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第1章『遠雷2』(7)


 フレイザーは午後の演習を終えた後、王城の近衛師団総司令部へ赴く為、王城西玄関から入り正面の大階段を登って、南棟にある総司令部へと三階の廊下を歩いていた。

 考え事をしながら前方へ向けていた瞳が、廊下の先に良く知る人影を捉える。


 鼓動が鳴った。


「──ロットバルト」


 呟き、フレイザーは足を早めた。ロットバルトは数人の財務官と廊下の奥――おそらく財務院の執務室だろう――へと歩いて行く。


 近付き名を呼ぼうとして、一瞬フレイザーは戸惑いを覚えた。

 ひと月ぶりだ。それこそあの日以来、顔を合わせる機会は無かった。


「──失礼します──、()()()()()()()


 ロットバルトが視線を巡らせ、振り返る。

 その瞳を見て、フレイザーは自分が何の為に声を掛けたのか、判らなくなった。

 三人の財務官達がフレイザーの軍服を見て取り、数歩退がって控える。ロットバルトはフレイザーと向き合うように立った。


「フレイザー中将。お久しぶりです」


 発された声は聞き慣れたものだったが、これまで見ていた軍服姿ではなく、また財務院の官服でもない。ほんの少し前、良く知る姿だと思ったのが間違いだったかのようだ。


「総司令部に?」

「ええ──、いえ、はい。総司令部に向かう途中です」


 総司令部へ向かうのはグランスレイへの報告の為だと、フレイザーが口に出す前にロットバルトも理解しているだろう。ロットバルトはフレイザーを見つめ、淡々と問いかけた。


「何かありましたか」


 後ろに控えた財務官達が二人のやり取りを見ている。

 フレイザーはこの場で伝えるべき事を探し――、そして、首を振った。


「いいえ。このひと月、大きな動きはございません。足を止めてしまい、失礼致しました」


 以前はほんの些細な事でも何のこだわりもなく話をしたが、今は立場が異なる。あの陽光に満ちた第一大隊の士官棟ではなく日の陰った王城の廊下では、その違いは浮き彫りにされたように明らかだった。

 ロットバルト――、財務院長官ヴェルナー侯爵は、感情の窺い難い双眸をフレイザーに向けた。


「何か動きがあれば、我々にも情報を」

「承知しました」


 フレイザーは蒼いその瞳を避けるように面を伏せ、遠ざかっていく靴音を聞いていた。








「正規軍を常時戦場で稼働させる資金として、兵士1人につきひと月百五十ルスを基準としています」


 黄昏の淡い日差しが差し込む室内で、壮年の男が手元の書類を読み上げる。財務院長官室の会議室には長い卓を囲んで六人が座り、午後四刻から、五日に一度の会議が行われていた。

 書類を読み上げている財務院主計官長ドルト、そして財務官長ルスウェント伯爵、税務官長ノイライン伯爵、地方税務官長ロスウェル伯爵、財務院副長官ゴドフリー侯爵、長官であるヴェルナー侯爵、この六名が財務院の要職であり、意思決定機関だ。


 ルスウェント、ロスウェル、ゴドフリーが五十歳を超え、ノイラインは今年で六十歳を迎えるが、主計官長ドルトは三十代後半と飛び抜けて若く、また唯一爵位を有していなかった。彼は十八年前に王立学術院を卒業し、財務院へ入った。


「全軍ではないにせよ、各方面大隊が稼働している現在では、単純に月に六百十五万ルス──約六万一千ルーアンが必須経費となります」


 財務院副長官ゴドフリーは傍らに座るヴェルナーの横顔と、卓を囲む各官長等を見た。ヴェルナーは列席者の中で最も若くひと月半前に職に就いたばかりだが、各官長達はドルトの報告を聞きながら時折若い長官の表情を確認している。


