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第3章「黎明は遠く、風は嘆きの歌を歌う」(2)


 エアリディアルは喉元に当てられた冷たい刀身を見つめた。

 彼女が自ら突き立てようとした短剣は、床の上でその白い刀身に光を弾いている。


 そして今、エアリディアルと王妃に剣を突き付けているのは、他の誰でもない、ほんの四半刻前までエアリディアル達を守ろうと剣を振るっていた警護官だった。

 エアリディアルへ剣を当てている男の他、王妃の正面に剣を向けている者と、王妃の肩を押さえている者――


「オルト、キリング――グレン……、お前達、一体何を」


 警護官長メイヤーが驚愕に顔を歪める。自らが守るべき存在へと、何故自身の部下達が剣を突き付けているのか、咄嗟に理解できない顔だ。

 第二大隊を率いる中将フェダークもまた、メイヤーと同様に眉根を強張らせて警護官を見ていた。抜き身の剣を握る手が緊張している。


 エアリディアルは懸命に動揺を押しのけ、思考を奮い立たせた。

 一体何が起きているのか何も判らず、ただ判るのは今この場でさえ自分達が、おそらく異なる二つの立場から、政治的に利用価値のある対象だという事だけだ。

 そしてそれは、この国の混乱をもたらす。


 エアリディアルは藤色の瞳を強く瞑った。

 自らの短剣が、今喉に当てられている剣に変わっただけだ。為すべき事は変わらない。

 瞳を閉じたまま、刃へと身体を倒そうとし――


 だがその意志に反して、身体は一歩も動かなかった。藤色の瞳を瞠る。


「――なぜ」


 理由はすぐに判った。いつの間にか、王妃とエアリディアル、二人の身体を光の輪が捉えている。


「勝手に死を選ばれては困るのです、王女殿下。あなた方にはこの国に対して、大切な役割がお有りなのですから」


 その声はフェダーク達の背後から掛かった。

 そこにいた隊士達が数名、声もなく崩れ落ち、倒れた彼等の間を割って法術士が進み出る。無機質に抑えられた若い女の声が、張りつめた室内に新たな緊張をもたらす。


「ミステル殿……? 一体――」


 フェダークは進み出た法術士と、その後ろのもう一人を見比べ、そして彼等が本来誰の配下であったかを思い出した。


「――まさか」


 ミステルと呼ばれた法術士は目深に被っていた被きを払い、やや骨ばった面を顕わにした。

 エアリディアルに歩み寄り、青ざめた頬にそっと指先を当てる。室内に緊張が走った。


「王女殿下から離れよ!」


 剣を構えたメイヤーを、ミステルは悦に入った眼差しで制した。同時にまた三人の隊士が、喉を掻き毟り倒れる。


 扉の前に控えたもう一人の法術士の足元から、紫がかった煙が漂っていた。煙がじわりと床を這い、隊士達が足元のそれから身を引き、部屋の中央へと背中を寄せ合う。


「メイヤー警護官長、そしてフェダーク中将、あなたもお退りください。妃殿下と王女殿下の命を奪うつもりは毛頭ございませんが、とは言えお二人がこの場を制する為の人質には変わりなく、それ故にお二人が多少の傷を負われることも余儀なくなりましょう」











 剣に断ち切られたはずの、その翼が――ゆるりと動き、風を煽る。


 叩き付ける風圧を全身に浴びる寸前で、レオアリスの身体を白い光の膜が覆った。

 だが剣は青白い輝きを失い手の中から搔き消え、渦巻く風に煽られた身体は何の抵抗もなく、空を落ちる。


 見上げていた庭園から絶望を含んだどよめきが湧く。


「レオアリス―― !」


 駆け出そうとしたファルシオンは第二大隊の隊士に制止される前に、心臓を掴む恐怖に立ち竦んだ。


 風竜の首が、落ちていくレオアリスへと、伸びる。

 鋭い牙がずらりと並んだ顎が、緩やかに開く。

 レオアリスを包む光陣が輝きを増した。ただそれは、風竜の牙の前にあまりに無力だ。


 ハヤテが高い声を上げ矢の様に降下する。

 その目前を、重い唸りと共に骸の尾が遮った。辛うじて避けたハヤテの身体は、しかし風圧に巻き込まれ、錐もみ状態になって落下した。王都の街を覆う白い光陣の上に叩き付けられ、光陣が一瞬目を眩ます光を放つ。


 グランスレイは弓を掴み、届くはずの無い矢を番えた。だが空の風竜と庭園の彼等との間にはその暴風を防ぐ光陣があり、彼等を守るそれが、今は空と地上とをまるで異なる世界であるかのように阻んでいる。


