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第2章「身欠きの月」(15)

 ヴェルナー侯爵邸の議場は主邸の二階に位置し、広い室内に多くの場合と同様、長老会に対応する為に楕円の卓が置かれている。

 しかし今、ヴェルナー侯爵家長老会を構成する八名が座る卓は半円状に配置され、中央に立つ一人を取り囲む配置に変えられていた。半円状の卓の頂点が一段奥に退き、通常、総主が座るその席に今いるのは、ヘルムフリートだ。


 正面の中央、あたかも法廷の被告人席を思わせるそこに、椅子も卓も無く、ロットバルトが立っていた。

 ロットバルトの後方ではヘルムフリートの秘書官のレーマンとクレメル、そしてオルブリッヒと数名の警備隊士が扉を塞ぐ位置取りで議場内の様子を窺っている。オルブリッヒはこの部屋に入ってからは強気を取り戻したのか、腕を組み口の端を吊り上げ列席者達を眺めていた。


 卓にはヘルムフリートの他に七名が既に席に着いていた。ディアデーム伯爵、オリング子爵、ハルスケット子爵、アルハンド子爵、フーシュ男爵、アンヘング男爵、ブロッシ男爵と、それぞれ主に北方に所領を有する貴族達だ。

 ほとんどが王都に館を有し所領と王都を頻繁に行き来しているが、一人、アンヘング男爵は王都から馬で二日の距離の領地内に常駐しているため、この件でおそらく早朝から飛竜を駆ってい駆け付けたのだと思われた。

 やはりルスウェントの姿は見当たらず、本来ルスウェントが座る総主の右隣りの席には、今は次席であるディアデーム伯爵が座っている。


 長老会の面々は皆、中央に立つロットバルトと目を合わせようとせず、視線をあちこちに彷徨わせていた。その仕草の為か、漂う落ち着きのない空気の為か、長老会の役割である意思決定機関としてはやや弱い印象を抱かせる。


 ただ、もともとヴェルナー侯爵家の長老会は他家に比べその権限は名目に近く、その行使も形式的であり、ほとんどの意思決定は総主であるヴェルナー侯爵により行われていた。

 おそらくヘルムフリートは、そのやり方を踏襲するだろう。


 この長老会は、ただ形を整えたに過ぎない。ヘルムフリートが是とした事に首を縦に振るだけの役割だ。

 そうしなければルスウェントの次は自分だと、解っているのだろう。


(長老会の意思を動かす意味は、今は無いな)


「正面を見ろ」


 尖った声が投げられ、ロットバルトは改めて、向かい合う位置に座るヘルムフリートの顔を見つめた。後方に背負った広い格子窓から差し込む光が、ヘルムフリートの顔にやや陰を纏わせている。

 随分と久し振りだと思い、それから一昨日の晩に一度顔を合わせたのだったかと思い直す。


 あの時、王はヘルムフリートをヴェルナー侯爵家の後継者として認めた。ただその事を、父、ヴェルナー侯爵は伝え聞いてはいなかったはずだ。

 もし王のその言葉を聞いていたならば、ヘルムフリートを後継者のままにと思い直しただろうか。

 そうすれば、ヘルムフリートは実の父を手にかける事もなく――


 違うな、と心の中で呟いた。

 あの父は、それでも自らの意思を変えはしなかっただろう。

 ではどこでなら、この結末を変えられたのか。

 ロットバルトは自分の中から浮かび上がって来るものの意味を考えた。それは胃の辺りを燻るようだ。


 ヘルムフリートの声に苛立ちが篭る。窓の外は雲が厚いのか、室内が薄く翳った。


「この場に立っている意味は解っているな」

「――父上が亡くなったと、お聞きしました」

「発言を許した覚えは無い!」


 手のひらが卓を叩き、激しい音が鳴る。それが耳元を打つようで、長老達はびくりと身体を竦めた。だが顔を向けてヘルムフリートを見ようとする者は無い。


「父上は亡くなった。殺害されたのだ。誰が父上を殺したのかも判っている。『お聞きした』などと、白々しい物言いは()すのだな」


 ヘルムフリートは自分の言葉が放つ効果を確かめるように口を閉ざしたが、ロットバルトの表情が変わらないのを見ると忌々しさを露わに眉を歪めた。


「殺害の状況は判っている。お前は父上がこの私に爵位を継承すると仰ったのを聞き、それに腹を立てたのだ。この館には――長老会の間でも、父上がお前を後継者にするのではと、まことしやかな噂が流れていたのだからな」


