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第3章「黎明は遠く、風は嘆きの歌を歌う」(3)

 兵士達が道を開けた正面に、トゥレスと、そして第二大隊の隊士と法術士に囲まれたファルシオンの姿がある。

 二人の姿がレオアリスの視界に、明瞭に浮かび上がっていた。


「アルジマール院長、治癒を」


 アルジマールはレオアリスの後ろ姿を見つめ、一つ息を吐くと右手を持ち上げ、その背に指先を当てた。


「本人の治癒力を前借りするんだから、反動はあるよ。君は充分判っていると思うけど、法術による治癒というのは本来そういうものだからね。無から有は創り出せない。僕の見立てでは、今の君の」

「構いません」


 遮ったのは決して投げ遣りな響きではなく、だからこそアルジマールは憂いを以ってそれを聞いた。


「ここで立たなかったら俺には、何の意味も無いんです」

「意味は――、一つじゃないし、縛るものでもないよ」


 けれどアルジマールは今度こそ、諦めを含んで溜息を零した。

 レオアリスの背に当てた手が白く輝く。光は触れた五つの指先から背中に吸い込まれ、レオアリスは一瞬、歯を食い縛り、上体を揺らした。


「剣は――」


 アルジマールはその先を、レオアリスにしか聞こえない声で呟いた。


「判っています」


 一つ、ゆっくりと息を吐き、踏み出す。


 緑の芝を踏む音が、息を潜め静まり返った庭園に微かに鳴る。それは不思議に静かな光景だった。

 ここはまるで血を流す戦いの場ではなく、あたかも予め(しつら)えられた一幕であるかのように、肩から流れる漆黒の長布が足を踏み出すごとに、ただ風に揺れる。


 息を詰めて待つ隊士達の前で足を止めると、レオアリスは右に立っていたクライフへ僅かに首を傾けた。


「悪いが、剣を貸してくれ、クライフ」


 クライフは驚きに瞳を見開き、だがすぐにその言葉の意味する事を理解して唇を噛み締めた。剣帯に佩びていた剣を鞘ごと外し、レオアリスへ差し出す。


「返してくださいって言っても、無駄でしょうね。しょうがねぇから鍛治師にゃ後で上将が謝ってくださいよ」


 レオアリスは口元を微かに緩め、剣を掴んだ。


「皆にも頼みたい」


 グランスレイが無言で隊士達へ視線を向ける。

 前列の隊士が自分の剣を剣帯から外す。


 レオアリスはクライフから受け取った剣一振りの鞘を払うと、右手に抜き身の剣を提げ、トゥレスと相対して立った。

 その立ち姿はこれまで幾度も見てきたもので、その手にした剣だけが普段と異なる。


 トゥレスは正面にある姿に瞳を細め、一歩進み出ると朗々と声を張った。


「さて――」


 庭園に戻ったカスパー達第二大隊の飛竜十一騎が、ファルシオンを囲む隊士達を背にしてトゥレスの左右に降り立つ。


「伝説の風竜の出現とは、意外な騒動と幕切れではあったが――お集まりの諸兄」


 対してセルファン等の飛竜九騎が庭園から空への道を塞ぐように位置取り、およそ六十名の第二大隊の正面には、僅か七間を置いてグランスレイ、クライフ、そして第一大隊の二小隊百名が対峙している。


 自らを囲む人の壁をぐるりと見渡し、トゥレスは正面に立つレオアリスを見据えた。


「今、我々は王太子殿下を保護している」


 この状況でトゥレスに有利な要素は、ただその一点だけだ。

 それ以外、あらゆる面において――戦力、大義、ファルシオン自身の想い――あらゆる面において、トゥレスの未来を拓くものなど一つもない。

 それを全て、トゥレスは理解していた。

 理解していてなお、この状況を好ましいと、そう思う自分をやや呆れた目で眺める。


「王太子殿下の御身は何ら変わらず、だが今後、我々第二大隊が殿下の身辺をお守り申し上げる事を宣言する」


 僅かな空間を挟み、昨日まで同じ剣を取る仲間だった隊士達が睨み合う。けれど悲壮感すら漂わせるのは第二大隊ではなく、第二大隊を討とうとする第一大隊と第三大隊の隊士の方だ。

