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第2章「身欠きの月」(28)

 柔らかな声が耳に触れ、忍び込む。


「何故なのか、王に、聞きたい――?」


 剣を引き出そうとしていたレオアリスの、苦痛に眇めていた瞳が見開かれる。それはまるで、自分の心が囁いたかのように思えた。


『王に』


 でもそれは自分に許された役割ではない。王がレオアリスに与えた役割とは違う。

 王がレオアリスに、与えたのは。


(俺の――役割)


 北の方角が、王都のある方角が気になる。けれど今この塔の中では、自分がどこを向いているのかさえ判らない。

 王がレオアリスに与えた役割は。


(役割)


 激しい渇望が浮かぶその瞳に、ルシファーはほころぶ花弁のように微笑みかけた。

 漂うのは木蓮の、清澄な香。


「私と、ボードヴィルへ、来る?」


 ルシファーの白い手が目の前に差し出され、(いざな)う。剣を顕そうとしていたレオアリスの手は、無意識のうちに鳩尾から離れていた。


「王の意志が知りたいのなら、私と来ればいいわ」


 静かに、くっきりと、響く。

 差し出された白い指先はレオアリスが選ぶのを待っている。


「――」


 その先に答えがあるのだろうか。

 知る事ができるのだろうか。

 何故――


 何故、レオアリスが、王の為の剣でありながら、王と共に――



 知りたい。

 知りたい。知りたい。知りたい。それが知りたい。

 重い手を持ち上げる。肘から先ほどでしかない僅かな距離が、果てしなく遠く感じられる。


 ルシファーがその距離を埋めようと手を伸ばした。

 その手はいつか、ルシファーがザインに伸ばしたものと同じだ。或いはアスタロトへ延べた手と。

 答えは、そこに――?