 その空を見上げ、それからトゥレスは咄嗟に握った掌に食い込む剣の柄を意識した。


「レオアリス! 目を開けて!」


 地上で振り絞るファルシオンの懸命な叫びは、風に阻まれ届かない。

 誰も、今、あの場に手の届く者がいない。

 開いた(あぎと)に並ぶ鋭い牙が、この瞬間にもレオアリスの身体を噛み砕くと見え――


 その牙の前に、青鱗の飛竜が滑り込んだ。


「レオアリス―― !」


 アスタロトは目の前に迫る鋭い牙も構わず、両手を伸ばし、落ちるレオアリスの身体を抱き止めた。その一瞬の中でさえ、レオアリスの全身が無数の傷を負っているのが目に飛び込み、腕に込める力を躊躇する。


「っ」


 風竜の牙がそこにある。

 炎は手に無く、風竜の牙を潜り抜けられるかも判らない――

 けれど自分は、イスで、王を守れなかった。

 同じ後悔はもう、しない。


 ぎゅっと唇を引き結び、レオアリスを庇うように覆い被さり、アスタロトは額すれすれに、自分の頭ほどもある牙を睨んだ。





 地上で、絶望に息を呑んだ、刹那の静寂――


 けれど風竜は、ただその鼻先に青鱗の飛竜を掠めるだけで、すぅっと首を月に伸ばし、翼を広げた。

 皮膜の無い翼が風を孕む。

 光を持たない眼窩が、ほんの束の間、自らの骸の内に収めたルシファーへと落ちた。


 風竜の骸の内でルシファーは白い骨に背を預け、首を巡らせて風竜の瞳を見ていた。彼女の肩の傷は深くいつまでも血を流して塞がらず、暁の瞳は半ば霞に包まれている。

 唇が音もなく声を(かたど)る。


 どうして。


 ルシファーは虚ろな光を瞳に宿し、定まらない両手で白い骨を抱え、血を滴らせる身体を起こそうと藻掻いた。





 月へと伸べられた風竜の長い首が、緩い弧を描いて反らされる。

 荒れ狂っていた風はぴたりと止まり、一瞬の無音の後、再び渦巻き始めた。


 それは喉の奥に風を集めた時と似ていたが、今、風が集っているのは白い骸の周囲へだ。

 空が地響きに似た唸りを上げて渦を巻く。


 アルジマールは見上げていた瞳を、見開いた。


「――退くのか……」


 それはあたかも、風竜がそうする事を、あらかじめ想定していた響きを帯びていた。

 傍らにいたロットバルトが口を開きかけ、ただその前にアルジマールは灰色の法衣の下に降ろしていた両手をゆるく広げた。

 庭園を傘のように覆っていた光陣が唐突に光を消した。


「庭園へ――呑まれるよ」


 アルジマールの声が直接届いたかのように、まだ上空に遠巻きに残っていた近衛師団の飛竜が翼を返し、降下する。

 アスタロトは飛竜の背に揺れたまま、浮かぶ月を背に、風竜の喉元から動かない。


 風竜へ向かって渦巻く風が次第に速度を増していき、王城の甍や尖塔の飾りを、めりめりと音を立てて吸い上げる。王都の街を覆う光陣が明滅する。


「――公!」


 セルファンはアスタロトへと、自らの飛竜の翼をどうにか駆った。


「庭園へ―― !」


 アスタロトが瞠ったままの瞳を上げる。アーシアが呪縛を解かれたかのように身を揺すり、翼を打った。アーシアの背後へ、セルファンの飛竜が滑り込む。

 轟々と唸り叩き寄せる風が、アーシアの翼を付け根から軋ませ、皮膜を裂く。


「アーシア!」


 アーシアは一瞬力を失って体勢を崩し、危うく後方を駆けるセルファンの銀翼と衝突しかけ、交差する。セルファンは振り返り、手を伸ばした。


「公ッ!」


 その手は虚しく届かず、だが、激しい風の中でアーシアは再び身を返した。

 長い首を昂然ともたげ、叩き付ける風に抗い庭園へと懸命に駆ける。

 アスタロトはアーシアの背に手のひらを当てた。


(――お願い……!)


 渦巻く風が迫る。風に舞う黒髪が剃刀を振るったかのように幾筋も断たれて散り、アスタロトの背中や腕をも薄く切り裂く。アスタロトは必死に、レオアリスの上に覆い被さった。

 背中ごと削がれているのではないかと思える、その風圧と痛みを、唇を噛みしめて堪える。


 セルファンの乗騎は視界に見えず、アーシアの翼も軋み、自らの意識も遠くなる。

 だが、庭園はすぐそこだ。


(もう少し―― !)


