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第2章「身欠きの月」(13)

 水を打ったような静寂があった。

 張りつめたその静寂を、硬い靴音が破る。


「そんな――、馬鹿な」


 そう言ったのはロットバルト自身ではなかった。レオアリスが顔を強張らせ、足を踏み出す。


「そんな事をする訳が無い!」


 もう一人、若い秘書官が不快を隠さずレオアリスを睨んだ。


「部外者は口出し無用でお願いしたい」

「部外?」

「レオアリス」


 スランザールが手を伸ばし、レオアリスの腕を押さえる。


「落ち着くのじゃ」


 レオアリスはスランザールの白い眉の下の目を捉え、奥歯を噛み締めた。肩が呼吸で揺れる。先ほどまで空虚だった瞳には代わって混乱が占めていた。

 スランザールはもう一度レオアリスの身体をそっと、しかし戒めを込めて押し戻し、不安に瞳を見開いているファルシオンの視線を受け止めてから、ヴェルナー侯爵家の使者へと面を上げた。皺の刻まれた面が厳しく引き締められる。

 その間もずっと、謁見の間は息をひそめるようだ。


「ヴェルナー侯爵が亡くなられた事に、まずは心からの弔意を申し上げたい」


 列席者達の張り詰めた意識の中、スランザールは胸に手を当てて目を伏せた。二人の秘書官が収まりが悪そうに頭を下げる。


「まだお若い侯爵がこのように唐突に亡くなられるとは、俄かには信じ難い事じゃ。ヴェルナー侯爵家が今どれほどの混乱の中にあるか、わしにも多少の想像は付く」


 しかし、と付け加える。


「国政を支える内政官房副長官、筆頭侯爵家の当主が亡くなられたとなれば、国王代理を務められる王太子殿下に対しても、順を追ってお伝え申し上げる必要があろう。それを後回しにし、かように場を騒がせる根拠を持っておるのかの」


