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第2章「身欠きの月」(32)

 風が渦巻いていた。


 王城の尖塔の更に上――そこへ風が集まっている。

 セルファンは双眸を見開き、今まさにぶつかり合おうとしていた第二大隊の飛竜隊ではなく、その向こうの空を見据えた。


「何だ……、一体何が」


 大気が塊となって動く様が、夜目にも見て取れる。

 それは今まで、セルファンが経験した事の無い感覚だった。身体が跳ね、足元に目をやれば、飛竜は辛うじて手綱の制御に従っているものの興奮し――怯えている。


「――」


 セルファンは乗騎を見つめた。飛竜の様子は、今、セルファン自身が感じている感情と、近い。

 畏れ(・・)


「セルファン大将!」


 傍らに飛竜を並べていた左軍中将オルグが渦を指差す。正確には、その上空を。

 渦の中心の上空に、人影が揺れていた。

 吹き荒れる風に飛竜ごと煽られながら、セルファンは目を細め、かざした腕の向こうにその姿を睨んだ。驚きがセルファンの面を彩る。


「……あれは――」


 女だ。――つい先月末まで当然のように、彼等の前にいた。


「西方公――!」


 一層の風が飛竜の翼を叩く。懸命に手綱で乗騎の体勢を整えながら、セルファンも、他の隊士達も、その場の全ての者の視線が、渦の上に立つルシファーに集中する。

 纏う白い薄布は、右半身が赤く染まっている。


 俯いていたルシファーは渦巻く風などどこにも無いかのように、ゆるやかに面を上げた。深く切り裂かれた右肩が、鼓動を打つ度になおも血を零す。

 虚ろな、深淵に似た暁の瞳が、眼下の飛竜達と、ファルシオンの館の庭園を見下ろした。


「――何故かしら……」


 ぽつりと呟いた言葉は渦巻く風の音にかき消され、どこにも届かなかった。


「ああ……」




 セルファンは我に返り、手綱を引いた。前方に飛竜を御す第二大隊のカスパーを睨む。


「西方公と、手を組んでいたとは、どこまで――」


 振り返ったカスパーが驚愕の醒めぬ顔を、怒りに染めた。


「違う――、俺達が従うのはトゥレス大将のみだ!」

「……今さら、このような状況でそんな言葉を」


 セルファンはカスパーを見据え、だがそれ以上の口を閉ざし、背後を振り返ると手にしていた剣を高く掲げた。


「ルシファーを押さえる!」


 躰を叩く風を打ち据え、飛竜が翼を羽ばたかせる。セルファンに続き第三大隊の隊士九騎もまた、風に煽られながらも駆け上がった。

 ルシファーの、更に上へ。翼を返し、矢の如く降下を開始する。


 ルシファーは風の渦の中心へ、血に濡れた右手を延べた。

 渦巻く風が止まり――唐突に、逆巻き吹き付けた。

 地の底から響くような咆哮が湧き起こる。

 大気が塊となって世界を叩く。


「!」


 降下する飛竜の編隊が、急流に呑まれる木の葉のように吹き散らされる。セルファンは咄嗟に手綱を掴み、辛うじてその嵐から抜け出した。

 再び手綱を引いたが、セルファンの乗騎はその先に見えない壁があるかのように動かなかった。

 動こうとしなかった、が正しい。

 飛竜はもはや明らかに怯え、赤い双眸を一点へ据えている。

 ルシファーが手を延べた、渦の中心に。


 そこから、何かが現われようとしていた。

 セルファンの喉から、掠れた声が漏れる。


「――馬鹿な……」


 夜目にも見える大気の流れの中心に、白く巨大な二つの翼が広がっていく。


「何、だ、あれは――」


 広がる翼は、飛竜のそれと近い。だが、比すべくもなく大きかった。

 長く伸びた首が、闇に白い弧を(えが)き持ち上がる。

 その動きが奏でる、樹々の枝が互いに打ち合い立てるような、澄んだ乾いた音。

 第三大隊の隊士も、そして第二大隊の隊士達もまた、自分達が何を目にしているのか理解できる者のないまま、ただ底知れない恐怖だけが胃の腑を掴み辺りに満ちて行く。


 竜だ。

 それを竜と呼ぶのならば。


 翼を覆う皮膜は無く、全身を鎧う鱗も無く、落ち窪んだ眼窩に光るはずの(まなこ)も無い。

 白く連なる巨大な骨の一つ一つ。

 それが竜の姿を形作っていた。

 濃紺の夜空を背景に浮かぶ、白い(むくろ)の竜。


 動いている事が信じ難かった。

 吹き付ける風が骨組みをすり抜け、笛の音のような美しい旋律を鳴らす。

 白い(あぎと)から、冷たい風が流れ出した。


『浅ましくも――再び現世(うつしよ)に迷い出てみれば――』




 庭園の芝に膝をついていたフレイザーは、王城の上空を覆うその姿を、恐怖に囚われたまま見上げていた。

 叩き付けた大気の塊が居城の窓硝子を砕き、風の刃がフレイザーの身体に幾筋もの傷を刻んでいた。辛うじて起こしている身体から血が滴り落ちる。

 痛みの意識すらなく、フレイザーはただ翡翠の瞳を見開き、唇を震わせた。


 まさか、と音の無い言葉を綴る。

 まさか(・・・)そんな事は(・・・・・)