 ヘルムフリートの不快さを隠さない視線が長老会の面々を睨み、長老達の間に重い緊張が流れる。


「自分が後継者だと浮かれていたのが、覆されたのだ」


 ヘルムフリートは卓上に置いたままの右手を握り込んだ。


「……お前は昨夜、この主邸に密かに浸入し、書庫に隠れて父上の帰りを待った。そして深夜、父上がお帰りになったところを殺害した」

「ああ――」


 そういうことか、と、小さな呟きを素早く捉え、ヘルムフリートは声を荒げた。


「何を――いいや、発言の許可を与えていないと言ったはずだ!」


 声は怒りに満ちながらヘルムフリートの面は青ざめている。


「証拠もあるのだ! 言い逃れできない証拠だ。父上を殺害した剣が――、近衛師団のな!」


 長老達はそれを聞かされていなかったのか、互いに顔を見合わせて騒めいた。

 ようやく満足そうな素振りを見せ、ヘルムフリートは瞳に光を昇らせた。


「この家で近衛師団に関わっているのはお前だけだったな。違うか?」

「その通りです」


 ヘルムフリートの鼻先に皺が刻まれ、吐き出した息に侮蔑が篭る。


「王家を守護する近衛師団とはいえ、大隊如き、それもどこの馬の骨とも知れぬ輩の下などで満足しているなどと、侯爵家の品位を貶めるお前のその行動は常々忌々しく思っていたが――」


 ロットバルトを見据え高らかに連ねていた言葉が、向かい合う瞳の色を見て取り、次第にくぐもる。その時再び窓の外の陽射しが熱を取り戻し、ヘルムフリートは顎をぐいと持ち上げた。


「その剣を今、見せてやろう!」


 ヘルムフリートが立ち上がる前に、オルブリッヒが一歩進み出た。


「お待ちください、侯爵。その前に確認したい事がございます」


 そう言ってオルブリッヒは薄い笑いを面に張り付かせてロットバルトへと近付くと、右手を無造作に突き出した。


「ロットバルト様、貴方の剣をこちらで預からせて頂けませんか。本来議場へ入室される前にお願いすべきでしたが、失念しておりました。つい先ほどまで任務に当たられていたのです、当然、帯刀されているでしょう」


 失念していたと言いながら、オルブリッヒの意図は明らかだ。ロットバルトはオルブリッヒへと僅かに視線を傾けた。


「――今は帯刀していない。王太子殿下の御前では、帯刀しない決まりになっている」

「何と――、剣を持っていないですと?!」


 勝ち誇り、大仰なそぶりで両手を広げ、オルブリッヒは半円の卓を見渡した。


「聞いたでしょう、御一同、これは決定的な言葉です! 弟君は近衛師団支給の剣を所持しておられないと―― ! ですが、王太子殿下の御前だったなどとはただの言い訳に過ぎません。剣が無いのは当然です! なぜなら――」


