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第4章「遠雷」(1)

 


 王城北棟の大理石の床には幾つもの格子窓の影が並んで落ちかかり、緩やかに右へと弧を描く長い廊下を彩っている。


 硬い足音を響かせる廊下は冷えた静けさに満ちていながら、高い天井を支える柱の下や、扉の前、窓のそば、どこへ目を向けても二人、または三人と、肩を寄せ合うようにして言葉を交わす姿が容易く見つけられ、廊下に沈殿するそのさざめきは冬の木立の密やかな葉擦れの音を思わせた。

 それはこの場だけに限ったものではなかったが、ここ内政官房のある廊下でも、朝からずっと誰かが誰かしら知った顔を見つけては足を止め、それぞれ他の耳を気にして距離を取りつつも、気心の知れた者同士の本音の透けた探り合いを重ねていた。


 下位の事務官服を身に付けた若い男は、そこをゆっくりと歩いていく。


「王太子殿下の館が襲撃されるなど……しかもそれがよりによって第二大隊とは」

「引責問題じゃないのか、近衛師団っていうか、まあはっきり言えば」


 横を通りかかる男には気付かず、窓際に陣取っていた内務官の一人が顔を伏せがちに相手の表情を伺う。他の二人も頷いた。


「結局、相応しくなかったって事だ。やはりもっと経験を重ねた者でなくては」

「そう思うよ。どう責任を取るのか、さすがにこれまでみたいには」


 彼等の横を通り過ぎても、その先で続きのような会話が聞こえてくる。


「これまではヴェルナー侯爵が後ろ盾でもあったが、今の状況では」

「どうだろう、王太子殿下が」

「いや、そもそもご子息が近衛師団の」


 男は事務官達の表情を視界の端に捉えて過ぎ、どこも似たような会話が交わされる長い廊下を歩いて、ほぼ足音を立てずに冷えた階段を降る。

 踊り場にはやや年配の文官達が三名、書類を抱え足を止めている。


「東方公まで――」

「この混乱を、大公はどう収めるおつもりなのだろうな」

「さすがに大公も頭を悩ませておられるのでは? 我々にもどのような指示があるか――すぐに慌ただしくなるのでしょうが」

「不安だよ、実際。そもそもこんな状況でヴェルナー侯爵も身罷られ……」

「後任の副長官は」


 四十代前半ほどのその内務官が一層声を落とす。


「いずれにせよ王太子殿下はまだお若い、やはり政治的な事は難しいし、こんな状況をまとめる事などそれこそ」

「陛下の指示とはいえ、もう状況は……」


 男が横を通り過ぎてようやく、内務官達はその存在に気付き、さっと口を閉ざして男の後ろ姿を見送った。下位の事務官だと、ほっと息を吐く。


「ま、まあ、大公のご指示を待つ他ありませんが、いずれにしてもかなり混乱するのでしょうね。我々も心構えをして迅速に対応していかなくては――」


 男はそのまま階段を三階へ降りると、そこから王城東面の地政院へと足を向けた。


 地政院は東の棟の一階から四階までを占め、内政官房、財務院、正規軍総司令部と比べても格段に規模が大きい。

 青年はそこを、三階の廊下から二階へ、そして一階へ、誰の意識にも引っかからずに歩いて行く。

