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第2章「身欠きの月」(17)

 アボットは穏やかで、どこにでもある平凡な村だった。


 村はアレウス国西方の、正規軍第六大隊左軍仮駐屯地バッセン砦から南におよそ十二里、西の主要街道からやや離れた場所に位置している。

 茶葉の生産地でもあるアボット村は、見渡す限り緩やかな斜面に緑の茶畑が広がっていた。

 陽射しは穏やかに茶畑の畝を照らして葉を輝かせ、風は熱を拭い去るように緩やかに吹き抜ける。広い茶畑の斜面にところどころ村人の家が点在し、静かな佇まいを見せている。


 今、西の果てで発生しこの地をゆっくりと侵食している出来事などとは、まるで関わりのない表情で日々の営みを続けていた。

 その中で、ワッツと、スクード達だけが日常と切り離された異質な来訪者だった。身に纏う正式軍装は互いに昨日から何度となく埃を被り、ワッツに至っては泥と返り血を落とす余裕すら無いままだ。


 スクードは彼の叔父から借り受けた狭い居間でワッツを前にし、オズマが報告した内容と同じ事をもう一度彼の口から繰り返した。二度目のそれをワッツは黙って聞いている。

 ワッツの岩のような面は厳しくしかめられ、報告の間にも視線は何度か、二階の寝室のある天井へ流れた。


 スクードの話を聞き終えると、ワッツは息を吐いた。


「どう対応するか、まだ考えが決まってねぇ」


 率直な言葉にスクードも頷くしかない。


「とにかくスランザール公に伺いを立ててる。王都は()()()()()()()()を認めなかったが、とはいえ()()娘は、あの旗を振る為のルシファーの隠し札だったわけだな」


 人質だ、とはっきり言ってワッツは鼻に皺を寄せた。


「その札が消えれば、旗を降ろさせる事ができるかどうか……」

「ルシファーはまだこの事に気付いていないと思われます。我々がボードヴィルに対し、彼女を救出した事を宣言すれば」

「どうだろうな。気付いてて、手を打つ必要がないのかもしれねェ」


 何故ならもう西海はボードヴィルを襲撃し、『旗』は掲げられた。


「まだ目が覚めてねぇんだな?」

「は。昨晩、我々がヒースウッド伯爵邸から連れ出してからこの家に落ち着くまで、一度も目を覚ましておりません。村の産婆に見てもらいましたが、ひとまず何も問題なさそうに思えるとの事でしたが何か対処できるわけではなく」

「仕方ねぇ。法術士の領分だろう。腹ん中の赤ん坊の事も気になるが――」


 ルシファーはそこまで、という言葉をワッツは飲み込んだ。それは根拠がない。


「せめて、ボードヴィルのイリヤ殿に、彼女の無事を知らせてやりたいのですが」

「そうだな――」


 ワッツも唸り、顎に手を当てて床を睨んだ。

 ボードヴィルにはヴィルトールがいる。そのイリヤという青年を縛るものが無くなれば、何かしらの手を打てるのかもしれない。


「王都の判断もある。と言うよりもその娘、いや、婦人か、王都へ送った方がいいと思うんだが」

「はい。ボードヴィルへは、連れていけないでしょう。この先連れ歩く訳にも、この村に置いていく訳にもいきません」


 居間の壁に張り付くように造られた階段が軋み、兵士が一人駆け降りてワッツとスクードへ敬礼を向けた。


「ワッツ中将、スクード少将! 今、目を覚ましました!」


 ワッツとスクードは顔を見合わせ、同時に椅子から立ち上がった。









 正午の鐘の音とともに、王都の街の全ての地区の広場に、三名の正規軍兵士が立った。

 それは五月、新緑の月に入ったその日の出来事であり、王都の住民には長く忘れられない一日になった。

 正確には、昨日の不可侵条約の破棄、つい二刻前に王都の数カ所で起きた凄惨な事件、そしてこの後の、彼等が目の当たりにした事と――


 それまでの平穏な日常が一変したその三日間を、王都の住民達は長く忘れる事ができなかった。


「アレウスの民よ――」


 彼等はそれぞれその広場で一番見晴らしの良い場所に立ち、雑踏の中に声を張り上げた。広場にいる人々の視線が次第に兵士達に集中する。

 そして静まり返った。


「昨日行われた、西海との不可侵条約再締結は、破棄された!」


 何の話をしているのか、という疑問の声が当然のようにあちこちで上がる。それと共に、やはり大きな問題が起こっていたのだと頷く者も半数近くいた。

 兵士達は自らが告げる内容に顔を強張らせながら、なおも声を張った。


「西海は不可侵条約を一方的に破棄した上に、条約再締結に赴かれた陛下の御身を返さず、我が国の勧告を受け入れず、既に水都バージェスを占拠、最西端の軍都ボードヴィルへ兵を進めている!」