 オルブリッヒは言葉を区切り、議場の片隅にある台に歩み寄ると、掛けられていた布を剥いでそこに置かれていたものを掴んだ。

 布のひらめきが目に踊る。

 一目で剣と判るそれを、全員に示すように突き出した。


「貴方の剣はここにあるのだから!」

「それは」


 アルハンド子爵が身体を捻り、苦しげに眉を寄せる。

 黒い革の鞘に包まれた剣が鞘から引き抜かれると、まだ生々しく血の痕が残る刀身が晒された。

 銀色の冷たい金属の表面に、赤黒くこびり付いているその痕を捉え、ロットバルトは一度瞼を落とした。







 時計の針があと僅かで十一刻を指そうとしている。

 謁見の間にほど近い一室で、スランザールは暖炉の上に置かれた時計から目を離した。


「大公、どう思われる」


 ヴェルナー侯爵の件は、と問うと、ベールの眉根に気鬱の色が動く。普段覗かせる事のないその表情に、さもありなんとスランザールは袖の中で組んでいた細い腕を解いた。

 事態は刻一刻と、混乱の様相を増して急速に変化している。嵐が来る前の空を見るようだとスランザールは思い、ではこれ以上の嵐とは何だと、また思った。


 ファルシオンはつい先刻、レオアリスを伴って居城へ戻ったところだ。しかし身体を休める時間がどれだけあるか――その時間も充分に無くすぐにこの場へ戻る事になるのではないかと、スランザールにはその思いが強い。恐らく誰もが同じような不安を抱えているだろう。


 ベールは小さく、ヘルムフリート・アドラジーク・ヴェルナー、と呟いた。そこにはあの青年をベールがどう捉えているのか窺わせるものはない。


「現在はヘルムフリートがヴェルナーの実権を握っているようだが、異例の事態については公の場で光を当てるしかない。問題はこの件が、何にどう絡むかだが――」


 やはりベールもそう考えているかと、枯れた指で皺深い面を覆う白い髭を撫で、眉の奥の瞳を落とす。


「普段ならば一つでも起こり難い事態が、次々と発生する。不可侵条約の破棄、西海の侵攻、ナジャルの出現と王都への襲撃――これらは全て、西海かルシファーのいずれかが糸を引いたものだ。その中で、これだけが全くの単独で発生したと考えてしまうのは危うい」

「ヴェルナー侯爵の死……」


 スランザールは眉を寄せ、哀悼の篭った息を吐いた。


「国政にとってなお一層の混乱は必須であろうが、西海はそれによって何の利を得るのか。――大公、貴殿の周囲では不穏な動きは見られなかったのか」

「今のところは無いが……ふむ」

「大公ではなく、アスタロト公爵でもなく」


 スランザールの脳裏に一瞬過ったのは、東方公ベルゼビアの動向と、意図だ。この朝議に姿を現わさなかった意図。ただ、(にわ)かに今回のヴェルナーの件に繋がるものは見えなかった。


「まずは何より、王太子殿下の警護体制の強化が必要だろう。王宮警護官に加え、近衛師団の王城警護の増強を図る必要がある」


 ベールの言葉にスランザールも頷いた。

 この件により危うさを孕んだのが、その点なのだ。


 ファルシオンの警護にはレオアリスが就いており、普段のレオアリスであれば問題ないと思えるが、今はレオアリス自身が懸念の一つでもある。第一大隊も既に、ファルシオンの居城に限ってだが体制を増やしている。


「では、ハリス殿とトゥレス大将を、ここに」


 かちりと音を立て、長針を動かす歯車が回る。

 同時に、王城の塔にある鐘が、高い音を響かせ始めた。








 遠くで十一刻を知らせる鐘の音が流れる。高く澄んだその音は、今はこの場に、ひやりとした不安を差し込むように思えた。

 オルブリッヒが掲げた剣の、冷たい刃の色と同じく。


「近衛師団に支給される剣です。柄と鞘に近衛師団の紀章が刻まれている。これ一つで近衛師団の権威を示すのです。そこらの者に手に入れられるものではありませんよ、これは!」