 組織規模にも関わらず、地政院の廊下はどこも息をひそめるように静まり返り、人の姿は時折書類を抱えて足早に過ぎる事務官ばかりだ。

 辛うじて普段に近い姿を見せているのは、一階の許認可を行う窓口だけだった。


 二階まで吹き抜けになった広い空間には、奥に座る文官や事務官達の話し声よりも、窓口を訪れた王都の商人や職人達が小声ながらも興奮気味に交わす噂話が目立つ。


「昨夜の騒動、俺は遠目に見たんだ。王城の上に馬鹿でかい竜がいて」

「それは聞いたけど、本当か? そんなもんいたら今頃俺たちは街ごと消えてんじゃないのか」

「だから王の剣士と、法術院の院長が」

「昨日、街に現れたってバケモンも」


 待合室にはそれぞれ数人の塊ができ、本来の用で事務官に呼び出されるのすら惜しいように熱心に話し込んでいる。


「陛下が戻らない状況で、こんな次々と騒ぎがあって、この先どうなるんだ?」

「昨日の騒動で、王太子殿下は御無事なのか」

「商売はどうなるんだろうな、私の所は東に商隊を送る時期なんだ」

「西は主要な取り引きはレガージュとだ。その前にあるボードヴィルが混乱してるとなると、影響も」


 待合室の真ん中に置かれている記載台で申請書類に書き込む振りをしている青年のすぐそばでも、三組ほどかたまり、顔見知りで有る無しに関わらず来る人間を捕まえている。


「西海だろうがすぐ終わるさ、王の剣士が」

「しかし昨夜、近衛師団の中で裏切りがあったって話だ。王の剣士は不在だったってさ」

「殿下の護衛だったんだろう。失態もいいところじゃないか」

「こりゃあ責任取って――」

「何言ってるんだ、これから戦争になろうって時に」

「アルティグレの海魔だって、彼がいなけりゃ」


 興奮気味の待合室と窓口の仕切りの向こうとは、くっきりと明暗が分かれていた。地政院の事務官達は黙々と手を動かし、待合室で噂話に花を咲かせている人集りに声を掛け、また静かに新たな作業を進める。

 話題が自分達に――地政院長官でもある東方公に移ることを恐れ、存在をなるべく消そうとしているようだ。

 ただ、東方公に関する噂はまだ住民達には伝わっていないのか、彼等の口からは聞こえてこなかった。


「レガージュから荷が来るはずなんだが」

「大公は今回」

「正規軍は西方のヴァン・グレッグ将軍が西に行ったって話だ」

「だれかどうにかしてくれる、この国には」

「炎帝公といや、昨日、北街のアルティグレで」


 どこかで時計の歯車が一つ回転する。

 時計塔の鐘が午後の一刻を告げる音を鳴らし、静まった。





 頭上から落ちて来る一刻の鐘の音を聞きながら、中庭から王城の西の棟への玄関を潜る。

 南面にある正面玄関の大広間とは違い、事務的な用途の割合が高いここでは狭い廊下と階段が続いていて、男は壮年の面を一度巡らせ、二階へ上がる階段を選んだ。


 王城の西の棟の三階と四階には、財務院の各部署が扉を連ねている。男がまず上がった三階の廊下でも、財務院の官服をまとった文官達がやはりあちこちで顔を突き合わせていた。

