表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
165/536

第1章『遠雷2』(5)

 

 昨日から降り続いている弱い雨は、午前中の王都の街並みを淡くけぶらせていた。

 王城第一層と呼ばれるこの区域も、通りの銀杏並木や煉瓦塀の建物をしっとりと細かい雨の幕が覆っている。


「クライフ中将!」


 遠くからクライフの姿を認め、一度敬礼してから駆け寄ってきたのはクライフの部下達で、近衛師団第一大隊中軍第一小隊二等官のコウと、彼の下に付いている隊士シャーレだ。その隣に彼等の上官である少将リムも並んでいた。


 通りに足を止めたクライフの前に駆け寄ると、三人はもう一度、左腕を胸に当て敬礼した。外套に付いた雫が流れて零れる。

 三人ともクライフよりも若く、少将リムは二十二歳、濃い茶の髪を頭の後ろに一つに縛っている。コウはその一つ下、クライフに似た元気が良さそうな、銀髪の青年だ。

 リムとコウの二人はひと月前のあの夜、ファルシオンの庭園にいた。


「お、シャーレ、元気でやってるか」


 クライフはリムとコウに手を上げて答え、それからもシャーレを見た。シャーレは背も低く、まだ子供のように見える。十五歳の少女で年明けに入隊し、先月隊士見習いが明けたところだった。


「日々リム少将やコウ先輩にご指導頂いてます!」

「いい返事だ」


 少々元気すぎる返事だが、クライフは笑ってまた歩き出した。

 リムがクライフへ歩調を合わせる。クライフが歩いて行くのは第一大隊の士官棟の方向だ。時折足元の石畳にできた水溜りを跨いで歩く。


「士官棟にお戻りですか」

「ああ、この後総司令部から代理が戻るからな。リム、この雨だが午後の演習の準備はどうだ」

「問題ありません」


 王城第一層、近衛師団や正規軍の士官棟などがあるこの区域は、クライフ達だけではなくあちこちに隊士や兵士達の姿が行き交っている。今日は雨の中でありながら、通りは朝からざわざわと騒がしかった。

 ここ西地区にいるのは、正規軍の内、西方軍──現在ボードヴィルに於いて西海軍と対峙しているヴァン・グレッグの部隊だ。


「ボードヴィルがやや劣勢と聞きました」


 リムは声を落とした。


「それで代理が戻る」


 その事で今朝からちらほらと兵士達の間に噂が流れ始め、西地区は騒がしさを募らせているのだ。今日グランスレイが総司令部から戻るのは、三日に一度の第一大隊の視察に加えて、ボードヴィルの状況を伝える為だろう。


「増員があるのでしょうか」

「正規軍も東西南北何かしら出払っててこれ以上出すのは厳しいと思うが、そうも言ってらんねぇだろうしな。今だってヴァン・グレッグ将軍が指揮してんのはほとんど西方軍の半数だ。サランセラムの六千がここで潰れたら、そこから一気に崩れるかもしれねぇ」


 クライフの口調は普段より硬い。

 現在サランセラム丘陵に展開しボードヴィルを囲む西海軍と対峙しているのは、西方第四大隊から第七大隊半数の、およそ九千。これは当初の数だ。


 対する西海軍は四千程だと聞くが、ほぼひと月の間これを押し返す事ができずにいた。ボードヴィルに出現した風竜の存在、そしてもう一つ、ナジャルの存在がある為だ。

 特にナジャルによる散発的な攻撃を受け、ひと月で西方軍は兵をおよそ三割減らした。


(攻撃っつうか、もう──)