 ロットバルトを見据え、オルブリッヒが一歩踏み出す。


「貴方が剣を持っていない事と、ここにこの剣がある事――貴方のお父君を殺害した剣が! これについて、一体どう説明されるのです!」


 長老達が顔を見合わせる。

 ロットバルトは息を吐き出した。


「その論理は不完全だ。そもそもその剣が私に支給されたものだと、それを証明する方が困難な作業だろうな」

「な」

「近衛師団は四千五百名で構成されている。その剣が四千五百名の内の誰の所有だったかか、どう証明する?」


 ヘルムフリートが椅子を鳴らす。


「発言を許した覚えは無いと」

「問われているのに発言しなければ、確認にもならないでしょう。それとも私に発言されて不都合がありますか」

「何だと」

「不都合がなければ、まずは話を聞いた上で判断される事を求めます。この先兄上がヴェルナー侯爵家当主として長老会の意思をまとめ、侯爵家を差配、経営していくのであれば、異なる立場の者、疑わしき立場の者であってもその主張を聞く事は必要な手順であり、指導者たる資質です」


 半円の卓を囲む長老達は、押し黙ったヘルムフリートの面をはらはらと見つめた。


「ロ、ロットバルト様、あまりお言葉が過ぎては」

「黙っていろ! お前は罪人を庇いだてするか!」


 押し留めようと片手を持ち上げたディアデーム伯爵を、ヘルムフリートは焼き尽くさんばかりに睨んだ。


「そ、そのようなつもりは」


 口の中でくぐもった言葉を飲み込んだディアデームと、卓に並ぶ長老会の面々の顔を見回す。ぎり、と奥歯を噛んだ。


「……ロットバルト、発言を許す。だがその言葉は聞くに耐えるものだろうな」


 ヘルムフリートの苛立ちが音になって聞こえるようだ。


「有難うございます。さて――、その剣に話を戻せば、近衛師団隊士は入隊時、一人に対して二振りの剣が貸与されます。消耗、破損した場合や紛失した場合は申請を上げ、再度の貸与を受けるのが通常です。つまり組織として記録が残る」


 管理は厳しく、退団の際には他の貸与品とともに剣も返還する。それは正規軍も同様だった。


「その剣が私のものだと証明するのであれば、私が違うと主張しようとしまいと、近衛師団の全隊士――」


 掲げている剣が重さを増したとでもいうように、オルブリッヒの腕が次第に下がる。


「少なくとも第一大隊千五百名について、現時点での剣の所持を確認する必要があるでしょう。それも互いに便宜を図れないよう、事前通告なく抜き打ちで行うのが好ましい。今、この時点で行う事が最善です。第一大隊にもこの件は理解を得られるでしょう」