 手にした書類に時折視線を落とす素振りをしながらも、意識を耳に集中し、そこここで低く交わされる言葉を巧みに拾いながら歩く。


「一部の行動とは言え、近衛師団の責任を問わずには終わらないでしょうね」

「第二に全て押し付ければ丸く収まる。そうしてもおかしくは無い」

「それはさすがに」

「どうだろうな、お決めになるのは殿下だ」

「そのような私情を挟むようでは、いくら幼いとはいえ、この非常時をまとめるには力が足りないと言わざるを得ないのでは」

「おい、言葉が過ぎるぞ」


 年配の財務官は素早くたしなめる声が上げたが、若い同僚の失言を完全に否定している訳でもなさそうだ。廊下を見回し、同僚を促して執務室へと入る。抑えた声を扉が閉ざす。

 扉に徴用課の表示が出ているのを横目に過ぎ、男は足を先に進めた。二つ先の扉が開いたままになっていて、二人ほど扉の前で立ち話をしているのが見えた。


「……大公とスランザール公がおられる以上、まあ混乱はするんだろうけど問題はないさ。我々が頭を悩ませるのは国庫の方だ。西海との戦争でどれだけ吐き出すか」

「今のところの計算じゃ、他の予算まで吸い上げる事は無いと思うが、長引くと」


 別の声が混じる。


「しかし問題は体制だ。西方公が不在、東方公も……南方公は政治に興味はおありではないし」


 声は一層低く潜められた。


「こうなると、これから北方公の一強に」

「それは――誰もが考えてるかもな」


 男はさりげなく彼等の横を通り過ぎ、再び階段を四階へ昇った。

 視線を廊下に巡らせる。四階の廊下は誰の姿も無いが、すぐ手前の扉が開いていて、談話室になっているそこから声が漏れている。


「さっき覗いてきたが、地政院は葬儀の場みたいに静まり返っていたぞ」


 声に滲むのは同情に近い響きだ。

「仕方ない」と返した声も、僅かひと月前の自分達の心情――財務院長官だった西方公ルシファーが国を裏切った時の心情を思い出しているようだ。


「しかし、地政院は東方公の長老会も、懇意の人間も多い、彼等がどうするのか」

「東方公に付く者も出始めるのでは……」

「しばらくは人の動きが大きく変わるんだろうな。まあ我々は今さら」


 談話室の前を過ぎる。この階で話し声がするのはそこだけだ。

 男はそのまま廊下を抜け、正規軍総司令部がある南棟へ足を向けた。


 総司令部が置かれている南棟三階の廊下も、交わされる言葉はやはり他と変わらず、熱を持ちながらも低く抑えられていた。

 近付いていく先にいるのは三人の正規軍将校だ。


「何故第二大隊の侵入を許したのか、そこを明らかにして厳密に処分すべきだろうな」


 一人の正規軍将校の声は右手から歩いてきた男を気にしてやや抑えられたが、もう一人はそれすらも忘れて怒りを吐き出した。


「悠長だな。王太子殿下をお守りすべき近衛が、その役割もろくに果たせないなぞ、首を差し出しても責任など取れんだろう!」


 男に背を向けているせいで顔は見えないが、襟の記章は南方軍第一大隊少将、他の二人は横顔が見え、それぞれ同じく第一大隊右軍に所属する少将だ。


「それを言ったら我が正規軍も弱いぜ、イスじゃ」


 左側の将校は最後まで口にしなかったが、憤っていた方もその指摘に口をやや罰が悪そうに閉ざした。


「炎帝公は西海軍にどう対処されるのか」

「ボードヴィルも……ヴァン・グレッグ将軍の西方大隊が、もうそろそろ」


 廊下を進めば交わす声は後ろに流れて消え、だがまた別の会話が耳に入る。


「どうせまた今回も、寛大な処置になるんだろう」

「まったく、それじゃこっちはやってられないな、いくら王太子殿下のお気に入りだとは言え――」

「そんなはっきりと口にするもんじゃ――、おいお前、さっさと行け!」


 後ろを通る男に気付き、追い立てるように手を払う。

 男は頭を下げ、歩き続ける。廊下の先に視線を向ければ、まだ数人の将校が足を止めていて、そこで交わされている会話はそれまでよりもどことなく熱を帯び、耳をそばだてずとも聞こえてきた。


「風竜が西方公に関係しているとなると、西海との戦闘が激しくなるのでは」

「風竜とナジャル――そんなもの相手に我等に勝ち目はあると思うか」

「弱気な」

「風竜がもし、本気でこの国を滅ぼそうとしたら一体誰が」

「お前何を言いたい」

「いや」

「炎帝公がおられるんだ、法術院長もいる、問題など」

「しかし炎帝公は」

「今はボードヴィルの――」



 男はそのまま幾つかの廊下を歩いて声を拾い、北西の棟の四階に戻ったのは、あと四半刻も無く二刻になろうとしている時分だった。およそ一刻ほど場内を歩いて回った事になる。

 廊下の中ほどにある扉を叩き、内側へ開かれた扉を潜った。


 窓の無い前室には、内務と正規軍を回ったもう一人の姿は見当たらない。

 先に入って報告をすべきか、奥の扉の前に控えている女官に目で問うと、女官は椅子を手で指し示し、「今は」とだけ告げた。

 別の先客がいるのだろう。


 示された椅子を断り、男は入って来た戸口近くに立って室内を見回した。

 壁には艶やかに磨かれたやや赤味がかった樫の腰板が下半分に張り巡らされ、同じ樫の天井と腰板に挟まれた壁の上部は、深い緑に繊細な金地の模様を散らした壁紙が張られ、室内の重厚さを増している。