 スランザールは直接的な言葉を避けたが、秘書官ははっきりと『殺害』と口にした。

 俄かには信じ難い言葉だった。内政官房の副長官が殺害されるなど、有り得べからざる事だ。特にこの状況下においては。

 答えたのは二人の秘書官ではなく、司法官の先頭にいた四十代半ばほとの男で、姿勢を正しその場に膝をついた。


「畏れながら――、司法庁第一部の一等司法官ハイセンと申します。王太子殿下、この場をお騒がせ致した事について、まずはお詫び申し上げます」


 ハイセンは畏まり、深々と頭を下げた。


「王太子殿下、並びに大公閣下、スランザール公へ、改めて申し上げます」


 身体を起こしたハイセンは、礼節を保ち、緊張した面持ちで続けた。司法官が謁見の間に、報告ではなく捜査で入るのも異例の事だった。

 そう、これは捜査だ。紛れもなく。

 そしてその矛先が向けられている相手が、事態の異例さに相まってより一層、この場にいる者達の意識に昏い陰を落としていた。


「本日未明、内政官房副長官、ヴェルナー侯爵がお亡くなりになりました」


 一つ一つの言葉が天井から降るように明瞭に響く。


「この件、ヴェルナー侯爵家より至急の要請があり、私ども司法庁第一部により現場を確認した次第でございます」


 言葉を区切り、斜め前に立つロットバルトへと視線を走らせる。仰がなければロットバルトの表情は見えない。ハイセンは顔を上げるのを躊躇い一度、呼吸を整えた。


「――状況から、侯爵は何者かに殺害されたと、断定できます」


 謁見の間が、頭の芯が痺れるほどの緊張に包まれる。

 スランザールはあくまで穏やかな口調で尋ねた。


「それが何故、ヴェルナー中将に繋がるのか」


 交わされる一言ひとことが肌をざらりと撫でる。


「根拠の一つは、侯爵殺害に使われたと思われる、剣です」

「剣?」

「近衛師団隊士に支給される剣が――、侯爵の御遺体の脇に残されておりました」


 幾人か隣の者と顔を見合わせたのは、それを証拠とするにはやや不足すると感じたからだ。その疑問を感じさせるさざめきの中、鋭い声が上がった。


「貴方は、侯爵がヘルムフリート様を継承者とする事を恨んだのだ!」


 若い秘書官は右手を上げロットバルトを指差した。ハイセンが立ち上がり、その手を押さえる。


「クレメル殿。今は我々に任せていただきたい」

「何を悠長な事を! 司法の為すべきは罪を速やかに明らかにし、厳罰を以て償わせる事でしょう!」

「それをこれから」

「疑う余地などどこにあるのです!」


 ハイセンの手を振り払い、クレメルはもう一度ロットバルトへ指を突き付けた。


「ロットバルト様、恐れながら貴方とルスウェント伯爵が、共謀して爵位簒奪を試みたという証言もあるのですぞ! ルスウェント伯爵はもう既に捕らえて、侯爵邸に」

「――誰が」


 冷えた声に打たれ、クレメルは一歩、足を引いた。

 ロットバルトが顔を向ける。


「誰がそう証言しているのです」

「そ、れは――、こ、このような場では」

「ならばそれは後にしましょう。ではルスウェント伯爵は、何と?」


 声は淡々と、無感情にさえ聞こえる。だが声高だったクレメルは次第に声を潜め、口の中でくぐもらせた。

 顔を引きつらせ、あと一歩、後退る。もう一人、初めに糾弾した年かさの秘書官、レーマンもクレメルと同様に身動ぎ足を引いた。


「ルスウェント伯爵への審問もこれからですか」


 クレメルは顔に朱を昇らせた。


「あ、貴方は今答える立場だ!」


 慌ただしい手つきで懐から筒状の書状を取り出し、結んでいた臙脂の紐をほどく。クレメルはそれを、あたかも敵の首級を掲げるように高く広げた。

 純白の用紙の上部には細かな金の粒を散りばめた青い蝋に、ヴェルナー侯爵家の家紋がくっきりと押されている。侯爵家の正式な意思の証しだ。


「ヘルムフリート様による召喚状ですぞ! 私は、現当主たるヘルムフリート様の御下命を受けている、」

「当主――?」


 首筋を薄い刃が撫ぜる感覚があった。

 クレメルは口を噤んだ。


「爵位継承は通常であれば喪明けを待ち、長老会の承認を受けるところですが――では長老会が開かれ、ルスウェント伯爵以外の全員の承認を得たと、そう考えていいのでしょうね」


 青ざめたクレメルに代わって、レーマンが声を押し出す。


「――貴方は、侯爵殺害の疑いを持たれているのだ! そのような態度を取っても、自らに不利を招くだけと」

「なぜ、ヴェルナーをうたがうのだ」


 まだ幼い響きが割って入る。

 離れた場所に立つファルシオンが、真っ直ぐに二人の秘書官を見据えている。


「ヴェルナーはずっと、私の館にいた。どこにも行っていない」


 ファルシオンは頬を張り詰め、黄金の瞳を怒りに揺らした。


「お、王太子殿下……」


 クレメルとレーマンが口ごもる横で、ハイセン等司法官が顔を見合わせる。「王太子殿下の館に――」


「ヴェルナーの」


 ファルシオンは両手を握りしめ、俯いた。


「ヴェルナーのお父上が、お亡くなりになったのに……、何を言っているのだ」


 ぎゅっと一度、唇を噛みしめる。辛うじて聞き取れる微かな声で、ぽつりと押し出した。


「自分の――、自分の、父上を、ころす者など――」


 ファルシオンは声を震わせ、秘書官を睨んだ。

 小さな身体全身から声を振り絞る。


「そんな者、いるわけない!」

「殿下」


 スランザールが手のひらでそっと肩を包む。

 思いがけないファルシオンの怒りを目の当たりにし、クレメルとレーマンの顔からは血の気が失せている。


「お、王太子殿下、わ……私共は、決して――」

「ですが、侯爵殺害については、近衛師団の剣が」

「ヴェルナーのお父上が亡くなったのだ!」


 怒りと、はっとするほど深い悲しみを爆発させた激しい響きに打たれ、列席者達は声もなく黙り込んだ。


「もう退がれ!」


 二人はその場に膝を落とした。


「し、しかし、その、私共は」


 周囲を見回したが、二人に向けられた顔の中に彼等への賛同を見出(みいだ)す事ができず、青ざめた額に汗を滲ませる。


「私共は、その」

「畏れながら、王太子殿下――」


 司法官のハイセンが秘書官達に並んで膝をつき、顔を伏せた。


「ヴェルナー中将が居城にいらしたという王太子殿下の御言葉は、本件を判断するにあたり重要なものでございます」

「ハ、ハイセン殿! そんな、それでは我々が」

「我々司法庁は、国王陛下の定められた法に基づき、紛争について疑義を判断する職務にあり――本件につきましても、双方の主張を聞かねばなりません。恐れながら、今少し状況を伺い、一度持ち帰った上で」