「……御託を述べおって。自分の剣ではなくても、誰か別の者の剣を使えばいいだけだ。それか部下に殺害を命じればいい。お前はそれが可能な立場にある」

「その主張をされる事は可能です。しかし私は、殺害も、殺害を他者に指示した事も一切ないと、主張させていただきます。それは法廷の場でも宣誓できる」


 オルブリッヒの腕は完全に下がり、その目はちらちらとヘルムフリートの横顔へ注がれている。

 ディアデームは長老達を見回し、おそるおそる傍らのヘルムフリートへ水を向けた。


「へ、ヘルムフリート様、ここはやはり法廷に、判断を任せては」

「黙れ!」


 再びディアデームを怒鳴りつけ、ヘルムフリートは手のひらで鋭く卓を鳴らした。


「私に指図をするな! 私がヴェルナーの当主だ、私が判断する!」


 卓の上に敷かれていた白地に青の繊細な布を掴み、ぐしゃりと握る。


「ロットバルト、お前はそれで上手く逃れたつもりになっているのかもしれないが、証拠はそれだけではない――お前が、父上を殺したという証人がいるのだ。オルブリッヒ」

「はっ!」


 オルブリッヒは大股で隣室の扉へと駆け寄り、扉を開けるとその向こうから二人の人物を追い立てるように連れ出した。

 二十歳にもならないだろう若い女官と、もう一人は服装から庭師のようだ。

 一斉に視線が集中する中、二人はおずおずと半円の卓の近くに寄った。


 オルブリッヒが二人の肩に手をかける。


「お前達が見た事を、侯爵と長老方に話すのだ」


 最初に口を開いたのは男の方で、さっとオルブリッヒを見ると俯きがちに声を絞り出した。


「お、おれは――、今朝、お屋敷に飾る花をそろえようと思って、庭にいたんです」

「いつ頃だ」


 長老達は不安を帯びた眼差しで庭師を見つめている。


「まだ、暗いうちでした。その、五つは回ってなかったと思います」

「その時何を見たか、はっきりヘルムフリート様へ申し上げるのだ」

「――だ、誰かが、館の裏口から、出てきました。その、あ……慌てて」


 緊張のあまりしどろもどろになって、庭師は何度も両手を握り込んだ。


「慌ててて、周りを気にしているようでした。お、おれは薔薇の茂みにいたんで、暗いし向こうからは見えなかったと思います。でも、本当に――で、でもすごく暗かったんですが――」


