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第3章「黎明は遠く、風は嘆きの歌を歌う」(9)

 


 いつ終わるとも知れない夜は、気付けば明けていた。


 輝く白と橙と残された藍色が入り交じる空が、中庭を取り囲む高い建物に影を纏わせながら、格子の窓越しに広がっている。

 法術院中庭の噴水が水を吐き出す音は、閉じた窓硝子をすり抜けて川のせせらぎに似た音色で忍び込み、それが却って室内の静けさを増すようだった。


(朝――)


 三日目の朝だ。

 不可侵条約が破棄されてから、僅か。


「ヴェルナー中将」


 呼ばれ、ロットバルトは窓の外に向けていた顔を戻した。

 天井まである書棚に囲まれた部屋は鎖で吊り下げた燭台の灯りも薄く、あたかも室内はまだ夜の中に取り残されているようだ。

 長椅子の前に膝を下ろしていた老法術士が顔を上げていて、その手のひらが先ほどまで発していた光は収まっている。


「――状態は」

「率直に申し上げる事を、お許しいただければ」


 ロットバルトは視線を一度、法術士の向こうに向け、合わせた。


「構いません」


 治癒に当たっていたのはアルジマールが以前、フィオリ・アル・レガージュへ派遣した事もある法術院最高位の治癒師だった。

 ケヴィンという名のその術士は、それでもすぐには口を開かず、ロットバルトが視線を向けた先――長椅子の背に凭れているレオアリスを見た。


「――皮膚及び筋肉、内臓、骨に及んでいた外傷については、一時的な修復は終えました。ですが」

 レオアリスの瞳が動く前に先を続ける。「完全に修復され、通常の活動が可能となるまでには日数を要します」

「いつ」


 喉の奥から押し出したレオアリスの問いに、ロットバルトが言葉を被せる。


「通常の活動とは?」


 物言いたげな瞳がロットバルトへ向けられ、だがその瞳の動きさえ、ひどく重い。


「一般的にはこれほどの損傷を負えば、法術で傷を塞いだとしても自力での歩行が可能になるには、どれほど早くてもひと月ほど――、

 それも後遺症が出なかった場合です。剣士の治癒力を考えれば、通常では機関も後遺症も問題にもならないものかも知れませんが、今回はそれが逆に働くだろうと」


 後半は恐らくアルジマールの言葉だ。

 逆に働く――

 あの時、癒えるそばから再び傷が開いていたその光景が、アルジマールの言葉を一層際立たせている。


 レオアリスは息を、ごく静かに、吐き、瞳を閉じて長椅子に深く身を委ねた。

 トゥレスとの戦いまでは無理矢理保たせていた身体は、ファルシオンの前を退いた後から、ほとんど動かせなくなっている。レオアリス自身は何も言わないが、腕を持ち上げる事も困難に見えた。


 ケヴィンは頭を傾けて目礼し、立ち上がるとその足でロットバルトへと近寄った。


「貴方の手当てもしましょう。血止め程度しかされていない。それが終われば、フレイザー中将も」


 ロットバルトへ後ろの椅子に座るようにと促し、負傷の深い左肩へ手をかざす。

 ひとしきり治癒の術を施し、それからケヴィンはかざした自分の手に向けていた視線を上げた。


「――剣を通常通り用いる事ができるのがいつになるかは、我々には判断しかねます」


 ロットバルトは灰色の双眸を一度見据え、頷いた。ケヴィンの向こうに、長椅子に凭れて目を閉じているレオアリスを確認する。

 ケヴィンはゆったりとした灰色の法衣に手をしまい、再び立ち上がると、今度は扉へ向かった。隣室に繋がるそれを開く。


「私はしばらく――少なくとも大将殿がここを離れられるまでは隣室におります。何かあればすぐにお呼びください」

「有難うございます」


 扉が閉ざされる間、隣室にいたフレイザーがケヴィンに問いかける声が漏れ、その声は途中で扉に遮られた。


 ロットバルトは扉の閉じる音を聞きながら、椅子に腰かけたまま膝に腕を置き、やや離れて置かれている長椅子の脚元に視線を落としていた。

 必要なのは眠りだ。

 レガージュのユージュが長い時を掛けた眠り、ザインが断続的に繰り返す、その眠り。


(バインドはどれほどを要した――?)


 数日なのか、数か月なのか――それとも再び王都に現われるまでの、ほとんど十七年間、そのものなのか。

 測れる基準が何も無い。


 息を吐き、上体を起こして椅子から立ち上がると、卓の上に畳まれて置かれていた掛け布を手に取った。長椅子に近寄り、椅子の背に身体を預けているレオアリスを見下ろす。


 アルジマールもケヴィンも館に戻り休養を取る事を勧めたが、レオアリスはそれを容れなかった。身体を横たえる事も――

 眠る事そのものも。

 ()()()()()()()()()()()()


「――」


 布をかけようと身を屈めたロットバルトを、レオアリスの掠れた声が止める。


「いい――、(わずら)わしいんだ、少し。……悪いな」


 そのまま視線を持ち上げ、ロットバルトを見上げた。


「いつ呼ばれる?」


 見下ろす先にあるのは、どこまでも深い、見通す事のできない夜の空のような色だ。

 ロットバルトが迷ったのは答えを返す事が(はばか)られたからではなく、レオアリスの問いに対する情報を持っていなかったからだった。


 ただ、今この段階でも、協議が行われているはずだ。

 レオアリスが不在の状態で。

 グランスレイが同席している。


「判りません。副将がお戻りになれば情報があると思いますが、おそらく早ければ午後に入った段階でしょう」

「――まだ、長いな」


 レオアリスは視線を流し、窓の外の光に瞳を細める。ロットバルトは対照的に、長椅子の後方の壁にある時計の盤面を見た。

 時計はもう六刻を指し、レオアリスを連れてこの法術院に移ってから既に一刻ほどが過ぎていた。


 クライフは事後の対応で居城に残り、グランスレイは早朝に招集された協議の場に大将代理として出席している。

 ファルシオンは戦いと風竜の出現で荒れた王太子の館から暫定的に王の館に移り、その守護もまた暫定として、近衛師団副総将ハリスが担う事となった。


 このままハリスが担うか――、いずれにしてもレオアリスが再びファルシオン守護の任を命じられる可能性は、著しく低い。


(仕方がない――)