 レオアリスは緩く渡る風に言葉を乗せた。


「ファルシオン殿下は、返してもらう」


 その言葉の意味を飲み込み、庭園の空気がひりつく。


「そんなボロボロの身体で、これ以上まともに戦えるのか?」


 返すトゥレスの表情を、レオアリスは真っ直ぐに見据えた。


「俺が戻るのを、待ってたんだろう、あんたは」


 トゥレスの面に虚を衝かれたような驚きと、次いで苦い笑いが広がり、それを見つめるレオアリスの頰にもまた、微かに笑みが浮かぶ。

 だがそれは、憂いと、嘆きと、苦痛すらも含んだものだ。

 トゥレスが僅かに肩を持ち上げる。


「確かに、その通りだ」


 浮かんだ笑みから苦笑と自嘲の色が消えていく。


「正直に言えば俺は残念でね。お前とはどうあっても、真っ当な状態では剣を打ち合わせられない事がな」


 レオアリスは遠間にトゥレスの瞳を覗き込む。どのような想いが、意志がそこにあったが故にトゥレスがこの道を選んだのか、汲み取れるものならば汲み取りたいと、そう思っているように。


 隊が違えば日々言葉を交わす訳ではないが、レオアリスはトゥレスの上に、近衛師団としての誇りと尊厳とを確かに見ていた。

 同じように御前試合を制し、近衛師団の大将位に就いた者として、その言葉や示すものに自らの在り方を見出(みいだ)そうとする面もあった。

 王と王家を守護する近衛師団としての、その意志は同じだと――


「何故、こんな事をする必要があったんだ、トゥレス」


 トゥレスは隠す事なく、その面を掲げている。


「近衛師団の役割は、王と王家の守護だ。それは俺だけでも、セルファンだけでも、トゥレス、お前だけでも果たせる事じゃない。近衛師団は誰か一人で成り立つものじゃない。そしてどこか一つ欠けても、課された任務を全うするのは難しい」

「なるほど、理解するさ。俺もその考えは全くもって同感だ」


 返す言葉は静まり返った庭園に遮るものも無く響く。


「だがそもそもお前のその考えは、お前自身の望みが充足された上でのものだろう」


 レオアリスは僅かに唇を開き、すぐに引き結んだ。


「……それは、違う」

「どうだろうな。お前は王の剣として、お前自身が過分と考えるものはあったとしても、今の立場に不足など無かったはずだ」


 漆黒の瞳を、緩く瞠る。


「俺が思うに、お前自身、真には近衛師団の役割を理解していない」

「――」

「ファルシオン殿下は守護たるお前が傍にいない事に、不安を覚えておられた」

「それは!」


 堪らず叫んだのはフレイザーだ。


「それを貴方が仕向けたんでしょう!」

「その通り――だが、選んだのはレオアリス自身だ。違うのか」


 トゥレスはフレイザーへ視線を向ける事もなく、レオアリスを正面に見据えている。


「ファルシオン殿下がこの状況で、何から目を逸らさず、何の為に前を向いておられたか、お前は理解しているのか?」


 言葉はどこか慮るように響き、だからこそ鋭くそこに潜む形を浮かび上がらせた。

 レオアリスが肩を揺らす。


「お前の主が、王ただ一人なら――」


 揺れる瞳が、トゥレスの後方に立ち自分を見つめるファルシオンへ、流れる。

 その視線の動きを見据えながら、トゥレスはゆっくり、含めるように断じた。


「今すぐ、ここから去れ」


 静寂が身を縛るように感じられる。

 レオアリスは見開いた瞳を、どこへ向ければいいか判らないまま彷徨わせた。


「――俺は……、」

「……ちがう」


 ファルシオンが首を振る。懸命に首を振ったが、レオアリスの瞳はファルシオン自身を捉えていない。

 ぎゅっと唇を噛み締め俯いたその様子へ、トゥレスは視線を落とし、そしてレオアリスへと戻す。

 片頬に笑みを刻んだ。


「これ以上は俺の柄じゃないな。さて、時間も無い――大将同士、互いの意志を賭けての一騎打ちとでも行こうか」


 トゥレスは芝を蹴り、一息に踏み込んだ。

 右手に握った剣を空を切り裂いて薙ぐ。

 切っ先が立ち尽くすレオアリスの喉元へ迫る。


「レオアリス!」


 幼い声にレオアリスははっと瞬き、喉を切り裂く寸前の刃から、身を反らした。

 皮膚を掠めて鮮血を散らす。トゥレスはその剣を振り切らず、手首を返し斜め下に叩き下ろす。

 一瞬遅れてレオアリスが応じる。


 鋭い金属音と共に刃が刃を捉え、弾く。

 弾かれた剣を同時に返し、再び互いの正面で撃ち合う。

 レオアリスの左足が一歩、退がった。





(後退――)