 庭師が口をつぐみかけると、オルブリッヒは肩に置いていた手に力を込めた。庭師はびくりと青ざめ、顔を伏せた。


「た、確かに、ロットバルト様だったと思います」


 長老達が眉を寄せる。

 オルブリッヒはもう一人の証人へも、同じように肩を掴んで促した。


「お前も話せ。さあ!」


 女官が身体を震わせ、青ざめた顔を持ち上げる。


「わ、わたしは、その」


 女官はヘルムフリートを見まいとするようだった。死んだ侯爵の部屋で、ヘルムフリートが家令を殺した、その瞬間を目撃してしまった娘だ。小さな、悲鳴にも似た声を上げた。


「わたしは、その剣が、御館様のお身体の横に落ちているのを見ました! こ……ッ、近衛師団の剣です。そ、それだけです!」


 娘は倒れるようにオルブリッヒの足元に突っ伏すと、額を床にこすり付けた。


「わたしが見たのはそれだけです! それ以外は、なんにも見ておりません! ち、誓って」

「も、もういい、下がれ!」


 オルブリッヒは慌ててて女官の身体を起こして押しやり、庭師の男と共に廊下へと出した。

 扉が閉まると長老達が互いに言葉を交わし、頭が揺れる。


 ヘルムフリートはロットバルトを睨んだ。自分に向けられる双眸を。

 この場に至ってもその色は静かで、ヘルムフリートの裏側を見抜くようだ。


 ヘルムフリートの瞳はくすんだ赤みを帯びた黄色――榛色(はしばみいろ)で、その色は蒼い色を持つ彼の父とも、目の前の弟とも似ていない。

 ヘルムフリートはその色を憎んでいた。


「――証言を聞いただろう。お前は前侯爵殺害の容疑者だ。お前がどれほど詭弁を弄そうとも、それは決して変わらない」


 そうだ。ヘルムフリートは目の前の存在を憎んでいたのだと、初めてそう思った。


 恐らく自分の嘘を全て見抜いている、この弟が。

 この弟と同じ色の瞳を持つ――


「処分が決まるまで、お前はこの館に留め置く。だがお前が考えを改め、罪を認めて心から謝罪するのならば、寛大な処置をしてやらんこともない」

「貴方が提示した証拠と推測の中に、認めるものがありません」


 ヘルムフリートは束の間口を閉ざし、それからオルブリッヒに連れて行けと吐き出した。ディアデームが瞳をきょろきょろと動かす。


「お待ちください、ヘルムフリート様、ロットバルト様をどちらへ……し、司法官が来ていると」

「構う必要はない。これはヴェルナー侯爵家の問題だ」

「兄上」


 その響きは、ヘルムフリートの目を向けるのに充分だった。

 そして周りの者達は、兄と弟――彼らの間に本当にそんな関係が存在するのかと、そう思わざるを得ないほど、はっとする響きでもあった。


 ロットバルトは中央に兄と向かい合って立ったまま、ヘルムフリートの双眸を見つめている。


「一目でも、父上の顔を見る事はできませんか」

「――その必要は無い」


 近寄ったオルブリッヒが忌々しさと同時に勝ち誇った色を面に浮かべ、ロットバルトへと退出を促す。

 ヘルムフリートとロットバルト、二人の間に流れた沈黙は、ほんの僅かの間だった。

 ロットバルトは扉へ向かいかけ、その半ばで足を止めると、もう一度ヘルムフリートを振り返った。


「何だ。認めるつもりになったか」

「貴方は、私がトゥレス大将に預けた言葉を、お聞きになりましたか」


 ヘルムフリートは蒼白になった。


「何の話だ――」


 拳が卓の上で握り込まれる。


「いえ。お聞きになっておられないのならば残念ですが、それで結構です」


 二人の間を断ち切るように扉が閉ざされる。

 ヘルムフリートはしばらくその扉を睨んでいたが、やがて息を吐いて口を引き結び、椅子の背もたれに身体を預けた。長老達は口を噤み、ヘルムフリートの様子を窺っている。


 議場内の静寂が耳を覆い締め付けるように思え、ディアデームが逃れようと頭をひとつ振った時、扉が叩かれた。


「――誰だ」


 ヘルムフリートが瞳を上げ扉脇の秘書官を促すと、秘書官のレーマンはいったん廊下へと出た。すぐに室内に戻り、ヘルムフリートへと近寄る。


「ヘルムフリート様、内政官房長官、ベール大公から使者が」

「ベール大公だと?」


 ヘルムフリートの顔が驚きと不安に張り詰め、レーマンを見返した。もう一人の秘書官クレメルが、レーマンの視線を受けて扉を開く。


 室内に入ったのは内政官房の官服を纏った壮年の男で、扉で一礼してからヘルムフリートと長老達が並ぶ半円の卓の前へ進み出た。

 先ほどまでロットバルトが立っていた位置で足を止める。


 ヘルムフリートにも見覚えのあるその男は、長官室長のエスクドだ。その事にヘルムフリートの顔はますます強張った。

 エスクドはもう一度身体を折って礼を向け、懐から一枚の書状を取り出した。


「ヘルムフリート殿。ヴェルナー侯爵家に対し、大公閣下を代理人とする通達をお伝え致します。明朝八刻より、国王代理たる王太子殿下の立会いのもと、今回のヴェルナー侯爵の死に関して、査問を執り行います」

「査問……」


 大公が、とヘルムフリートは呟き、それから唇を噛んだ。

 査問を開くのはベールではなく、王太子ファルシオンだ。


 口を噤んで視線を落としているヘルムフリートの様子をどう思っているのか、エスクドは手元に開いた文書を淡々と読み上げた。


「筆頭侯爵家たるヴェルナー侯爵が不慮の死を遂げられた事は、王太子殿下も重く受け止められている事であり、我が国にとっても看過すべからざる事態であると、殿下はお考えです」


 ヘルムフリートの左右に並んだ長老達は、エスクドが読み上げるベールの指示を抑えた安堵の色を浮かべながら聞いている。


「査問に当たっては、ヘルムフリート殿、ロットバルト殿、必ず両名揃って出席されたい。大公閣下からの通達は以上です」


 エスクドはそう言うと、手にしていた書状を丁寧にたたみ、レーマンへと手渡した。





 オルブリッヒは速足で議場に駆け込んだ。

 既に長老達は別室に退き、ヘルムフリートだけが先ほどのまま中央の椅子にもたれている。

 近寄るオルブリッヒから、片手に覆われたヘルムフリートの俯いた面が僅かに見えた。


「ヘルムフリート様、クレメル殿からお聞きしました。王太子殿下の査問が開かれると」


 強い腹立ちを覚え、オルブリッヒは奥歯を噛みしめた。


「ここに来て――もう長老会での結論は出たというのに。大公閣下は一体どちらの味方なのでしょう。ヘルムフリート様は内政官房の重要な役を担っておられるというのに。このようななさりようは、余りに情が無く形式的ではありませんか」