 耳を、風が聾する。





 風竜の起こした風がアスタロト達を、王城を、地を巻き上げ薙ぎ払う寸前――

 庭園に降りるアーシアとセルファンの乗騎と擦れ違うように、白く輝く光陣が再び空に浮かんだ。


 それは王城を覆うのではなく、渦巻く風の中心にいる風竜を、その風ごと取り囲み、押し包む。

 同時に先ほどまで街を覆い広がっていた光陣が立ち上がり、初めの光球を二重三重に包んだ。


 その向こう、風は轟く濁流の如き質量で、空に浮かぶ巨大な光球の内部を埋め尽くす。

 自らを閉ざそうとする光球を、風が内側からこじ開けようとするかのようだ。


 光球が激しく明滅する。

 うねり、揺さぶり、猛る。


 世界の終わりかと思わせるほどの轟音――


 そして、それは唐突に、消えた。






 アスタロトはずり落ちそうになるレオアリスの身体を懸命に抱えながら、駆け寄るロットバルトとフレイザーに縋る瞳を向けた。


「早く、早く治癒を……っ、怪我がひどくて――ぜ、全然、目を開けないんだ!」

「公、貴方の負傷が」

「私は後でいい! ねえ、早く」


 ロットバルトはぐったりとした身体を受け取り、眉を潜め、すぐに柔らかな芝の上に横たえた。フレイザーがアスタロトへ腕を伸ばし、アーシアの背から降ろす。

 レオアリスの軍服は厚手の布地の上に荊棘(いばら)に突っ込んだかのような無数の裂傷を走らせ、ずしりと血を含んでいる。


「これは――」


 風竜の風によって受けた傷が、浅く断続的な呼吸と共に血を流し続けている。


 本来、レオアリスは剣士としての性質故に、受けた傷のほとんどはその場で治癒していく。だがこの傷は治らないのではなく、治りかけている途中で再び開いていた。

 正確に表現するのならば、塞ごうとする力が傷の負荷に抗えず、塞がりかけては開き、それを繰り返している。


「ロットバルト――」


 気付いたフレイザーが口元を押さえる。


「アルジマール……ねぇ、アルジマール!」


 アスタロトはレオアリスの傍らに両手をついた。

 視線を巡らせ探し当てたアルジマールは、風竜の消えた空へと顔をもたげている。その小柄な身体を取り巻く虹色の光が、次第に薄れて行くところだ。


「アルジマール! 早く!」

「うん」


 アルジマールの瞳がレオアリスの上に落ち、束の間、そのままじっとレオアリスを見つめた。

 訝しさを含んだ視線を集めながら、アルジマールはレオアリスの傍らに膝をついたが、腹部の上に掲げた手のひらはまだ何の変化も起こさない。


「院長?」

「うん。……この子は、このまま眠った方がいいんじゃないかな。多分今、剣士としての彼の自己修復機能はそこへ向いてるんだと思う」

「どういうこと? 治さない方がいいの? で、でも……!」


 アスタロトが膝を寄せる。


「こんなひどい怪我」

「では、そうしてください」

「ロットバルト?!」

「何を言って――」


 フレイザーもまた驚いた面をロットバルトへ向け、だがその瞳の色に何を感じたのか、唇を引き結んだ。


「――アルジマール院長が、そう仰るのなら……」


 アスタロトは横たわるレオアリスの面を見つめた。


 剣の眠り。

 こんなに、これほどに傷ついているのなら、もうその方がいいのかもしれないと、そう思う。

 その反面で、別の不安が身をもたげる。

 このまま眠ったら、どうなるのだろう――?


 もし、このまま目を覚まさなかったら?

 そうなるのではないかと思えるほど、全身の傷が恐ろしい。


 アルジマールは立ち上がり、両手を緩く開くとレオアリスの上にかざした。アスタロトがびくりと肩を揺らし、手を伸ばす。


「待っ――」

「だ、めだ……」


 掠れた、絞るように声が零れる。その声を辿り、アスタロトは息を呑んだ。

 レオアリスが瞳を開けている。手はアルジマールの法衣の裾を掴んでいた。


「レオ―― !」


 身を起こそうとして、負った裂傷から再び血がどくりと流れる。


「駄目だ、動いちゃ……」


 アスタロトは遮る為に手を伸ばし、だが傷に触れるのを恐れて指先を縮めた。ロットバルトが傍らに膝をつき、低く、明瞭に告げる。


「上将。今、動くべきとは思いません」


 レオアリスはその瞳を捉え、フレイザーの、アスタロトの青ざめた面を捉え、それからアルジマールへと視線を移した。


「――院長、治癒を。あと、一回でいい」


 アルジマールの返答を待たず、レオアリスは歯を食い縛り、だが不可能と思えるほどのその傷で、身体を起こした。

 誰一人制止の声を上げず――上げられず、ただそれぞれの苦い想いと不安を押し込め、その姿を見つめている。


「レオアリス―― !」


 幼い声が不安に満ちて、彼の名を呼ぶ。

 その響きにレオアリスは瞳を閉じた。

 ファルシオンの警護――それが、王がレオアリスに託した役割だった。


 左手を鳩尾に当てる。

 咄嗟にアルジマールが制止の手を上げかけたが、レオアリスは手を当てたままで、剣を顕す様子は無い。

 その身体をごく弱い、明け方の霞にも似た青白い光が立ち上り覆う。

 ほんの一呼吸――それで全ての傷が塞がった、ように見えた。


 レオアリスは瞳を上げ、持ち上げた面を、第一大隊の隊士が作る垣根の向こうへと向けた。


「――通してくれ」


 第一大隊の隊士達が、レオアリスの前に道を開ける。


 レオアリスは正面にファルシオンと、そしてトゥレスの姿を捉えた。








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