 グランスレイは眉を寄せた。

 トゥレスの剣は苛烈だが、レオアリスがただの剣を受け押される事があるとは、グランスレイはこれまで想定してさえいなかった。

 そして浅くとは言え、喉に受けた傷――通常の剣がその身に傷を負わせたのを見るのも初めての事だ。


(上将)


 隊を動かすか。

 そう考え――だが。

 グランスレイは二人の姿を見つめ、拳を握り締めた。





 クライフは自分の考えが不謹慎だと判っていた。

 目の前で繰り広げられる剣撃は、直に相対すれば目で追う事すら難しく、たった一つの気の緩みが生死を分ける。


 けれどその一振り一振りの剣の閃きが、打ち合い軋る音が、鋼の鈍い輝きが――、美しいとさえ思い、惹き込まれる。およそ剣を手にした事のある者ならばなおさら、否応なく。

 傍らを見ればグランスレイもまた立ち尽くし、二つの拳を強く握り食い入るように戦いを見ていた。

 周囲の隊士も。第一大隊も第二大隊も、セルファン等第三大隊の隊士達もまた、息を飲み、二人の剣が撃ち合う様を見ていた。


(――これが)


 ぐっと奥歯を噛みしめる。

 言葉も無く見つめるその誰もが心のどこかで、これがただの、例えるならば御前試合の場であればと、そう願っていただろう。





 噛み合い凌ぎ合った鋼が高い音を放ち、弾き、跳ね上がる。

 踏み込み、払い、薙ぐ。

 瞬きの間に三度もの斬撃を交わし、互いに弾き合った勢いを一歩引いた足で殺す。

 二人同時にその足で芝を蹴った。レオアリスが下方から剣を掬い上げ、トゥレスが頭上から振り下ろす。

 鈍く、くぐもった音が耳を打つ。


 トゥレスの剣を受けたレオアリスの剣が、鍔元から音を立て、砕けた。

 どよめきが上がる。


「上将!」


 レオアリスは振り切られた剣を後方に跳んで躱し、踏み込むトゥレスに瞳を据えたまま、左手を伸ばした。

 まるで初めからそこに置かれていたかのように、飛来した剣の柄を掴む。グランスレイが投げ入れた長剣だ。


 腕に加わる速度を剣に乗せ、レオアリスは膝を屈め、前へ出た。

 トゥレスの横薙ぎを潜るように迎え撃ち、剣身の下腹に沿って刃を滑らせる。

 トゥレスが左膝を跳ね上げる。頭を逸らして蹴りを躱し、レオアリスは宙で身体を返すと、着地と同時に剣を右手に持ち替え、踏み込んだ。

 間髪入れず互いの剣が噛み合う。

 一瞬、金属音の余韻が庭園を縛り、次の呼吸で解かれる。





 切結ぶ毎に右腕に伝わる鈍い痺れに、トゥレスは口の端を歪めた。

 振り切られれば間違いなく身を二つに断たれる、幾度となく背筋を凍らせる感覚。

 それが全身に伝わり、心地良い。


(終わってるぜ)