 一瞬、レオアリスの指がぴくりと縮む。

 不意に高い声が放たれた。


「駄目だ! レオアリス――!」


 ルシファーの手を掴む寸前で、レオアリスの手が止まる。

 振り返ったレオアリスの目に、階段の入口に立った少女の姿が映った。

 黒い長い髪が肩で跳ねる。


「……アスタ――」

「その手を取っちゃ駄目だ!」


 ルシファーが手を伸ばす。駆け寄り、アスタロトはレオアリスに飛びついた。

 ルシファーの指先がレオアリスの手を掴む直前で遠ざかる。二人は支えるものもなく床に倒れ込んだ。


 レオアリスが抑えた呻きを上げる。その苦鳴に不安な表情を浮かべながらもアスタロトは飛び起きると、ルシファーとの間に両手を広げ立ちはだかった。


 レオアリスは右肘をついて上体を起こし、立ちはだかるアスタロトを見据えた。瞳の中で驚きと、それとは別種の感情が複雑な色を滲ませる。

 けれど立ちはだかるアスタロトの向こうで差し伸べたままのルシファーの手が、レオアリスの意識を引き戻した。


「――どけ」


 アスタロトはきっぱりと首を振った。


「嫌だ」

「どけよ」

「嫌だ!」


 怒りがレオアリスの瞳に沸き起こる。よろめきながら立ち上がり、アスタロトを睨んだ。


「そこを、どけ!」

「嫌だ!」


 長い黒髪が首を振るアスタロトの後を追い、背中で乾いた音を立てる。真紅の瞳が断固とした色を浮かべ、レオアリスを見据えた。


「どうしても行くって言うんなら、私を斬れよ!」


 レオアリスは一瞬呆気に取られて瞳を見開き、それから奥歯を噛み締め、呻きに近い声を押し出した。


「――ふざけるなよ」

「ずるいのは判ってる。でも絶対、行っちゃ駄目だ! こんなふうに行くのだけは間違いだ! そんなの、レオアリスらしくないよ!」


 レオアリスの面に、引き攣った笑いが弾ける。


「俺? 俺らしくない? 何がだよ……今、こんな状況で、何が俺らしいって言うんだ! 俺は――ッ」

「違う! 絶対違う、絶対駄目だ! 絶対、絶対、絶対――、足にしがみついてだって止めてやる!」


 くすりと微かな含み笑いが零れる。ルシファーは爪先を宙に浮かべ、組んだ腕の右手を持ち上げ、指先を口元に当てた。暁の瞳がアスタロトを見下ろす。


「寂しいわね、アスタロト。私は信用できないのかしら。あんなに私を慕っていてくれたのに」


 アスタロトはルシファーを振り返り、もう一度両手を広げた。


「ファー! もう止めてよ!」

「あなたが口を出すことじゃないわ。今はレオアリスの問題よ。あなたの出番はとっくに終わっているでしょう」


 柔らかな響きが慈悲もなく、鋭利な凍る刃となって放たれる。


「あなたは何もしなかった。自分のためにさえ。そのあなたに今さら何ができるの?」


 ルシファーの微笑みは柔らかく、だが侮蔑に満ちている。

 アスタロトは唇を震わせぎゅっと目を瞑った。


「でも――、でも、こんな事したって……」


 握った拳を震わせたまま、息を吐き出した。


「だってファーだって、何も幸せじゃないじゃないか!」

「……あなたに何が解るの」

「ファーの大切な人が、こんな事望んでるわけない!」


 束の間の沈黙に、アスタロトが瞑っていた瞳を上げる。瞳を見開き、そのまま釘で打ち付けられたようにルシファーを見つめた。


「あなたに――わかるの」


 ルシファーを覆う気配が、明らかに変わる。


「わ、私――」


 逸らしそうになる瞳をこらえ、足元を踏みしめ、それでもアスタロトは顎をぐいと上げた。


「私は――、私は、あなたと同じじゃない。同じ苦しみは知らない。そんな事知ろうとするのだって、そんな権利なんてないよ」


 床に敷かれた法陣円が今は微かな揺らめきとなって、浮かぶルシファーの姿を仄暗く照らしている。


「でも、私はファーが好きだから、ファーが苦しそうなのは、嫌だよ」

「――くだらない。関係ないわ」


 呟き、アスタロトなどそこにいないかのように、ルシファーは再び瞳をレオアリスへと向けた。


「レオアリス。あなたが選ぶのよ。これはあなたの問題。あなたの存在そのものに関わるもの。あなたが否定された、その理由――」

「ファー! レオアリスは、否定されてなんかいない!」

「うるさいわ」


 視線すら向けず、ルシファーは指先を払った。生じた突風がアスタロトの身体を弾き飛ばし、巻き上げる。


「アスタロト!」


 風はそのままアスタロトの身体を運び、天井に近い壁に容赦なく叩きつけた。

 アスタロトの身体を掴んでいた風が消失する。


「ッ」


 踏み出そうとした瞬間に走った痛みを堪こらえ、レオアリスは床を蹴ると落下するアスタロトへ腕を伸ばした。受け止めた衝撃が全身に走り、息が詰まる。