 低い呟きがオルブリッヒの言葉を遮る。


「――あいつを殺せ」


 オルブリッヒはぎょっとして、跳ねるようにヘルムフリートを見た。ヘルムフリートはまだ顔を上げておらず、右手に預けた面は窺えない。

 ただヘルムフリートが纏うひやりとした空気に触れ、オルブリッヒは喉を詰まらせた。

 ヘルムフリートの指示は――


「……し、しかし、ヘルムフリート様――」

「侯爵と呼べ」

「も、申し訳ございません、こ、侯爵、しかし、王太子殿下の査問が」

「自殺したと言えばいいのだ!」

「――」

「罪の意識に耐えかねて、自ら命を絶ったと」


 ヘルムフリートの顔が上がる。

 そこに浮かんでいるのはオルブリッヒが想像していた査問への不安や戸惑いではなく、激しい怒りだった。

 オルブリッヒはたじろぎ喉を震わせ、唾を飲み込むと無言で頷いた。





 庭木の陰から主邸の窓を見上げ、エイセルは唇を引き結んだ。二十代半ばの男だが、身のこなしはそれと判る者が見れば、普通の身とは違う隙のなさを感じさせる。

 幾つも並ぶ窓は無機質に太陽の光を弾き、その中の様子を窺わせない。


(ロットバルト様がどの部屋に入られたのか)


 エイセルが戻った時、ロットバルトの館は全ての使用人達が連れ去られもぬけの殻だったが、主邸の周辺の様子を窺ってもエイセルを探している様子は無かった。となるとバスク執事やフェンネル達は、エイセルが不在だったことを話していないのだろう。

 彼等の自分に対する期待――エイセルの本来の役割を知らなかったとしても、その期待が判る。

 エイセルの本来の役割は間諜だ。ヴェルナー侯爵が抱える諜報機関に属し、侯爵より命じられてロットバルトの警護の任に就いていた。今回何の働きも成していない事に、歯嚙みをする思いを抱えながらエイセルは考えを巡らせた。


(階上、もしくは地下だろう。しかし司法官達も出てこない。これは、いよいよ)


 館の角から二人の警護隊士が姿を現わし、館に沿って歩いてくる。肩に纏うのは臙脂色だ。エイセルはもう一組、さきほどから庭を向いて立っている警備隊士を確認してから踵を返した。

 茂みに踏み込んだ瞬間、気配を感じて身体を捻る。

 驚きがエイセルの面を()ぎる。


「貴方は――」









 ワッツは正規軍第七大隊と昨日合流した第六大隊左軍を、第六大隊の仮駐屯地バッセン砦へと向かわせ、自身は隊と別れて騎馬を駆っていた。一等兵のオズマがやや先に馬を立てている。

 向かっているのはアボット村だ。

 ボードヴィル偵察隊の少将、スクードが送ってよこした兵士オズマがワッツに告げた村が、南方のアボットだった。


 もう既に、細い土の道の先に、目指すアボット村の藁ぶき屋根が見え始めている。ワッツが手綱を抑えて速度を落としたのを見て、オズマもまた騎馬の足を緩めた。

 オズマは何も問わず、ただ馬を進めていく。

 ワッツは分厚い唇を引き結び、近付いてくる村の景色を見据えた。

 もし、そこにいる人物が。


(オズマの――スクードの言う通りなら……)


 ミオスティリヤ――処刑されたはずの第二王妃の産んだ王子の、妻であるという女性。

 そして、彼女が赤子を身籠っているということ。

 それが事実であれば、自分はどうするべきだろうかと、ワッツは馬上で繰り返し考え続けていたが、答えはまだ出ていなかった。








 トゥレスは再び王城の五階に立ち、目の前の扉を叩いた。

 傍らには近衛師団副総将ハリスがいる。

 (おとな)いに対し中から返事が返ったのを確認し、取っ手を掴むと扉を押し開けた。


「ベール大公、スランザール公。近衛師団ハリス及び第二大隊トゥレス、参上いたしました」


 トゥレスは一礼し、ハリスを先に中へ入れると扉を閉ざした。






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