 一度湧き起こった騒めきは、すぐに蓋をされたように小さくなった。


「多くの者が既に知っているように、西海は今朝、この王都に於いて、東クレモント地区、北アルティグレ地区、西ヴァン・ルー地区を襲い、多くの死傷者を出した! これ以上の暴挙を、我が国は決して許す事はできない!」


 その広場は三つの橋から遠い区域にあったが、そこで何が起きたのか、一刻も経った頃には虚実織り交ぜ様々な話が伝わってきていた。だが共通しているのは怪物が突然王都に現れた事、そしてその怪物が街を襲い、その為に多くの人が亡くなったのだという悼ましい出来事だ。


「これから言う事を落ち着いて聞き、みだりに騒ぐ事を避けよ」


 その言い回しに、広場に集まった人々の意識が集中する。

 不安な予感を誰もが感じていた。


「我が国は――」


 声は青く透明な空に、どこまでも吸い込まれた。


「本日正午、この時を以って、西海に対し宣戦布告した!」







 ばたばたと通りを駆け抜ける足音、早口で興奮した話声、それらが混じり合い、街は何処もかしこも騒がしかった。


「みんな! 大変だ!」


 袋小路になっている路地の一角に走り込んだ三人の少年は、そこにいたもう三人のやや年下少年と、一人の小さな女の子の前で息を切らした。


「広場でなんて言ってたの?」

「た、大変なんだ……!」


 咳き込んで告げたものの相当走り続けてきたのか三人とも息が続かず、年下の少年達の不安そうな顔を見交わす。


「プティ、ねぇ」

「大変だ――」

「だから、なんて」

「お――王様が、西海に、捕まっちゃったんだって!」


 プティと呼ばれた少年は真っ青な顔でそう告げた。年下の少年達がぱちくりと瞬き、それからどこか怒ったように言い返す。


「嘘だぁ!」

「嘘言うなよ、プティ。王様が捕まるわけなんてないよ!」

「そうだ! この国の王様だぞ!」

「だって、正規軍の兵隊が言ってたもん!」

「嘘なんか言わねーよ! ちゃんと聞いたんだからな!」


 プティとプティの横にいたサルカが更に言い返し、もう一人、彼等と一緒に走って戻ってきたエルは、自分の傍に来た四歳くらいの女の子をぎゅっと抱きしめた。

 少年達が黙り込む。やがて一番年下のテッドが、不安のこもった上目遣いでサルカを見上げた。


「じゃ、じゃあ、どうなるの?」

「――」

「戦争になるの?」


 気弱そうなケイがおそるおそるそう言うと、じわりと目に涙を浮かべた。

 サルカとプティがお互いを肘でつつく。


「お前、なんか言えよ」

「分かんないよっ」


 それまで黙っていたエルが妹を抱きしめたまま、さっと顔を上げた。


「大丈夫だよ、王の剣士がいるもん!」


 強い口調で、エルはもう一度断言した。


「絶対、大丈夫だよ!」


 少年達がお互いを見つめる。プティが握った拳を振った。


「――そうだ、王の剣士がいるよ!」

「炎帝公様だっているぜ。西海なんかより絶対強いもん!」


 互いに手を握り合い、わっと声を上げる。


「なぁ、兄ちゃんにお願いしに行こうよ」

「お城に?」

「そうだよ、街を守ってって」

「行こう!」

「街だけじゃないよ、この国を守ってって言うんだ」

「絶対守ってくれる!」

「エルにいちゃん、どうしたの?」


 タニアは傍のエルの腕を引っ張り、無邪気に愛らしい首を傾げた。エルは妹の肩を抱き寄せる。


「大丈夫、にいちゃんがいるから。それに、王の剣士がいるんだから」


 前にエル達はレオアリスと会って、助けてもらった。それは彼等だけの小さな問題だったけれど、レオアリスは彼等を助けて、大切なものの為にやらなくてはいけない事を教えてくれた。


