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第2章「身欠きの月」(12)

 不可侵条約の決裂と西海の進軍について王都下への布告決める短い間にも、レオアリスはファルシオンの後方に立っていながら、心はこの場には無いように見えた。

 だがベールはそれ以上の言及をしなかった。アスタロトはベールを何度か見たが視線が合う事はなく、誰もそれ以上は触れないまま、午後四刻に再開する事として朝議は解散となった。

 それまでの緊張がややほどけ、冷えていた謁見の間に幾ばくかの温度が戻る。さざめきの中、アスタロトは意を決し傍らのベールへと顔を上げた。


「ベール、大公。さっきの事は」

「公」


 タウゼンがアスタロトの前に立つ。


「布告の手配を致します。また、王都の被害情報を早急に取りまとめる必要がございます」

「――判った」


 ベールはアスタロトを見たが、やはり特に何を言うでもない。

 本気でレオアリスをファルシオンの守護の役割から外そうと、ベールが考えている訳ではない事は判っている。それでもアスタロトはもどかしさに唇を噛んだ。


(しょうがない――だってしょうがないじゃないか、レオアリスは、王の剣士なんだから)


 王がボードヴィルにいるかもしれないと聞いて、冷静でいられる訳がないのだ。レオアリスはこれまでずっと、心を保とうとしていたはずだ。

 それを解ってもらいたいとアスタロトが口にするのは、余計な事なのかもしれない。


(でも)


『俺は、ここにいたって意味がない』


 喉の奥に熱の塊が込み上げ、アスタロトは懸命にそれを(こら)えた。


(そんなことない)


 そんなことはない。

 そんなことはないと繰り返しながら、アスタロトはこれまでのレオアリスの姿を思い返していた。


(今まで、ずっと、ここにいようとしてたんだ)


 四年間、ずっと。

 それだけがレオアリスの望みだったのだ。

 王の前に在る事、それだけが。

 昨夜の夜会の庭園で、王と向かい合っていたレオアリスの、剣の放つ青く清澄な光――

 それは今、色を翳らせ、不安定に揺れているように思える。


(――私は)


 自分の弱さへの苛立ち、悔しさ、もどかしさが熱い塊になって喉の奥にある。こんな事でさえ、自分には何もできないのだろうかと、それが苛立たしく、もどかしい。


(炎があれば――私に、もう一度)


 見つめた手のひらからは何も感じられない。

 炎があれば、アスタロトは今この国を脅かしている問題に、自分自身で立ち向かう事が出来るのにと、そう思った。

 そうすれば、レオアリスは、あんなに自分を押し殺さなくてもいい。


(私は、本当に何も)


「公」


 声をかけられ、アスタロトは心の中に渦巻く想いからはっと我に返った。タウゼンが腕に手を添え、アスタロトを覗き込んでいる。


「――ごめん」


 布告の話をしていたのだ。タウゼンはアスタロトの腕に置いた手に、やや力を込めた。


「近衛師団には、レオアリス殿を支える人材がおります。公お一人が負われるものでは――」


 まだ同じ事を言い続けるのかと、アスタロトはタウゼンの手を振り払った。


「言いたいことは、わかってる」


 強く刺す響きに、タウゼンは口籠もった。


「いえ、……私は」


 やるせなさと罪悪感を覚え、アスタロトはタウゼンから視線を逸らした。






 正規軍は慌ただしく布告の手配を始めたが、他の参列者達はまだ謁見の間に残りそれぞれ言葉を交わして立ち去る様子がない。それはおそらく、彼等の間に濃くわだかまっている不安故だ。

 西海との決裂が招く争乱への不安に加え、ナジャルがもたらした混乱がその不安を一層重苦しく翳りを帯びたものにしている。

 彼等の目は、ファルシオンの後方に控えるレオアリスへも向けられていた。

 ロットバルトは彼等の視線を躱すように立ち、レオアリスと向かい合った。


「上将」


 瞳が合った事に安堵しかけ、その虚ろさに続く言葉を押し(とど)めた。


(……これほど――)


