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第1章『遠雷2』(4)


 ファルシオンは寝台の縁に腰掛け、庭園への硝子戸を覆う日除け布の合間から、次第に広がって行く淡い明け方の光をじっと見つめていた。


 昨日からずっと弱い雨が続いていて、光は細い隙間に遠慮がちに滲んでいる。

 何度目の朝を迎えるのか──、今日はもしかしたらという希望が毎日のようにあり、そして日が暮れ、夜には落胆と、もう一度、明日への期待を(いだ)きながら瞳を閉じる。

 その毎日。


 西海との戦場から伝わってくる報せは一進一退し、イスと対峙しているランドリーの北方軍はもとより、ボードヴィルの戦場にいるヴァン・グレッグの西方軍、そして東方公と対峙を続けるミラーの東方軍も、出兵からひと月経っても戦場から戻る気配は無かった。

 その変わらぬ報せを受ける毎日。


 先月二十五日、フィオリ・アル・レガージュに新たに西海軍二千が進軍し、唯一王都に残っていた南方将軍ケストナーもまた、南方第五、第六、第七大隊計九千を率いてレガージュの防衛に向かった。

 ファルシオンには事細かには伝えられていなかったが、各地で兵が命を落としている事も、ファルシオンは理解していた。


 初めの内、王都の住民達は西海軍との戦いがひと月の間には終わるものと思い、王城もまた、五月――風来しの月の間には戦況は落ち着くのではと考えていた。

 だが、今、新たな月を迎えている。

 簡単にはこの戦争が終わらないのではないかという不安がじわりと王都の中に広がり、それは王城の官吏や、そして国内の貴族達の間にも広がり始めている。

 それもまた、ファルシオンは理解していた。

 それに対して自分はできる事がなく、もどかしい想いが日毎に募る。


 ファルシオンは溜息を吐き、首から下げた細い鎖の先の、冷えた青い石を両手の中に包み込んだ。

 ずっと身に付けているそれは、色を鈍くくすませたまま、温もりを帯びる事も無い。

 それでも小さなその石の表面に触れ、内側を覗き込むとほんの少し、心の奥が軽くなるように思えていた。


(だいじょうぶ──)


 多くの人達が自分を支えてくれている。

 まだ誰も支えられない、それこそ国を支える事などできるはずのない自分を、それでも支えてくれている。

 だからファルシオンにできるのは、それに精一杯応える事だ。

 大切な人を思い浮かべれば、その力が湧いてくるようだった。


(父上、母上、姉上)


 それから、ボードヴィルの兄。


(きっとだいじょうぶ──)


 それから──。



 でも、と、ふいに不安が差し込む。

 レオアリスが目覚めないのは、ファルシオンだからだったとしたら。

 父王ではないからだとしたら。

 戦争がいつまでも終わらないのは。

 父王であればと、誰もが思っているのではないか。


 今まででさえ、何人もの貴族達が東方公へ賛同の意を示しているのもまた、ここにいるのがファルシオンだからだ。

 幼く、何の力もない、ファルシオンだから。



 カチリと微かな音が耳朶に触れる。

 寝台の傍に置かれた瀟洒な台の上にはもう一つ、ファルシオンが大切にしている懐中時計が時を刻んでいる。

 六刻ちょうど──その文字盤を確認し、ファルシオンは裸足の足を寝台の床に落とした。

 それを見計らったように寝室の扉がそっと叩かれる。


「おはようございます。ファルシオン様──」


 入室したハンプトンはファルシオンが寝台の傍に立っているのを見つけ、品の良い眉を微かに寄せた。


「今日もお早いお目覚めですね、殿下。ですが床は冷とうございます、靴下もお履きにならず床に降りられてはお身体に障ります」


 ハンプトンは心配を隠した柔らかな口調でそう諭しながら、ファルシオンに歩み寄り、後ろに続く侍従が捧げていた籠から絹の靴下を取り出すと、ファルシオンの足元に膝をおろした。

 靴下を履かせ、続いて靴に足を入れるのを手伝う。

 ハンプトンは顔を上げ、幼い王子の顔を見つめた。


「良くお眠りになられましたか」

「だいじょうぶ」


 いつも同じ繰り返しだ。

 ほんの二ヶ月前まではハンプトンがそう問うと、時折まだ眠いと拗ねた素振りを見せたものだったが、最近のファルシオンはめっきりそうした態度を取らなくなった。

 ハンプトンにとってそれは、喜ばしい事ではなかった。


「今日は小雨が降っておりますので、朝の卓は東翼のお部屋に整えております」


 少しでもファルシオンが気持ち良く過ごせるようにと、ハンプトンは常に気を配っていた。居城にいる間だけはせめて。

 温室を用意しようと考えたが、温室には地下への扉があり、それがハンプトンを躊躇わせた。

 そしてハンプトンは、ファルシオンが時折、その扉を潜るのを知っていた。


 その事がファルシオンの心に落とす影と光、どちらが強いのか。ハンプトンには判断がつかず、あの夜に地下を駆け下りた記憶が不安を蘇らせはしないかと心配しながらも、ファルシオンが地下へ降りるのを止める事はできなかった。


 身支度が終わるとファルシオンは侍従達に礼を言い、ハンプトンの前をぱっと駆けた。輝く笑顔をハンプトンに向ける。


「お腹が空いた、ハンプトン、早く行こう」


 ハンプトンも微笑みを返す。

 元気な姿を見せようと努めているファルシオンに。


「お待ちください、ファルシオン様」


 ファルシオンを追いかけて歩きだす前に、ハンプトンは淡い光が滲む窓へ視線を向けた。





「もう間もなく、殿下がお出ましになられます、お待ちくださいませ」


 ハンプトンはそう言って、膝をついているセルファンへ顔を伏せた。セルファンは広い居間に膝を付き、ファルシオンが出てくるのを待っている。

 朝、ファルシオンが執務に出るのをこうして迎え、執務を終えればまた館へと送る。王太子守護を任命されたセルファンはこの一月の間必要以上を語らず、やや距離を置いてファルシオンの守護の任を務めていた。


 もう少しファルシオンとの距離を縮めてもらった方が良いのではないかとハンプトンは時折考えたが、セルファン自身第三大隊大将としての本来の任務もあり、そしてまた現在の近衛師団全体を支える責務も帯びている。

 そしてセルファンが距離を保つのは、それらの理由だけではないのだとも分かっていた。


 扉が開き、侍従が室内に声を掛ける。


「王太子殿下のおなりです」


 開いた扉からすぐにファルシオンが居間に入り、セルファンは一度深く顔を伏せてから、立ち上がった。

 ファルシオンに付き従っていた警護官がセルファンに託すように壁際へ下がる。館の警護は近衛師団第三大隊の隊士と王の館の警護官が、その任に当たっていた。一月前と顔ぶれがあまりに変わったために、ファルシオンの心情を慮り、王宮警護官もやや遠巻きにした体制だ。

 だがファルシオンの館の修復が終われば、王の館の警護官達から何名か、そのままファルシオン付きになる予定だった。


「いつもありがとう、セルファン」


 ファルシオンがセルファンへそう言うと、セルファンは表情をやや崩し、笑みを返した。






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