「この場でこれ以上込み入った話をされるのは、王太子殿下の御前にあって礼を失した行為になるだろう」


 固唾を飲んで見守っていた列席者達の視線が、声の主へと流れる。それらを受けてトゥレスは、ファルシオンを慮るように示した。


「王太子殿下の御前で、これ以上の争議は(はばか)るべきではないのか。王太子殿下を法廷の証人のように扱うべきでもない。そもそもヴェルナー中将であれば、自らの無実は当然証明できることは間違いない」


 トゥレスの眼差しがぐるりと見回す。


「殿下が仰った通り、ヴェルナー中将は第一大隊大将と共に、昨夜から明け方にかけ確かに居城の警護に就いていたんだからな。それは俺にも証明できるし、ここにいる諸侯全員が御存知だ」

「トゥレス大将――、しかし」


 二人の秘書官はトゥレスの顔を見たものの、居場所を失ったかのように唇を噛み、俯いた。ゴドフリーが進み出る。


「僭越ながら、トゥレス大将の言う通りだろう。ヴェルナー中将はそのような事をされる人物ではない。御自身の」


 ファルシオンを見やり、ゴドフリーは口に(のぼ)らせそうになった言葉を飲み込んだ。


「――ともあれ真実は、審理の場でおのずと明らかになるでしょう」

「確かに。これは正式な審理において解明されるべき事柄です」


 地政院のランゲもまた頷いた。それまで張りつめていた空気に、どことなく安堵が漂う。

 ロットバルトは視線を動かし、トゥレスの横顔を見た。

 ゆっくりと、抑えた動作で息を吐く。

 ハイセンは侯爵達の判断を受け、顔を伏せた。


「では、今後司法庁において本件の審理を行います。ヴェルナー中将には、一度ヴェルナー侯爵邸において検分をいただき、その後」

「待ってください、審理?」


 アスタロトが一歩踏み出し、ハイセンと、周りを見回した。


「ロ――ヴェルナー中将がファルシオン殿下の居城に居たと、殿下が仰ったんだ。それはここにいた全員が判ってるって――だったら審理も必要ないじゃないか」


 今、一番重要なのはファルシオンを支える事だ。

 その為にも守護としてレオアリスがいて、だが、そのレオアリス自身も支えが必要な状態なのだ。

 審理が行われる事になれば、ロットバルトは任務を離れざるを得ない。いずれかの審判が下りるまで、良くてヴェルナー侯爵邸に留め置かれる事になる。


「ベール大公」


 アスタロトはベールに同意を求めたが、ベールはその面に翳りを乗せたものの、頷かなかった。


「アスタロト公爵。審理は必要な手順だ。この件に関しては特に、事実を明らかにしなければならない」

「でも――」


 見つめる先のレオアリスは、視線をロットバルトへと向けている。その様子は突然のこの状況に混乱し、茫然としているように見えた。

 不安がアスタロトの胸を満たす。


「何で、今」


 王の姿を見た者がいると、そんな『希望』が飛び込んだ、今。


「判っている」


 アスタロトはもう一度ベールの顔を見上げ、口を噤んだ。

 ハイセンが立ち上がり部下達に退出を指示すると、ロットバルトを促した。初めは取り囲むようだった司法官達は、今は左右に引いている。


「ヴェルナー中将、これから御同道いただけますか。国の大事は司法長も理解しております。可及的速やかに対処する所存です。まずは侯爵邸で状況をご確認いただき、その後」

「暫く」


 制するように手を上げたのはグランスレイだ。ハイセンは反論する事なく、目礼して一歩足を引いた。

 手招きして歩き出したグランスレイに倣い、ロットバルトも深緑の絨毯の上を戻る。ようやく列席者が目にしたその面は、普段と変わりがないように見える。

 グランスレイはレオアリスの前に立つと、低く呼んだ。


「上将」


 レオアリスが瞳を持ち上げる。それは捉えどころがなく、すぐに落とされた。

 この場にいる誰もが意識を三人の上に向けている。ロットバルトはレオアリスに対し、まずは左腕を胸に当て敬礼を向けた。