 競り上がる呻きを押し殺し、レオアリスはアスタロトを抱えて座り込んだまま壁に背中をゆっくりと預けた。アスタロトはぐったりしているものの、意識を失っているだけだ。

 息を吐く。


「――あんたは」

「アヴァロンはおそらく、満足だったでしょうね」


 忍び入る響きに、レオアリスはぎこちなく、顔を上げた。


「アヴァロンは王の盾となった。最期まで」


 ルシファーがふわりと白く重なる裾を揺らし、レオアリスへと歩み寄る。

 瞳に浮かんだその、夜明け前の昏い光。

 柔らかな囁き。


「羨ましい――?」

「――」


 鼓動が耳を叩く。


「そうよね? あなたはそれが羨ましい。だからここへ来たの」


 不規則に太鼓を打ち鳴らすような音が、うるさい。

 ルシファーが一歩、踏み出す。

 よろめく身体を抑え、レオアリスは立ち上がった。


「王は全てを置いて行った。何一つ、顧みることもなくね。あなたのことも」

「――れ」


 うるさい。


「本当はあなたは、あなた自身が、アヴァロンの役割をやりたかったのに」


 うるさい。

 鼓動がうるさい。

 何でこんなにうるさく音を立てるのか。今さら、何の為に。


 今さら――無意味なのに。


「王と一緒に――、死にたかったのでしょう?」


 足元が、一瞬、消失したように思えた。


「――黙れ……ッ!」


 呼吸を失ったまま吐き出し、レオアリスは右手を鳩尾に当てた。

 本来引き出される剣は無く、砕けて散った欠片が身体の中で熱を放ち、肉を抉る。喉の奥から競り上がった血が口の中に鉄の味を広げ、溜まったそれを吐き出す。

 応えた左の剣が、指先まで伝う苦痛を和らげた。


 引き抜いた刀身は、そのまま青白い光を放ち、膨れ上がった。

 剣光がルシファーの右胸と肩を貫き、背後の壁を砕いて奔る。


 ルシファーはよろめき、白い手で血の噴き出す胸を押さえた。蒼褪めた白い面で唇にうっすらと笑みを浮かべ、暁の瞳が青白い光を弾く。それをレオアリスへと据えた。

 流れる血に塗れた右腕を、ゆるゆると持ち上げる。


「選択は三つになったわね。このまま私を殺すか、私と共に行くか――それとも」


 血を滴らせる指先が背後の壁を指差した。


「あそこへ戻る――?」


 肩を大きく揺らして呼吸を繰り返しながら、糸に引かれるように指差した方向へただ視線を向け、レオアリスはギクリと動きを止めた。


 たった今奔った剣光が壁を崩し、昏い夜空が覗いている。

 遠くに、王都と王城の影が見える。

 その頂きは今、夜の中にもくっきりと浮かび上がっていた。


 それまでの怒りも、痛みも、混沌も、ルシファーの存在すら忘れ、レオアリスはその灯りを見つめた。


 初めは燃えているのだと思い呼吸を失い、だが次第に意識に描き出されたそれは、王城が掲げた松明の灯火(ともしび)だと気付く。

 光を時折目隠しする幾つもの影は、あれは飛竜だろうか。そのせいで王城の尖塔は瞬いて見えた。


「王城――」


 何が起きているのか。

 ファルシオンは。

 剣を握る手が震える。

 頭の中で全てが渦巻き、全てが崩れて行くようだ。

 そこに一つだけ、黒々とした意識が身を起こす。その瞳がひたと自分を見据える。


 ――オ前ハソコデ、何ヲシテイル


「……何が――あれは」

「私は、きっかけをあげただけ。トゥレスは選んだのね」

「トゥレス……」


 レオアリスは(ぜんまい)仕掛けのように身体を動かし、まじまじとルシファーを見た。


「きっかけ……? 何の事だ。――お前は、何を」


 ルシファーに詰め寄ろうとしたレオアリスの瞳が、跳ね上がり、再び王城の影を見据えた。ぽつりと、レオアリス自身意識しないまま、呟きが漏れる。


「――何、だ……」


 何かが、来る。

 ここに――

 違う。

 王城の、あの空の上に。


 ハヤテが高く上げる怯えたような嘶きが聞こえ、レオアリスははっと我に返り、息を呑んだ。


 何かが来る。


(ナジャル――?)


 違う(・・)


 剣を握った左手が小刻みに揺れ、レオアリスは左手でそれを押さえた。踵を返そうとしたレオアリスは、投げられたルシファーの言葉に足を止めた。


「あなたが望むのなら、私はあなたをボードヴィルへ――いいえ、イスへ、連れて行く」


 振り返ったその先で、流れ落ちる血にルシファーの面は透けるほど白く、ただその暁の瞳は熱を帯びて発光し、レオアリスに注がれている。


「決めなさい。あなたは、何を選ぶの――?」






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