 先ほどの激情は既に身を潜めている。だが意識そのものが空虚に思えた。

 ベールは咎めはしたものの、正式に処遇を取り沙汰すには至っていない。ただ、諸侯の中に一定の不安を投げたのも事実だ。

 レオアリスの不安定さに対する懸念。この朝議の場で身体的な不調もまた、明らかになっている。

 今これ以上の懸念を抱かせるべきではないが、それをレオアリス自身に求めるのは酷に思えた。

 ロットバルトは容易には答えの出ないそれを置き、もう一つ別の問題を取り上げた。


「――私は一度ヴェルナーの館に戻ります。状況を確認次第すぐに居城へ上がりますが、少なくとも一刻はかかるでしょう」


 彼の父であるヴェルナー侯爵が最後まで姿を現わさなかった。人をやる程度で確認できる状況ならば、朝議の間にヴェルナー側から使者が来ていただろう。その時間は充分にあったはずだ。

 今離れる事に迷いはあるが、直接館へ戻り自分で確認しなければ正確な状況は分かりそうにない。


「大丈夫だ」


 その言葉は単に機械的に押し出されたようにしか思えず、レオアリスがどれほど自分の状態を理解しているのか疑わしい。


(どうする――)


 離れていいものか。この後ファルシオンは一旦居城に戻ることになる。居城で休息を取ることは可能だが、ファルシオンもまた、先ほどの情報を聞いて居ても立っても居られないはずだ。

 アスタロトの視線が時折、不安そうに向けられている。

 ロットバルトは先ほど一度留めた言葉を口にした。


「――大公の仰った事は、国にとって大切な考え方です。充分に踏まえなくてはならないものであり、貴方もそれはお判りになっているでしょう」


 ベールがあれ以上取り沙汰さなかったのは、レオアリスの剣士としての性質を汲んだからでもあるだろう。それ故の危うさを、あの言葉で薄めようとした。


「我々は、殿下の御身を一番に考えなくてはなりません。常に貴方がそうされてきたように」


 レオアリスは視線を避けるように瞳を半ば伏せながらも、判っている、と言った。


「良く、判ってる」


 瞳を上げた表情は、昨夜から何度も目にしたものだ。

 こんな言葉が何かになるのだろうかと、ロットバルトはそう思いながらも口にした。


「――貴方の想いも、間違っているとは思わない。それを無理に抑えろとも思いません」


 もう少し言葉を重ねるべきか迷い、それを抑えると、ロットバルトはレオアリスへ一礼して離れ、内政官房の官吏と話しているベールへと足を向けた。


「侯爵の――」


 ベールはそう言って、思考を巡らせるようにレオアリスを見た。


「確かにその確認は必要だろう。ファルシオン殿下もまだ話をさせていただかなくてはならない。居城にお戻りになるには時間がある。体制が手薄になる訳ではないが」


 ベールの瞳にはロットバルトと同じ懸念が見える。


「支えは必要だろう」


 時間を要するようであれば内政官房で対応すると、ベールは言った。


「有難うございます」


 他の内政官に内政官房の中でもヴェルナー侯爵の不在に関する情報が無いことを確認し、謁見の間の扉へ向かう。

 まだ乱れたままの卓の横では近衛師団副総将ハリスとグランスレイ、そしてトゥレス、セルファンが副官を交え、今後の対応か、話をしている。そのやや先では財政院のゴドフリーや地政院のランゲ達が、今回街が受けた損害と修復について相談を始めていた。

 慌ただしく、だが本来そうある通りに機能している。

 その中にあってはやはり、レオアリスの不安定さは際立っているように見えた。


「――」


 これまでレオアリスは、近衛師団大将として自分の置かれた立場を理解し、それに相応しく、また恥じないように振る舞おうと努めていた。

 加えて、レオアリス自身が纏う剣士としての空気とも言うべきもの。年若さは不利な要素だったが、こうした場においてはその事をさほど感じさせないほどに、受け入れられ始めていたのは確かだ。

 だが先ほど見せた感情の発露は、レオアリスがそれでも、未だ十八歳に過ぎないのだと改めて思い知らされた。


『近衛師団第一大隊大将』という姿を形作っていたのは、王なのだ。

 王という存在がレオアリスの前にあって初めて、それが機能する。

 精神面においても、現実においても――

 先ほど見せた、空虚な瞳。


「――」


 ロットバルトは足を止めた。

 今、離れるべきではないという言葉が脳裏に瞬く。王が生きているかもしれないと、余りに不確かで、余りに手に余る希望をもたらす情報に触れた直後では。


(館へは戻らず、内政官房で確認するか)


 それとも、グランスレイに一時レオアリスに付いてもらうべきかもしれない。有事の即応は必要だが、近衛師団として現在動くべき案件は無いだろう。一時グランスレイが近衛師団を外しても、まだ影響は出ないと思える。