 ゴドフリーやヴェルナー、卓に着く財務院高官の手元にあるのは今ドルトが説明した正規軍の予算及び経費と、国庫備蓄について記された資料だった。

 ドルトが続ける。


「西方第四大隊から第七大隊、南方第五大隊から第七大隊、北方第四大隊から第七大隊、東方第二及び第四大隊から第六大隊」


 現在常時戦場にある正規軍の部隊だ。

 ボードヴィル、バージェス、フィオリ・アル・レガージュ、そして東方公の所領ヴィルヘルミナ。

 開戦からこれまで、累計四万を超える兵士が戦場に投入されていた。


「稼働は正規軍全軍の過半数に及び、これまでに要した経費はこのひと月半でおよそ九万二千ルーアンを計上します。その中には傷病者看護、戦死者の家族への弔意金を含んでおりません」

「これまでの死傷者に係る経費は」

「およそ二千ルーアンです」


 ヴェルナーは手元の書類を取り上げ、その項をめくった。

 年間経費と月毎の支出の推移を記載した資料だ。


「正規軍の年間予算は当初、百二十万ルーアン、予備費に更に十万ルーアンを計上しており、総計百三十万であります。これは全軍が半年間戦場で可動する経費に相当します。そして現時点では、正規軍全体の恒常経費を含め、およそ一割を費やしております」


 ドルトの言葉が指す真の問題点は、戦況が悪化した場合、早ければあと半年後には軍費が底をつくという事だ。

 ヴェルナーが資料を繰り、ドルトもその視線を辿って同じ項に目を落とす。その項に記した事も、議論の上で重要な内容だった。


「加えて正規軍より依頼を受け、士気の維持の為に報償を底上げしております。また、先日更なる部隊の投入が決まった事もあり、単純に類推する訳には参りません」


 言葉を区切り、一旦指示を待ってドルトは椅子の上で背筋を伸ばした。

 ヴェルナーが視線を上げる。


「――戦況が好転しない限り軍費が膨れ上がるのは避けられず、事実、今現在好転の兆しは見えていない。そもそも西海軍の総兵力が未だ測り切れていない現状では、戦力維持か追加投入以外の手段は無いというのが軍部の考えです。その考えは我々財務院も共有している。現在の防衛線が押し切られる事は避けなければならない」


 語る内容に反して――いや、比してと言うべきか、室内は静まり返り冷えている。


「元々国の予算の総枠に対し軍への配分率は他国に比べて低く、また兵員数も必要最小限に抑えられていました。組織的課題は今後の検討事項ですが、今は戦力維持と組織強化──正規軍の増員への対応が他に優先します」


 ゴドフリーやロスウェル等も頷く。


「戦場の体制や士気の維持、部隊の増強、新兵の徴用及びその訓練の為の経費、少なくともこの三点の解決の為に、他の予算を一部縮減して対応せざるを得ないでしょう。次回までに縮減できる分野、事業の洗い出しを」

「はい」

「一方で」


 このひと月は発生した事案への対処に重点を置いていたが、視点を変える段階に来ている、と続ける。


「この状況を打破する為に、現在取っている手法以外で効果的な手段は何か。またこの先に起こり得る状況を想定した上で、それぞれを未然に防ぐ為の対策と。この二点を次回会議までに検討し、議論したい。もちろん財務院の視点で構いません。その結果を十四侯の協議に財務院の意見として提出します」


 ドルト達はやや緊張した顔で頷いた。


「承知しました」





「財務院の視点で良いと仰ったが、そうも行くまい」

「また難しい指示を出されましたなぁ」

「とは言え確かに、このままでは税収も落ち込む一方だ。西では畑を捨て村を離れざるを得ない者達が増え続けている」


 ノイラインとロスウェルが話し込みながら廊下を歩いて行く後ろで、最後に扉から出て来たドルトは口元に指を当てたまま俯いて歩いていたが、次第にその足が止まった。


「ドルト殿、どうされましたか」


 ゴドフリーが足を止めたドルトに気付き、振り返った。沈んだドルトの様子に苦笑を浮かべる。


「確かにヴェルナー長官の要求はかなり難題だが」


 ヴェルナーは指示した事は、自らも調べ、検討して来るのが常だった。ノイラインやロスウェルは就任当初甘く見ていたが、何度かのやり取りを経てすっかり見方を変えていた。

 だがこのドルトは初めからヴェルナーのやり方を喜んだ口だ。


「いえ──」


 躊躇いを見せたものの、ゴドフリーならばと考えたのか、ドルトは意を決したように口を開いた。


「ヴェルナー長官はあのように仰いましたが、我々の――財務院として持つ手段から現状を打破するのは、非常に困難であると感じます。いえ、そうした考えはもちろん検討してから口にすべきですが――」