 単なる殺戮だ。戦場の士気ごと食い尽くす。

 ナジャルに対しては法術院が対策を練っていたが、嘲笑うように姿をくらますナジャルに対し、その動きを封じ込めるに至っていなかった。


「状況に変化があったら知らせる。隊士達が落ちつかねぇようなら宥めとけ」

「はっ」


 三人は敬礼を向け、士官棟へ向かうクライフの姿を見送った。細かい雨がその間を埋めて行くようだ。


「グランスレイ代理がたまに戻って来てくださるとは言え、クライフ中将とフレイザー中将のお二人だけで、色々大変だよな」

「せめてヴィルトール中将が戻ってくだされば」

「上将がいるじゃないですか」


 シャーレの期待の篭った声に対し、リムとコウは気まずそうにさっと視線を交わした。


「シャーレ」

「私は、上将に戻って来て欲しいですっ今すぐにでも!」

「シャーレ、その呼称は、もう」

「そんなの関係ないです! 上将は私達の」


 拳を握って背伸びをしかけた時、どん、と背中にぶつかられ、シャーレはよろめきながら振り返った。西方軍の兵士だ。


「あっ、ごめんなさ」

「シャーレ」


 コウが支えようと手を伸ばす前に、ぶつかった若い兵士は忌々しそうにシャーレの肩を突き飛ばした。身体の軽いシャーレが濡れた石畳に尻餅をつく。

 コウは思わず突き飛ばした兵士の腕を掴んだ。


「何をする! 謝っただろう!」


 兵士はコウの手を振り払い、なおもシャーレを見下ろした。諍いに気付いた数人の正規兵が駆け寄ってくる。


「道の真ん中をふらふらと邪魔なんだよ。剣も振り回せそうにねぇガキが何でいるんだ? 近衛師団は兵士ごっこかよ」

「わ──わ、私は、正規の隊士と、認められて」

「隊士? お前みたいのが」


 コウはもう一度最初の兵士の腕を掴んだ。


「待てよお前、そっちからぶつかっといて謝りもしねぇで何だその言い草、喧嘩売ってんのかよ」

「ちょ、コウ先輩、ま」

「そう見えねぇんなら近衛師団の頭はどんだけ平和なんだ?」

「てめェ」

「おい、よせ」


 リムが割って入り、正規兵はリムの襟元の記章を見てぐっと黙った。


「喧嘩なんかしてる時じゃないだろう、頭を冷やせ」


 不服そうに、それでもその場を離れた兵士達を見送ってリムが踵を返そうとした時、ぼそりと声がした。


「近衛師団は端を歩け」

「無駄飯喰らいが」


 抑えた声を聞き咎め、リムはさっと辺りを見回した。


「今の発言は誰だ。前へ出ろ」


 しん、と通りが静まり返る。

 初めはリムの視線を避けて顔を見合わせていたが、その中の一人が不満気に振り返った。シャーレにぶつかったのとはまた別の兵士だ。


「──事実ですよ」


 リムは兵士を睨んだが、口を挟まなかった。


「そんなガキ入れて隊服着せて、何か役に立つんですか? 大体あんたらの元大将だって似たようなもんだ、結局お遊びに過ぎないんじゃないですかね」


 コウが頬を引き攣らせ足を踏み出す。


「言わせておけば──遊びだと? ならお前等の誰か一人でも、風竜やナジャルに敵う奴がいるのか」


 正規兵はぐっと言葉を飲んだものの、溜まった苛立ちを吐き出すように声を荒げた。


「じゃあ何でなんにも動かないんだ!」

「蟄居とか言ったって、今そんな状況じゃないじゃないか」


 リムが落ち着かせようと両手を広げる。


「それは国として決めた事だ、俺達の大将はあの時の責任を取られているに過ぎない」

「正規軍だけに西海軍を相手させやがって」


 いつの間にか周囲に集まった兵士達の中からも声が上がり、リムはその言葉に黙った。


「いくら王太子殿下の命令でも、この戦況で何もしないなんて無責任だ」

「陛下がお戻りにならなくて、剣士としては分かるけど近衛師団としては」

「か――、勝手なことばかり言うな!」


 シャーレが声を張り上げ、声のした方を睨んだ。


「あの時、どれだけ」

「ガキは黙ってろ!」


 脇から手が伸び、再びシャーレを突き飛ばした。コウが血相を変える。


「いい加減に」

「勝手はどっちだ! お前達近衛師団が内部分裂なんてしやがったから、今こんな事になってんじゃねぇか!」

「そうだ! 戦場に出るのは俺達正規軍ばかりで」

「腰抜けが」

「――てめぇ」

「コウ、待て――」


 止めようと手を伸ばしかけたリムが、さっと表情を変え、両脚をそろえて踵を鳴らした。