 大げさに過ぎるだろうか。

 だがナジャルが現われた時に、既に剣は制御を失いかけていた。

 そもそも折れた剣がもたらす苦痛を抱えたままだ。


(――やはり、副将に)


 踵を返そうとした時、向かおうとしていた扉が開いた。




 束の間廊下を満たす陽射しが差し入り、再び閉ざされる。廊下に複数名の影が落ちている。入室の許可を待っているのだろう。

 入室したのは廊下に控えていた近衛師団第二大隊の隊士で、慌てているのか深緑の絨毯を半ば駆け足で進み、中ほどに立つロットバルトに気付くと狼狽した面を張り詰めさせた。

 一度足を止めかけ、だが奥に目的の相手を見つけてロットバルトの脇を敬礼と共に通り抜ける。隊士は再び足を早め、ベールの前に立った。


「大公閣下、失礼致します!」


 やや上擦った声が続く。


「司法官が、入室を求めております」

「――司法官?」


 思いがけない名前にベールが眉を寄せる。スランザールも二人に近付き、隊士へと訝しそうに皺顔を向けた。


「司法がどのような用向きなのか」

「それが、」


 隊士の視線がぎこちなく一箇所へ向かい、素早く反らされる。視線の先を追ったスランザールは、楕円の卓を挟み、扉との中間に立つロットバルトの姿を見つめた。


「その、ヴェルナー侯爵家に関わる重要な問題だと」


 あちこちで交わされる葉ずれに似た囁きが残っていたが、隊士の言葉にすぅっと消えた。ベールもまた卓越しにロットバルトの姿を捉え、隊士を促した。


「入室を許可する」


 踵を返した隊士の後ろ姿を幾つもの視線が追う。謁見の間の天井近くに漂っていた冷えた空気が、不意に降りてきたように感じられた。

 司法官が協議の場を訪れるなど、俄かに案件が想像される事態ではない。


「スランザール、司法官は、何の用なのだ」


 ファルシオンは黄金の瞳に不安を滲ませ、スランザールを見上げた。ファルシオンにとっては司法官は、兄イリヤを思い出させ、容赦を知らない存在と感じているのかもしれない。


「――用向きを聞いてみなくては、まだ」


 スランザールが慎重にそう答える。ただ白い眉の下の双眸をロットバルトへと向けていた。

 再び扉が開く。

 廊下の白い光と共に足音を響かせ入ってきたのは、二十名ほどの司法官衣を身に付けた集団と、平服の二名の男だった。

 物々しい様にベールが眉を潜め、足早に近づいて来る司法官達へと向き直った。


「何事だ」


 卓の周りに残っていた諸侯達も驚いた様子で司法官達を見ている。


「御前、御無礼致します」


 まずは離れた場所から正面のファルシオンに敬礼を向け、司法官達は楕円の卓の横に立つロットバルトの前で、止まった。

 ロットバルトが彼等と向かい合う。

 司法官達の様子は、まるで行く手を阻もうとするように物々しく感じられた。

 後ろから二人の男が進み出る。


 二人の顔を認め、ベールがやや瞳を細めた。ヴェルナー侯爵の部下ではなく、ヘルムフリートが普段連れている秘書官だ。二人とも若く、二十代半ばだろう。ヘルムフリートは日頃から好んで若い部下を登用していた。

 二人はロットバルトの前に立ち、年上の秘書官が明瞭な声を発した。


「ロットバルト様、御父君――侯爵がお亡くなりになられました」


 その瞬間は、謁見の間に物音は一つとして無かった。

 驚きを飲み込み、初めに声を洩らしたのは卓の周りに残っていたゴドフリーやランゲ達だった。


「ヴェルナー侯爵が……」

「まさか。昨夜まで何事も」


 驚き顔を見合わせ、交わす声が一瞬潮騒のように広がる。

 ロットバルトは引き結んだ唇を微かに開き、息を押し出した。


「――死んだ……?」


 騒めきはぴたりと止んだ。

 レオアリスが顔を上げ、ロットバルトの背中を見つめる。


「理由は」


 ロットバルトの表情は卓に残る側からは見えず、問い掛けは淡々として届いた。秘書官はどことなく勝ち誇ったように眉を上げた。


「侯爵は、殺害されたのです。今朝未明の事です。ヘルムフリート様が御遺体を発見されました」


 あちこちで驚愕を飲み込む中、秘書官は更に一言一言を区切り、声高に続けた。


「そして、ロットバルト様、貴方に、侯爵殺害の容疑が掛かっております」






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