 滅んだはずなのだ、三百年もの過去に。

 だからこそ、その後大戦は終焉へと向かった。

 だが、風を司り、あれほどの威容を有する竜を、他には知らない。

 恐らく今ここにいる者は全て、その名を思い浮かべていただろう。


「――風、竜……」


 この場を離れろと意識は警告するが、身体は恐怖に打ち据えられ、動かなかった。

 けれども恐怖に縛られていながら、目にするその光景も、耳にする音色も、まるで遥かな物語のように美しかった。


 音が言葉となってフレイザーの頭の中にも響く。それは深い(うれ)いを帯びていた。




何処(いずこ)にも嘆きは満ち、(いず)れの世も響く歌は変わらぬ』


 骸の竜はもたげた首を巡らせ、窪んだ眼窩を王都の街並みに注いだ。

 北の中層、西の下層、東の上層――

 首を留めたのは全て、昼に西海の海魔が破壊した区画だと、気付いた者がいたかは判らない。

 夜の(とばり)の向こうに、破壊の跡を透かし見るのか。


 眼窩は宙空に凍り付いたままの飛竜達――飛竜達とその上の隊士等をなぞり、最後に王城へと落とした。

 風がその骸の周りを渦巻き、流れる。白い骨の(あぎと)が、ゆるりと持ち上がる。


『幼な子よ――何を泣く』


 笛に似た音が重なり合って響く。


『お前の風は、今も寂寞とした音色を立てる』




 フレイザーは風竜の上に浮かぶ人影へ、視線を持ち上げた。


「西方公――」


 かつて、長きに渡る西海との戦乱に突如として現れた、強大な竜。

 西海など、風竜には関わりが無かったはずだ。

 では何故風竜が、大戦に関わったのか。

 身体の奥底が冷え、震えが立ち上がる。

 今、空に浮かぶあの存在の、暁の瞳は、何を見ているのか。


 庭園の向こうの夜空に、羽ばたきの音と共に新たな飛竜の一団が駆け上がる。靡く第三大隊の隊旗を認め、フレイザーはぐらりと上体を傾がせた。

 増援だ。けれど、彼等は風竜など想定していなかっただろう。

 意識が遠のく。

 倒れかかったフレイザーの身体を、後ろから差し出された腕が支えた。


「フレイザー!」


 覗き込むクライフの顔が見えた。重なる足音と共に、中軍の小隊が館を背に半円に広がる。


「大丈夫か! くそ、こんなに怪我――俺がいりゃ」

「クライフ――。殿下が、学習室に」

「館は副将が押さえる。大丈夫だ。それよりありゃ一体」


 クライフはフレイザーを抱えたまま、空に浮かぶ骸の竜を見上げた。フレイザーが唇を噛みしめ、身体を起こす。


「無理すんな」


 そう言いながらも、クライフは支えていた手を離し、代わりに槍を手に取った。


「第三は飛竜二小隊を出した。けど」


 クライフが言葉を呑んだ理由は当然だ。ただそこに在るだけの躯の竜に、増援隊の飛竜達もまた怯えている。

 風竜は首をルシファーへと伸ばし、躯の鼻先に彼女を下ろした。首を巡らせ、自らの庇護下に置くように、並ぶ巨大な肋骨の内へと、その身体を収める。

 白く長い首が遠巻きに囲む飛竜の編隊へ、ぐるりと巡る。


 翼が広がり始める。

 風が再び、渦を巻く。

 隊の恐怖を叱咤し、セルファンは手綱を引いた。


「足止めする! オルグ! 法術院へ走れ! アルジマール院長と、ありったけの術士を叩き起こせ!」


 呪縛を解かれた隊士が同じく手綱を繰る。飛竜が二手に分かれ、一隊五十騎は空を駆け上がり、風竜へ急降下を開始する。もう一隊は一旦降下し、翼を打って駆け上がった。