「ク、クライフ中将!」


 コウやシャーレだけではなく正規兵もぎょっとして振り返り、リム同様に踵を鳴らし、それぞれに敬礼を向ける。


「そこまでだ」


 彼等の前に立ったクライフは眉をしかめ、呆れた顔をその場に巡らせた。


「まったく、何やってんだお前等。原因は何だ」

「その……」

「こいつがシャーレにぶつかっておいて、謝りもしないから」

「何だと。道の真ん中に突っ立ってんのが」

「ぶつかったの何だので寄り集まって喧嘩すんのか、お前等は。そんなに暇か」


 再びクライフが呆れた声を押し出し、コウと正規兵はぐっと黙った。


「――それとも、不安か」


 雨の中で正規軍の兵士達が居心地が悪そうに身じろぐ。

 そこに居た合わせた十人ばかりの正規兵と自分の部下とを眺め、クライフはその場を打ち切るように腰に手を当てた。


「まあいい、この雨ン中で言い合ってたって頭も冷えねぇんじゃ、風邪ひくだけで何の得もねぇ。言いたい事があるなら後で休憩中にでも俺のところに言って来い。ほら解散だ」

「――失礼しました」


 正規兵はクライフに敬礼を向け、尚も物言いたげにコウ達へ視線を流してから、その場を立ち去った。

 まだ恨みがましく正規兵の後姿を追っているコウの頭を、クライフの掌がぐいと押す。


「さてと、お前等も濡れた頭きちんと拭いとけよ」

「でも、クライフ中将ッ、あいつらが最初にイチャモン付けて来たんですよ、大体あいつら勝手な事ばかり――上将の事を」

「まあまあ、けど正規軍だって不安なのは判るじゃねぇか。正規軍も第一大隊は王都守護だからそうそう駆り出されねぇが、だからって他人事じゃねぇしなぁ。同じ正規軍兵が戦場にいて厳しい状況なら、そりゃ何とかなんねぇのかって思うのは判る」


 コウはクライフをきっと見据えた。


「上将の事言いやがったんですよ!? クライフ中将はどっちの味方なんですか!」

「上将に決まってんだろ」


 三人が顔を見合わせ、自分達だってそうだと微かに頬を膨らませる。


「だが俺達が騒げば悪くなるのは上将の立場だ。それだけは絶対に避けろ」

「──分かってます」


 ほらほら、と順番に肩を叩いて歩き出させ、そうしながらクライフはふと、かつての事を思い出した。

 レオアリスの過去がまだ明らかになる前の事だ。バインドが王都に現われた時、正規軍と近衛師団は事態が解決しない焦りから何度か諍いを起こしていた。


 あの時と同じような状況だが、全く違う。

 そもそもクライフは宥められる側だったのだ。こんなふうに宥める側ではない。


(あん時はワッツが上手いこと宥めたんだったな。ヴィルトールだっていたし──上将が)


「前は、ヴェルナー参謀中将殿だっていらっしゃって、大抵のことは問題なかったのに」


 ちらりとコウを眺めたクライフの面に、何とも言い難い想いが透けるように浮かぶ。


「……あー、──まぁ、そりゃ」


 ()()()()()と近衛師団――第一大隊との関わりが薄れた事が今回の状況の一因だと考える向きは、確かにあった。

 ロットバルトの退団が無ければ――もしかしたら。

 だが、()()()()()()


「とにかく、こんな時だからこそ状況をしっかり見て、下手に流されないようにしようぜ。お前達には隊をそうまとめてもらいたいんだ」


(ほんっと、俺がこんな事言うなんてなぁ)


 何度目かの溜息をつきたくなってそれを抑え、クライフは灰色の空を見上げた。





「ボードヴィルの戦況は、この一両日の内に動くだろう。現在、西方軍の増援を検討している」


 三日ぶりに第一大隊に戻ったグランスレイは、クライフとフレイザーを前に、そう口を開いた。


「増援ったって……」


 クライフの戸惑いももっともだ。

 国内の治安維持、王都の守備。

 それだけを考慮に入れた上で、残る最大の兵を開戦当初に投入したのだ。


「身を削る事になる。それから、国内に対し新たな兵を募る触れを回す事も決定した」

「――」


 クライフは先ほどの騒ぎを頭の中に思い浮かべた。増援と聞けば、正規兵達の不満と不安はますます高まるに違いない。

 その不満が近衛師団に――王城で蟄居の身とされているレオアリスに向けられる事もより一層多くなってくるだろう。

 確かに、彼らの言い分には一理ある。


(――けど、まだ)