 ただレオアリスの剣にはまだ、迷いがある。

 何度目か、互いが互いの剣を弾く。剣と共に右腕が後方に流れ、レオアリスは体勢を崩し、芝に片膝をついた。

 トゥレスが右足を踏み出し、一息に、袈裟懸けに剣を振り下ろす。

 レオアリスの剣が青白い光を帯びた。


 トゥレスの剣がレオアリスの肩を捉える寸前、青白い光を纏った剣がそれを阻み、次の瞬間、二つに折れた。

 だがトゥレスの剣もまた、音を立てて折れる。


 トゥレスは根元から折れた自分の剣をちらりと見て、笑い――後方へ身を蹴り出すと、そこに立つ第二大隊隊士が帯びていた剣を後ろ手に掴み、引き抜いた。

 レオアリスも後方へ降り立ち、トゥレスとほとんど同時に隊士の差し出した剣を掴んで引き抜く。

 芝を蹴る。

 再び、鋼と鋼が打ち合い、高い音を放つ。





 ロットバルトもまた、二人の剣撃が創り出す光景を見据えていた。

 トゥレスの副将キルトは、この光景を見たかったのだろうと、そう思う。


 この広い庭園に今は囃す声も、(とど)める言葉も無い。時折息を呑み、息を吐く。

 それほどに美しく、心が惹き込まれる。

 けれどそこにあるのは紛れもない命のやり取りだ。


 レオアリスは普段とは異なり自らの剣を出さず――、出せず、その身に蓄積した苦痛と疲労はほぼ限界に達している。

 ある意味トゥレスの剣技によって、剣士としての本能的な部分が引き出されてはいるが、剣撃は鋭く見えて、だがほんの微かな迷いがある。

 トゥレスが告げた言葉と、それ以上に。


 ロットバルトは第二大隊と館に挟まれるようにして立つファルシオンの、不安に張りつめた面を見た。


「――」


 不意に、ロットバルトは手を伸ばし傍らの隊士が持つ弓を掴んだ。

 アスタロトに寄り添い肩を抱いていたフレイザーが、驚いて顔を上げる。

 ロットバルトは弓に矢を番え、矢尻は真っ直ぐにファルシオンへと向けられている。


「ロットバルト!? 何を」


 制止の声を上げかけた時、トゥレスとの激しい剣撃の中で、レオアリスがぴたりと足を止めた。





 レオアリスは唇を噛み締め、乱れた息を抑えた。

 初めの数合で簡単に息は上がり、アルジマールの法術が抑えたはずの傷は、全身に痛みを滲ませる。


 トゥレスの刃が耳の横を掠める。剣を弾く右腕に薄い刃で撫でるように痛みが走る。その痛みが皮肉にも、時折霞みかける意識を繋ぎとめた。


 繰り出される剣撃の向こうの、トゥレスの姿。


『お前は、真には近衛師団の役割を理解していない』


 違う、と、心が否定する。


 ずっとここに在ろうとした。

 在ろうとしてきた。

 近衛師団として――御前試合を経て、近衛師団に入隊し、大将位を預かり、王から預かった隊を率いる立場として――


「――」


 そうだっただろうか。


 本当に?


『近衛師団の役割を、理解していない』


 レオアリスは、ぴたりと足を止めた。

 視界の端に、横薙ぎに撃ち込まれるトゥレスの剣を捉える。

 本能的に弾き、だが刹那に軌道を変え迫る剣を避けようとした時、足元から赤みを帯びた光が立ち昇った。

 レオアリスの身体を包む。


「な、ん――」


 身体が動かない。

 トゥレスの剣が左肩を深く捉え、胸へと切り裂いた。

 赤い血が散る。


 レオアリスの正面で、切り裂いたトゥレス自身が、自らの剣の手応えが俄かには信じられない顔で切っ先を睨んだ。その指し示す先を。

 その場に縫い留められたかのように立ち尽くしたレオアリスの足元に、一抱えほどの法陣円が赤い光を放ち、浮かび上がっていた。

 左胸に斜めに刻まれた傷がどくりと血を流し、青い芝の上に滴り落ちた。


 それまでの息を呑む光景から覚め、だが何事が起ったのか理解しかねて、庭園は水を打ったように静まり返った。その中にややしゃがれた声が響く。


「もう充分だろう、トゥレス大将。いつまでも楽しんでいて貰っては困るのだ」

「――」


 トゥレスは振り返り、首を傾けて自らの背後に控える第二大隊を見た。

 正確にはその更に後方、ファルシオンの傍らに立つ、灰色の法衣に身を包んだ二人の法術士を。法衣から伸びた手は、瞳を見開いたファルシオンの腕をしっかりと掴んでいる。


 驚きに立ち昇る騒めきを、空を打つ弦の音が切り裂いた。

 ロットバルトの放った矢が法術士の目前に迫り、だが突き立つ寸前で砕ける。


 我に返った第二大隊の隊士達が剣を掴み、法術士を取り囲む中、一人、法術士が悠然と進み出た。

 その手に項を開いた書物が置かれている。それはレオアリスの足元から立ち昇る光と同様、赤く揺らいでいた。


「ファルシオン殿下は我々が一足先にお連れする。トゥレス大将、貴殿はここを抑えた後、ゆっくりと館へお越しになると良い」






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