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第2章「身欠きの月」(25)

 真鍮の取っ手を回して内側へ押すと、錆びた蝶番の軋む音を立て、硝子に格子を張った細い折れ戸が開いた。

 踏み込んだ城の中は空気が動かない為か、ひときわ木蓮の香りが濃く漂い、目眩を覚えさせる。レオアリスは抑えた呼吸に肩を揺らし、重い頭を持ち上げて城の中を見回した。


 露台から続く二階部分は、回廊になって左右に長く延びていた。薄闇に沈み、階下への大階段や回廊の手摺の向こうで三階まで吹き抜ける高い天井、それを支える柱を、窓から差し入る僅かな月明かりが淡く浮かび上がらせている。

 右の奥には塔への入口がぽっかりと口を開け、(いざな)うように濃い闇を湛えていた。

 束の間じっとその闇を見つめ、すぐにはそこへ向かわずに、レオアリスは視線を硝子戸の外へ戻した。


 手入れをされる事なく燻んだ硝子戸の向こうでは、ハヤテが降り立った位置に蹲ったまま、首をもたげじっとレオアリスのいる窓を見つめている。

 レオアリスはハヤテから瞳を逸らした。硝子戸に右手を添え、塔への入口へ足を向ける。

 黒の革手袋に包んだ指先が、添えた古い硝子に微かな音を立てる。石張りの床を一歩踏むごとに、蒼い光の中に埃が輝き舞い立つ。


 塔の内部に入るとひやりと冷えた空気が肌を撫でた。かつては使い込まれていた事を示すように中央が磨り減った石段が、石壁の内側を巻きながら登り、上の暗がりへとずっと延びている。

 時折小さな嵌め込みの窓だけが僅かな光を呼び込んでいる。おそらく部屋があるのは最上階の五階だけだ。

 冷えた壁に手を当て、重い身体を一段押し上げるごとに、鈍い痛みが鳩尾から広がる。

 それよりも尚、静寂と纏い付く木蓮の花の香が、意識に忍び込み一層身体を重くするようだった。


 自分が今どこにいるのか、何をしているのか、曖昧になる。

 ここに居ていいのか――

 けれど、一つの事だけが明確だ。


 やがて暗闇に慣れた瞳に、螺旋階段の先を白々と照らす光が差し込んだ。

 どくりと鼓動が鳴る。


「転位、陣……」


 踏み出すと上半身が痛みに引き攣ったが、構わず石段を蹴り、そして最後の段を登った。

 薄闇の中に白い光を放つ法陣円が、煌々と浮かび上がっていた。


 レオアリスは抱える痛みを忘れ、法陣円に駆け寄った。

 膝を落とし、光に手をつき、食い入るように術式を読み込む。

 もうこの法陣円は準備が整っている。後は法術士が最後の術式を足し、出口を指定するだけだ。

 ボードヴィルに。

 もう跳べる。

 鼓動が高く、速くなる。


(術士は――)


