファルシオンとその周囲を眺めたが、エアリディアルはいないようだった。零れかけた安堵の息を、慌てて飲み込む。

(何でそんなこと)

 舞台に集中しないと、せっかくレオアリスが出ているのだから、と自分を誤魔化すように言い聞かせた。

 レオアリスは主人公を助ける騎士の役で、物語の見せ場になる場面だ。

 赤を基調にした衣装が舞台に映えた。肩口にこの役の象徴でもある鷹の羽根をあしらっていて、長布を纏っている。普段は黒の近衛師団の軍服が多いから余計新鮮に映った。

(赤、似合う……)

 アスタロトは思わず息を詰め、吸い込まれるように見つめた。





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