「私達にやれる事はないんですか」


 フレイザーに、グランスレイはきっぱりと首を振った。


「我々の役割は王城守護であり、それは変わらん。だが、正規軍第一大隊と足並みをそろえる必要がある。しっかりと心に留めておくよう、隊士達に徹底しろ」


 先ほどの騒ぎを指摘されたように思い、クライフは面を引き締めた。

 それだけ告げるとグランスレイは自らの執務室に座る事もなく、再び扉へ向かった。


「また戻られるのですか」


 フレイザーの問いにグランスレイは頷き、扉の閉じる音を残して中庭の回廊へ出た。フレイザーが溜息をつき、室内を振り返る。

 その視線の追う影が、クライフにも見える気がした。


 執務室には六台の執務机があり、奥の広い窓を背にした一台を五台が左右囲むように置かれている。通常、近衛師団も正規軍も士官棟の二階に中将以上の執務室を個々に設けていたが、第一大隊ではレオアリスの意向で執務室を一つにまとめたのだ。


『その方が話がしやすいし、書類のやり取りも楽だろ。第一楽しいし』


 その内の四つが、今は空席だった。

 ヴィルトール、ロットバルト、グランスレイ。

 そして。


「――すぐに戻るさ」


 誰が、とは言わず、ただクライフはそうきっぱりと口にした。






 再び総司令部へ向かう為、グランスレイは士官棟に隣接する第一大隊の厩舎の扉を潜った。

 士官用の厩舎には三十頭の飛竜が休む為の仕切りがあり、左右にずらりと並んでいる。グランスレイが入ってきた扉と反対側に飛竜を出す為の三枚扉と、天井にも可動式の開口部が設けられている。


 グランスレイの姿を見た隊士は、待機していた彼の飛竜を手際よく仕切りから引き出した。

 グランスレイはその手綱に手を伸ばそうと歩み寄り──、足を止めた。


 厩舎中央の仕切りには、若い銀翼の飛竜が翼を畳んで蹲っている。

 その前に置かれた給餌の箱の中は、今朝置かれた野兎の肉が残されたままだ。

 グランスレイが仕切りの前に立っても、眠っているのか銀の鱗に覆われた躰はピクリとも反応しなかった。


「今日も残しているのか。体調は?」


 グランスレイの問いに、隊士も悩んだ様子を見せた。


「はい。数日に一度、申し訳程度には食べますが、どう促しても……」


 あの夜、風竜の風を受け傷めた翼は既に回復していると獣医は診立てている。だが彼を空に連れ出す者がいない。


「口元まで運んでみてもやはり、我々の手からでは」


 このままでは衰弱して飛べなくなるかもしれないと、隊士が心配そうな声を出す。

 グランスレイは手を伸ばし、仕切りの丸太の手摺りを掴んだ。


「──ハヤテ」


 低くその名を呼び掛ける。

 目の前の飛竜は瞳を閉じたまま動かない。このひと月、同じ姿を見せ続けていた。

 ただいつも、耳を澄ませて届くのを待っているように見える。


 聞き慣れた足音と、声を。


「いつでも飛べるように、しっかり食べておけ。心配されるぞ」


 ハヤテは身体の脇に沿わせていた頭を、初めてぴくりと動かした。


「お前の翼は必要なのだから」


 長い首をゆるりともたげ、グランスレイの顔をじっと見つめてくる。

 グランスレイは指で餌の箱を示し、物問いたげな瞳を見返してから、自分を待つ飛竜に歩み寄った。



 隊士はグランスレイの飛竜が天井の開口部から空に飛び立つのを見送っていたが、ふと視線を落とし、驚きと喜びを顔に広げた。

 ハヤテは首を伸ばし、兎の肉をかじっていた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