 再び視線が落ちる。


「ヴェルナー侯爵が、」


 ドルトは言いかけた言葉を、急に飲み込んだように見えた。


「いえ、失礼いたしました」









「少し休む。五刻に起こしてくれ」


 外套を受け取り、ヴェルナー侯爵家家令バスクは主人を見た。淡い燭蝋の灯の中でも、その面の上の疲労が伺える。


 日中に財務院の役割をこなし、こうして館に戻ると僅かな仮眠を取り、早朝から登城までの数刻で、山積した侯爵家内部の問題を処理する。それをこのひと月、ほぼ変わらず繰り返している。

 王城と館との行き来の時間すら惜しい状況だが、財務院の職務もヴェルナー侯爵家内部の問題──所領管理やそれに付随する関係者との関係再構築──にも対応しなくてはならない。


 本来それらを補佐するのが家令の役割だ。だが前侯爵の家令は先の事件の際に命を落とし、役職を継いだバスクはまだ経験が不足していた。


(だからロットバルト様が全てを担っている。ルスウェント伯爵の助力はあるものの――)


 ロットバルト自身がそこは一定で線を引いているようにも見える。

 バスクは財務院とヴェルナー、二つを同時に対処している主人に舌を巻きつつも、充分な休息を勧めたいという想いも強い。

 だがバスク自身忸怩たる想いがありながら、邸内の雑事に追われその時間を作り出せない状況だった。


 それに加え、もう一つ頭の痛い問題がある。

 今日──正確には昨日だが、これで何度目か、この主邸を元ヴェルナー侯爵夫人が訪れた。その事を告げるべきか迷っていたバスクへ、主は迷いを読み取ったように尋ねた。


「今日は何を言ってきた」

「は──、その」


 迷うのは時間の無駄だ。主人の。


「オルタンス様の相続分について、もう一度考えて欲しいと」


 バスクは昼の訪問者の姿を思い出し眉を潜めた。オルタンスは前侯爵の妻――現当主の義母だ。形式上は。


「それから、畏れながら――」


 一度飲み込んだ言葉を、向けられた視線が促す。


「その……、畏れながら、ヘルムフリート様の個人資産についても、分割すべきではと仰っておられました」


 バスクはそれに対する反応を恐れ息を詰めたが、ただ頷くと共に、他には、と返る。

 この後を告げるのが一番憂鬱だった。


「侯爵の御婚姻について、何人か候補を」


 それも夫人の実家にごく近い家ばかりだ。最初など自分の妹はどうかと言ってきた。夫人はまだ三十になったばかりで、その妹であれば確かに年齢的には釣り合わなくはないが、意図が透け過ぎている。

 バスクの表情を見て取り、微かな苦笑を含んだ声が返る。


「自分ではその話は受け止められないと、それを返すだけでいい」

「畏まりました」


 バスクは顔を伏せ、廊下へ下がった。






 ロットバルトは脱いだ上着を椅子の背に落とし、寝台に腰掛けた。

 息を吐き横たわると、目を閉じる。

 ひと月──

 もうそれほど時間が経った。

 ヴェルナーの内部や財務院での対応を考えれば時間は幾らあっても足りないが、一つの面から見れば長い。


(いや)


 ()()だ。

 どちらの視点からも。


 思考を切り替える。

 一度、そう、南方へ赴かなくてはならない。


 ゆっくり息を吐き、様々に巡る思考を手放す事に努める。

 眠りは程なく訪れた。






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