 辺りを見回したが、六角形の室内には遮るものは何も無く、誰の姿も無い。


「トゥレス! いないのか――! 誰でもいい、法術士は」


 もう跳べる。たった一瞬、それでボードヴィルへ行ける。

 そうすればそこに。

 法陣円の白い光が二つの瞳に映り込み、輝かせ、滲む。

 そこに。


 きっとそこに、王がいる。


「……陛下――!」


 きっとまだ間に合う。

 間に合わないはずがない。

 自分がそこ(・・)にいなくて、何もできなかったはずがない。


「そんなの嘘だ」


 嘘だ。


「嘘だ……誰か」


 レオアリスは顔を振り立て、痛みも構わず周囲を見回した。

 完成している法陣から離れて、法術士は何をしているのだろう。

 木蓮の香りがここにも薄っすらと漂い満ちている。

 白い光は香りと共に意識を幻惑し、揺さぶるようだ。


「どうして、誰もいないんだ」


 レオアリスはもどかしく、手のひらを法陣円の白い線に当てた。

 光は掴めず、拳だけがきつく握り締められる。


「もう動かせるはずだ」


 転位の法術はレオアリスには扱えない。

 レオアリスは奥歯を噛み締め、叫んだ。


「誰でもいい! 俺を、王のもとへ――」


 ふいに光が目を刺した。

 見下ろした視線の先で、法陣円が強く輝き、その中央に光の柱を立ち上げる。

 レオアリスの瞳が、輝く白い光の中に一筋の渦巻く風を映す。

 風はゆっくりと人影を形作った。





 藍色の空闇の中に浮かぶ白いマグノリア城の尖塔が、ふいに強い光を発した。

 それはまるで暗い海原へ放たれた、孤独な灯台の光条のようだ。

 すぐに光は輝きを収めていく。

 光は束の間、城を囲む木蓮の樹々を照らし出した。

 差し掛かる光の中、塔の裏手に伸びる大振りの枝に、灰色の長衣を纏った人影が、まるで襤褸切れのように引っかかっていた。

 灰色の長衣は法術士を示すものだ。だが、その全身は、無数の刃が引き裂いたかの如く無残な傷を負っている。

 木蓮の花弁を更に黒く濡らして滴る血は、もう半ば粘り気を帯びていた。





 激しい風に反して穏やかに揺れる柔らかな布。

 白い指先。

 半ば伏せられた暁の瞳。

 レオアリスは息を詰めたまま、喉の奥に名を零した。


「――、シ、ファー……」


 法陣円の中央に降り立った女――ルシファーは、唇に甘やかな微笑みを浮かべた。いつだったか王都の、彼女の館で顔を合わせた時のように、屈託なく。


「久しぶりね、レオアリス――。直接会ったのは、ラクサ丘以来かしら」

「ルシファー……」


 レオアリスの身体から、青白い陽炎が膨れ上がる。

 鳩尾に伸びた左手が、触れる寸前でぴたりと止まった。あたかも見えない手が掴んで引き止めたかのように。


「止めなさい。その身体で、何度も剣を出すものではないわ」


 レオアリスは食いしばった唇を震わせた。


「――何で、知ってる」


 顔を上げたその瞳は、青白く揺らぐ光を宿している。

 身を取り巻く陽炎が、ルシファーが纏う風の壁をじわりと浸食する。


「誰から聞いた。何を見ていた」


 ボードヴィルに、王太子旗を掲げた。

 イリヤを使い、ファルシオンのいる王城と空間を繋げた。

 ラクサ丘の、復元された館。

 フィオリ・アル・レガージュでの、西海の三の鉾との関わり――直後の離反。

 王は西海の皇都イスへ赴き――


 ルシファーは、どこまで(・・・・)何を(・・)


「お前は、何を知っていた!」


 風に黒髪を散らし、ルシファーがふわりと微笑む。


「初めから、全てを――」


 レオアリスの怒りが膨れ上がる。

 それは剣光となり、触れたルシファーの皮膚を裂いた。風の中に紅い血が舞う。

 ルシファーは首を傾げ、憐憫を暁の瞳に載せた。


「可哀想に。王はあなたを置いていった」


 レオアリスは一瞬、呼吸を止めた。


「――違う」

「あなたの想いは知っていたのにね」

「嘘だ!」


 押し止められていた左手が、見えない拘束を振り切って動き、鳩尾に触れる。


「嘘だ! お前は、黙れ!」


 指先が、沈む。

 ルシファーの囁きは、苦痛を堪える意識にするりと滑り込んだ。


「何故なのか、王に、聞きたい――?」


 苦痛に眇めていた瞳が見開かれる。

 その瞳に、ルシファーは花のように微笑みかけた。

 漂うのは木蓮の、清澄な香。


「私と、ボードヴィルへ、来る?」









 激しく扉が打ち鳴らされる音が断続的に響く。先ほどまで静けさに包まれていたのが嘘のようだ。

 王太子宮の警護官長ブラントは暗い廊下を扉へと駆け寄り、音を鳴らす扉を見上げた。


「何事だ!」


 無理矢理開こうとするのか、両開きの頑丈な扉が時折内側へギシギシと軋み、それを警護官や侍従達が抑えている。優美な(かんぬき)は扉の向こうの圧力を退けるには頼りない。


「ここを開けろと――王太子殿下への面会を求めると」

「殿下に? このような狼藉は有りえん、一体誰だ」

「そ、それが」


 不意に警護官達が抑えていた扉の中央に、丸く光る模様が浮かび上がった。

 気付いたブラントがそこにいた部下の腕を掴み引き剥がす。次の瞬間、扉はそこだけ丸く抜き取ったように失われ、向う側を覗かせた。

 閂と鍵を失った扉が圧力に負け、抑える警護官達を押しやり内側へ開く。雪崩れ込んだ男達の纏う色を見て、ブラントは思わず言葉を失った。


「王太子殿下警護官長のお迎えか、話が早い」


 近衛師団第二大隊大将トゥレスは、開け放たれた扉を悠然と潜り、隊士達が列を作る中、ブラントの前に立った。


「夜分遅く申し訳ないが、王太子殿下に御目通り願いたい」







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