「大丈夫」


 もう一度そう言って、絶対に、何があっても妹は自分が守るんだと、エルはタニアをぎゅっと抱きしめた。







 大通りの不安そうな騒めきが、店の硝子戸や窓を抜けて店の中にも静かに侵食している。


 布告から一刻が経ち、不安は収まるどころか増して行くようだ。大通りにはところどころ正規軍の兵士達の姿が残り、住民達の不安を和らげようと彼等の質問に答えている。

 けれどその兵士達も、布告の内容以上の状況はほとんど判っていないというのが実際のところのようだった。


「どうしよう、一体何が起こってるの――?」


 マリーアンジュ・デントは掠れた声を押し出し、人気のない店内を見回した。まだ昼間なのに、急速に暮れていく夕闇の中にいるように思える。


「父さん――まさか、戦争に、なるの?」


 両手をもみ絞るように合わせながら、傍に立つ父デントの顔を見上げた。店内はこの時間、直接陽光が入らず、父の面も一層翳って見える。

 デントはマリーンの肩に手を置いた。


「……大丈夫だ。宣戦布告したと言っても、西海との話だよ。第一ボードヴィルがあるんだ、正規軍の」


 とにかく騒ぎ過ぎちゃぁいかん、と力強く言い切る。


「しかしうちは西との商売は余り足場が無いが、カッセルのところなど影響をもろに受けるだろうなぁ」


 王都の商売仲間達の中でも西に急使を走らせた者は多い。とにかくこの先商売がどうなるか、一番の心配事はそこにあった。デントも彼等の持ち帰る情報を今すぐにでも聞きたい気分だ。


「王様が、西海から戻っていらっしゃらないって」


 マリーンは瞳を伏せ、組んだ両手を目の間に当てた。


「レオアリスは、どうするのかしら」


 デントは返答に困った様子で娘を見たが、ことさらに声に力を込めて押し出した。


「ああ――心配だ。だが、エルゲンツの海魔は彼が倒したんだろう。当然、大丈夫だろうさ」

「そう、そうよね」


 この中層の北で起きた凄惨な事件はマリーン達の店がある南の地区まで伝わっていて、いっとき前までその話で持ちきりだった。

 マリーンが広場で話した人達は、知り合いも知り合いではなくても、この国には王の剣士がいるからと、そう口にしていた。


 住民達にとっては王の剣士は特別な存在だった。炎帝公を語る時と同様に、その存在があればこの国はきっと何も心配する事はないのだと、そう信じ、――期待している。とても強い期待で、たぶんそれは彼の持つ剣の力を考えれば間違いではなのだろう。


 けれどマリーンにとってはレオアリスはまだ十八歳で、どれほど剣士として他を寄せ付けない力を持っていたとしても、周りと同じようにただ期待する事はできなかった。


 王が――レオアリスにとっての剣の主が、いないこと――

 マリーンは肩を震わせた。


(王様が、はやく戻っていらっしゃいますように)


 組んだ両手を額に当てる。

 王がどんな状況にいるのか、兵士達ははっきりとは答えてくれていない。

 けれど王は戻って来ると、マリーンは思っていた。

 彼等の王が、この国を長い間治めてきた王が、戻って来ないなどとは想像もできなかった。


 布告を知った住民達の誰もが、不安を抱えながらも、王は戻って来るとそう信じていた。









 扉が閉ざされて一刻――、いや二刻近くは経っただろうか。

 おそらく昼の一刻を過ぎた頃だとは思うが、この部屋にはそれを判断する術がない。

 ただ幸い窓はあり、そこから覗く空は少しばかり時間の移ろいを読み取る事ができた。


 ロットバルトは窓際に立ち、薄く雲を浮かべた空を見上げた。この館は西に向いていて、王城は背後に位置している。

 今いる部屋は三階にあり、露台も無い。窓は嵌め込まれているものの外せなくはないが、降りるのはさすがに困難だった。

 窓から見える庭園には警備隊士の姿が見える。その肩を覆う色は燕脂だ。廊下も当然、同じ臙脂の肩掛けを身に着けた警備隊士が立っているのだろう。


 室内を振り返り、腕を組んで壁に背を預けた。

 考えるしかやれる事がない。

 おそらく正午に、西海への戦線布告が王都中で発布されただろう。王都は今混乱しているはずだ。


 西海の動きはあるか、更に侵攻を続けるのか。ナジャルが王都に現われた状況を考えれば、今後国内のどこであっても同様の――それ以上にも、被害を受ける可能性がある。


 ルシファーがボードヴィルで、イリヤを掲げてこの後どう動くのか。

 西海軍を呼び込んだのはルシファーだと考えられる一方で、西海軍はボードヴィルを攻撃している。ルシファーの思惑は今も測り難いままだった。


 何より危惧しているのは、王の姿を見たという第七大隊の情報だ。

 絶望に向かう昏い道に灯された光。

 それが真実ならばやがて全てを照らし出す光だが、偽りであれば導かれる先に道は無い。

 何よりもその光に惑うのは、おそらく――


 両手が強く握り込まれる。


(こんな時に、こんな場所で手も足も出ないとは)