 息を潜めるのに足る部屋だ。

 王城内に設けられた仮の控えの場に過ぎないが、ここで奥の部屋の主との面会を待つ者は、その緊張をより増すのだろう。


 時計の歯車が微かな音を立てる。

 窓の外で二刻の鐘が響いたところで廊下への扉が開き、二十代半ばの青年が部屋に入ると、すぐそこにいた男を見つけ目礼した。


「お待たせしました、ブロウズさん」

「いや、私もつい今しがた戻ったところだ」


 ブロウズはそう返し、青年――エイセルが歩み寄るのを待ちながら、奥の扉へと意識を向けた。どうやら先客が出てくるようだ。

 二人は部屋の右側へと移動して膝をつき、扉が開くのを待った。

 控えていた女官が恭しく扉を開く。

 衣摺れの音と、すぐに扉が閉じる音が立ち、一旦白い光の差し込んだ室内は再び燭蝋の灯りのみになった。


 ブロウズは顔を伏せたまま、視線だけを部屋から出て来た人物の足元へ向けた。ゆったりとした絹の長衣が足首まで覆い、覗く靴先からも身分の高さを読み取れる。

 それが誰だかも、ブロウズ達は判っていた。


「私だけだ。顔を上げて良い、ブロウズ、エイセル」


 促されてブロウズはやや上体を起こし、相手――ルスウェントの胸元に視線を当てた。

 他の長老の姿は無く、ルスウェント一人で訪ねて来ていたようだ。()()()()の話なのだろう。

 薄暗い室内でルスウェントは普段より難しい面をしている。


「二人とも、良く当主を支えよ。これから侯爵の」


 一旦眉をしかめ、言葉を改める。「前侯爵の際とは異なる配慮も必要になろうし、その為の手足も必要となろうからな」

 ブロウズとエイセルは黙したまま、了承の意を示して頭を下げた。


 立ち去ろうとしたルスウェントはふと扉口で立ち止まり、振り返るとブロウズを手招いた。

 側へ寄ったブロウズへ、ルスウェントは声を落とした。


「お前には、繋ぐ役割をしてもらいたい」


 ブロウズが視線を持ち上げ、それまで直には見なかったルスウェントの瞳を見た。

 繋ぐと、そう言った意味を、ルスウェントはブロウズが自分の意図通りに捉えた事を読み取り、女官が恭しく開いた扉から廊下へ出た。


「――」

「こちらへ。お入りいただけます」


 振り返った先で、女官が奥の部屋への扉の横に立ち、二人を促している。

 二人が扉の前に揃うと女官が一度扉を叩き、取っ手を回した。差し込んだ白昼の光が足元に広がる。


 数歩、室内に進んだ所で膝をつく。

 部屋の中央に立っているのはロットバルトだ。その側で衣装官が二人、ロットバルトの纏う衣の裾を整え終わったところだった。

 ブロウズはエイセルと共に、若い当主の前に一度頭を伏せた。


 ロットバルトが衣裳官へ視線を向けると、衣装官は傍の卓の上に広げていた布や装飾品類を艶やかな木箱に丁寧にしまい、一礼してエイセル達が入って来た扉とはまた反対側にある隣室へと下がった。

 膝をついて待つエイセルとブロウズへ、ロットバルトが向き直る。


 身に纏うのはこれまでの近衛師団の軍服とは全く趣の異なる、深い藍色の裾の長い長衣を二重に重ねたもので、ヴェルナー侯爵家当主としての地位を表し、そして喪に服す今の状況を示している。身に纏う者に重厚な品格を求める衣装だ。

 目の前の主はそれを纏うに相応しいと、ブロウズは感嘆を持って心の中で呟いた。


 そしてまた、昨日までと本当に同一人物なのだろうかと、そう思える。

 自分達に向けられる双眸は昨日よりもずっと内心を窺わせず、この若い当主が現状をどう捉え、どう考えているのか、ブロウズの目からは測りようが無かった。

 ()()と、そう言ったルスウェントの目からはどう見えたのか。


「城内は各院とも、概ね反応は変わりません。いずれもご懸念の通り、様々な意見が交わされています」


 ブロウズは城内を回って拾った情報を、主の前に簡潔に並べ上げていく。エイセルも同様に、内政官房と地政院を歩いた情報を一つ一つ伝えた。

 主の上から自らの指針を探ろうとしたが、ブロウズはそれを半ばで諦めた。





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