 ファルシオンはレオアリスが居城に(とど)まり、自分の側で治癒を受ける事を望んだが、誰一人、スランザールもベールも、グランスレイも、賛同する者はいなかった。

 ロットバルトもだ。

 そして何よりも、レオアリス自身がそれを良しとしなかった。


 今は協議待ち――まだ時刻は決まってはいないが午後に開かれる協議の場で、今回の件への処遇が決まる。

 それを待っている。


(恐らくは、厳しい処置になる。せざるを得ない)


 その中での最善を選ぶしかない。

 ファルシオンの守護、王の不在、国内の混乱、そしてボードヴィルと、西海。


 ロットバルトは右の手のひらを広げ、そこに視線を落とした。

 昨夜、その手にした物は今は手元には無いが、実体としてここに無いだけで、状況は既に引き返しようのないものになっている。


(どこまで、時間がある――?)


 どこまでそれを作れるか。


「――ロットバルト」


 呼ばれ、視線を向けられる瞳に戻した時、扉を叩く音がした。

 フレイザーが室内に入って後ろ手に扉を閉ざし、一度心配そうにレオアリスを見つめ、それから伺う視線をロットバルトへ向けた。

 ケヴィンの法術で既に治癒を終えていたが、それでも残る疲労と、それ以外のもう一つの理由からか、薄暗い部屋の中ではフレイザーの面も蒼褪めて見える。


「副将から、これから一度戻られると連絡があったわ」










 アスタロトは謁見の間から戻り、王城南棟の四階に置かれた正規軍将軍としての執務室に入った。

 広い室内はがらんとして誰の姿も無く、正面の窓からは白々とした朝陽が真っ直ぐに差し込んで、大理石の床や壁、そこに置かれた執務机や家具類が無機質に照らし出されている。


 沈殿するような冷えた空気を揺らし、アスタロトは差し込む光に引き寄せられるように、南の壁いっぱいに広がった硝子戸へ近づいた。

 ふと、硝子戸の前に置かれた卓で足を止め、手を伸ばして抽斗を引く。

 伸ばした拍子に右腕に零れた黒髪に、触れる。


「――」

「アスタロト様!」


 咳き込むような声に振り返ると、たった今入ってきた戸口にアーシアが立っていた。アーシアは束の間言葉を飲み込み、そのままアスタロトをじっと見つめた。

 アスタロトはゆっくりと――、それまで胸の奥に溜め込んでいた息を吐いた。


「アーシア――」


 アスタロトが浮かべたほんの微かな笑みに、アーシアの血の気の無い頬にようやく、少しばかりの赤みが差す。

 静かな足取りでアスタロトへと近づき、右手を持ち上げると、零れるアスタロトの黒髪に触れた。


「お(ぐし)が」

「うん。そうだね」


 風竜の風で受けた傷は全て塞がり痕は残っていないが、その分長い黒髪のあちこちが無造作に断ち切られているのが、一層痛々しく見える。アーシアは何を言うべきか、言葉を探して眉を寄せた。


「大丈夫」


 アスタロトは抽斗から細い銀の短剣を掴むと、硝子戸を開けてその先の露台へと出た。室内へと流れ込む風が黒髪をあおる。

 風の中、不揃いに断たれた髪に腕を回し、束にして肩の前に流した。

 鞘から引き抜いた短剣の、澄んだ刀身が朝の光を弾く。


 アーシアは眩しさに手をかざし、そして、陽光に霞むアスタロトの姿に思わず息を呑んだ。


「アスタロト様、何を!?」


 駆け出したアーシアがアスタロトの腕を掴む前に、艶やかな黒髪は首筋の位置でざくりと断たれた。

 握った手からこぼれた幾筋かが露台の白い床に散る。


「アスタロト様!」


 悲鳴に近い声を上げ真っ青になったアーシアに、アスタロトは大したことはないのだと、笑って見せた。


「いいんだ、髪なんて、また伸びる」

「で、でも――でも!」


 慌てふためくアーシアへ手を伸ばし、アスタロトはその身体をぎゅっと抱きしめた。自分より少しだけ背の高いアーシアの、肩口に顔を埋める。


「いいんだ――」

「……アスタロト様――」


 アーシアの声がくぐもって聞こえる。伝わって来る体温は温かい。


「――私は」


 髪を切ってみたところで、実際には何かが変わる訳ではない。

 断ち切れる訳でもない。


(私は)


 何もできなかった。

 イスで――

 庭園で。

 あの苦しみを見て。

 そんな自分が何より許せず、もどかしい。


 先ほどの協議で、誰も、あの場にいた誰もがこの状況を全て判っているはずなのに、誰一人、アスタロトの言葉に頷かなかった。グランスレイさえもだ。


(誰もそんなの、望んでないのに)


 風が強く吹き、切ったばかりの髪を首筋で遊ばせる。

 アスタロトはアーシアの肩越しに、王城の屋根の向こうに広がる滲む空を見上げた。







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