 風竜が躯の翼を広げ、一つ、羽ばたいた。

 突風が吹き起こり、強襲する飛竜の編隊を容易く弾く。数騎の飛竜が翼を折られ落ちて行く。

 セルファンは自らの乗騎を駆り、再び騎首を巡らせた。


「あれを確実に遠退けなければ――」


 或いは、封じるか。

 もし風竜がその息を吐けば、王城も、王都の街も、この一晩で壊滅する。

 三百年前の大戦で、ハイドランジアの一帯を薙ぎ払ったように。


 セルファンが左腕を上げると同時に、引き絞られた弓が弦を唸らせ、百近い矢が空を裂く。だが矢は悉く、風竜の前で霧散した。

 セルファンは茫然としているカスパーへ、首を巡らせた。


「カスパー! お前達がこれまでの己が身を不満と言うのならば、今、この場で、風竜の足止めに参じろ!」

「――」

「お前達の大将トゥレスならばこの状況、見過ごさんだろうな」


 カスパーは王城の影を見下ろし、唇を引き結んだ。


「――第三に合流する!」


 カスパー等二十騎が第三大隊の百騎と同様、風竜を囲んで展開する。



「くそ! 俺に飛竜がありゃあ」


 クライフは庭園に立ち、上空を見上げ、奥歯を噛みしめた。

 ふいにその背後から光が湧き起こり、空に幾つもの光陣が広がった。風竜の上空を囲み、七つ。

 振り返ったクライフは、砕けた硝子戸の前に立つ第一大隊法術士長エンティを見つけ、そして館から現れたグランスレイとロットバルトの姿に息を吐いた。


「あれは」


 グランスレイが上空を睨む。ロットバルトはエンティを見た。受けた傷はまだ治癒が終わっていない。


「あの盾で抑えられますか」


 エンティがきっぱりと首を振る。


「あれだけでは、到底――」


 セルファンが乗騎を庭園へと寄せる。


「感謝する――法術院が来るまで保たせたい!」

「セルファン大将」


 グランスレイの抑えた声に、セルファンは手綱を引き、飛竜の身体を巡らせた。

 誰もが、声も無く息を呑む。


 夜の中で巨大な骸の竜が、その長い首を空へと伸ばしていく。

 風が渦を巻き、エンティの光陣がびりびりと震え、明滅した。

 骨組みの喉の奥に、白い光の塊が見える。


 風を集めている。


「息を吐く――!」


 風竜の正面は、王都の街が広がっている。


「せめて、街から……!」


 セルファンが上空へ駆け上がり、風竜の意識を引くようにその目前を横切った。セルファンと共にカスパーが空を切って打ち掛かり、渦巻く風に阻まれる。

 風竜は一切気に留める事無く、喉の奥に風を集めていく。

 エンティは再び術式を唱えたが、新たな盾が組み上がる前に、風竜を囲んでいた光陣が音を立てて砕けた。


 風が吹出し、荒れ狂い、セルファン達の飛竜を巻き、吹き散らす。

 喉の奥の光が輝きを増す。


 激しい音と共に大気が唸り――



 ふいに、ぴたりと止まった。



 風竜の首が、月へと持ち上がる。

 中天から西へ、傾いていく月のその前に、銀翼の飛竜が浮かんでいた。


 月の光よりもなお青白い陽炎が、銀翼の背の上に揺らめいている。

 無音の世界に、その立ち姿だけが浮かび上がるようだった。

 レオアリスは右手に抜身の剣を提げ、眼下を見下ろした。


 欠け始めた月の光が、それでも煌々と、その身を覆っていた。







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