「このような折に、申し訳ありません」


 返った声は硬く、揺れた。


「――お前じゃないのは判ってるのに、何で審理を受ける必要があるんだ」


 ロットバルトがやや低い位置にあるレオアリスの顔へ視線を落とす。司法庁の審理が何の為に行われるのか、そしてその必要性は問わずとも、普段のレオアリスならば理解しているものだ。


「審理は必要な手順ですし、いずれにしても一度戻った上でヴェルナーの現在の状況確認も必要です。なるべく」

「今の状況に一人戻って――お前に不利じゃないことなんてあるのか」

「――」


 ロットバルトは言葉を探し、一度グランスレイと目を合わせた。


「……この件は、ヴェルナーの私的な争いに過ぎません。ご心配には及ばないだろうと考えています」


 レオアリスは違う、と呟いた。


「悪い……」


 端的なその言葉に、幾つもの感情が複雑に入り交じり、そして押さえ込まれている。

 ややあって、レオアリスは声を押し出した。


「お前は、大丈夫なのか」


 グランスレイはロットバルトを見たが、ロットバルトは答えを探したようだった。束の間の沈黙を挟み口に出したのは別の事だ。


「可能な限り早急に、任務に戻ります」


 俯いていた顔が上がる。


「上将」


 視線はロットバルトへ向けられていながら、それを捉えるのは困難だった。


「ファルシオン殿下の警護に、集中を」




 グランスレイが振り返ると、幾つかの視線は慌てて逸らされた。室内に満ちている潮騒に似たざわめきの中にはヴェルナーの名も含まれ、グランスレイの額に厳しく皺が刻まれる。


「上将の側には念の為にフレイザーを付ける。だが、なるべく早く戻ってくれ。近衛師団としても可能な限りの対応をする――」


 そう言って、グランスレイは実直さをうかがわせる眉を寄せた。


「侯爵がお亡くなりになったという時に、任務ばかりを優先させて悪いが……」

「いえ――私の方こそ、私的な問題で任務を離れる事を、改めてお詫びします」

「お前が気にする事は、今はそれではないだろう」


 ロットバルトはグランスレイへ目礼し、扉付近で待機している司法官とヘルムフリートの秘書官達を見た。

 それからトゥレスを。


「副将」


 ロットバルトはグランスレイを呼んだが、詳しい説明をする時間はない事は判っていた。






(まさか、これほど早く踏み出してくれるとはなぁ)


 司法官達と共にロットバルトの姿が扉の向こうに消え、トゥレスは見送っていた目線を戻した。

 遠からず、ヘルムフリートはそこへ落ちるだろうとは思っていた。

 それを早める為にヘルムフリートに剣を渡しはしたが、昨日の今日になるとはさすがにトゥレスも想定していなかった。


(持てる者は苦労が多い)


 同情を覚えるが、あの兄弟が結局分かり合えなかったのは、仕方がない話なのだ。

 ある人間にとっては、他のある人間の弱さを理解できない。

 自分の考えが及ばないところで苦しみ、妬み、くだらないほどに弱いのだという事を、理解できない。


(俺も、俺の知らねぇ弱さなんざ理解しねェしな)


 立場が変わればそういうものだ。

 さして特殊な話ではなく、理解できないからといって嘆くまでもなく、己れを責めるまでもない。


(さて)


 ファルシオンの言葉が潔白を証明しかけた時はやや焦りを覚えたが、結局ロットバルトは審理を受けざるを得なくなった。

 あの時のトゥレスに向けられた抑えた怒りは、充分に成果があった事を物語っている。


(悪いが邪魔だからな、奴がいると)


 今のレオアリスを支えるには不可欠な存在だ。

 ヘルムフリートは()き過ぎている。そのやり方ではロットバルトの疑いはそう時間がかからず晴れるだろうと思えたが、それでも一両日は足止めが期待できた。

 トゥレスの目的にとってそれは、充分な時間だった。






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