 判断を間違っただろうか。あのまま王城に残る事も可能だった。司法庁の審理も、ヘルムフリートとの対面も、後日に延ばす事は可能だっただろう。

 あの時、あの場を離れる判断をしたのは。

 ()()()()()

 意識の奥で、一瞬の熱が蠢く。


 錠が下された扉は初めに閉ざされてから開く気配が無い。

 ただ、拘束もせずこの場所に留め置くだけとは、随分と甘い処置だとロットバルトですら思える。


(まだ方針が定まっていないのか)


 今の長老会はおそらく、ヘルムフリートの意思に表立っては反対しない。ただ表立ってはというだけで、状況が変われば当然対応も変わるだろう。その為にヘルムフリートは迷っているのかもしれない。


(――どうだろうな)


 もうヘルムフリートには後が無いのだ。

 引き返す道は無い。


(進むしかないのなら、亀裂が広がる前に禍根を絶つべきだ)


 ただ、その方法をヘルムフリートが選べたのなら、そもそも彼等の父は――

 チリ、と熱が脳裏を焼く。


「ああ――嫌な事に気が付いた」


 ロットバルトは蒼い双眸を見開き、微かな呟きを落とした。

 どこか離れた場所に、心臓の脈動がある。

 自分は、この件を聞いた時から、ヘルムフリートが父侯爵を手に掛けたのだろうと――そう考えている。

 当然のように。


 意識の奥の熱。

 その微かな熱が、目を逸らそうとも事実は厳然としてそこにあるのだと、そう突き付けている。

 鼓動は変わらず遠い。

 自分が何から目を逸らしているのか――


 判っている。

 こんな事態であっても、自分が望むものだけを望もうとしている。


「なら、この結果も当然か」







「ええ、そうです」


 広い室内の床は黒と銀と灰色の入り混じった大理石が硬質で無機質な印象を与え、陽射しに満ちた屋外よりも数度、室温が冷えて感じられた。

 壁も藍白の大理石が高い天井部分まで覆い、室内の東側の壁に並ぶ黒曜石の窓枠が淡い光に滲んでいる。

 広大な館全体が、冷たく無機質な色と素材で構成されている。

 この館の主に相応しいとトゥレスは思った。


 目の前に座る男は高い背もたれに悠然と背中を預け、トゥレスの事をどう考えているのか探り難い瞳でトゥレスを眺めている。


「その情報がどれだけ確実か、そこは問題ではないでしょう。ごく僅かな希望しかないものであっても――動く」


 男の瞳に浮かぶ色は動かない。

 ただトゥレスも、それで自らを占おうとは思っていなかった。


「これは私にとって千載一遇の好機であり、今を逃す手は無い。その為に」


 膝をつき傾けていた上体を起こす。


「――東方公」


 目の前の男――東方公ベルゼビアを見据え、口元に笑みを刷いた。


「できれば転移に長けた法術士をご用立て願いたいのです。何も彼の地に繋げていただく必要まではありませんが」


 ベルゼビアは僅かに瞳を細めた。


「用意しよう」


 トゥレスの後方に立つ家令へ、酷薄な瞳を向ける。


「有難うございます」


 トゥレスは顔を伏せ、それから立ち上がった。


「他に望みはないのか?」

「充分です。私は、私の望みの為に動くまで。それが成功するとしても、失敗に終わるとしても――。どうぞ貴方は貴方でご随意に」


 昂揚を覚える。

 恐ろしく細くもろい橋を渡ろうと、深い断崖を覗き込む時のようだ。

 十年来、トゥレスが感じる機会の無かったもの。


 深々と一礼し、控えていた家令に案内されて背後の扉へ向かう。


「難儀な男だな」


 部屋を出る間際、微かな笑いと共に投げられたベルゼビアの言葉に一度振り返り、既に閉ざされた扉に背を向けながら、トゥレスはそれもそうだと笑った。








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