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第2章「風姿」(2)

 夕暮れの空に薄い雲が棚引いて綺麗だった。

 弦楽器の弦と弓が奏でる高い音が一筋、薄紫の空へ消えていく。

 もうそろそろ時計の針は約束の四刻を差す。

 もう少し――

 アスタロトは待ち合わせの時計塔の煉瓦壁に寄りかかり、そっと息を吐いた。

 今日から王都では、春の祝祭が始まっていた。

 王都は隅から隅まで賑わいで満ち、今アスタロトがいる南アル・ロセア地区の時計塔の広場にもたくさんの屋台が並んでいる。噴水の傍の階段には小さな楽隊が出て軽快で楽しげな音楽を奏で、大人も子供も数え切れない人達が広場を埋め、賑わいは祝祭初日とは思えないほどだ。

 ただアスタロトはその浮き立った空気の中で一人、緊張していた。先ほどからずっと心臓の鼓動は身体の奥で、周囲の音楽さえ消してしまうくらい大きい。

 レオアリスと会うからだ。

 昨日誘われた時はただ嬉しいだけだったのに、時間が経つと不安がどんどんと募り、あれこれと考えてばかりいた。

 レオアリスとちゃんと会うのはあの離反の日以来――昨日話した時は時間が無かったけれど、今日会ったらきっとあの時の事は話題になるだろう。

 あの日、レオアリスには幾つも聞きたい事があったはずだ。

 それにどう答えればいいのだろう。

 王や王太子と敵対する、とルシファーが口にした時のレオアリスは、アスタロトがこれまで見た事もないくらいに――怖かった。

 怒りが、刃のように感じられた。

(ファーが王に触れたから)

 あの時、もし、ルシファーが退かなかったら。

 あの場でルシファーと戦う事になっていた。

 ルシファーは風の王だ。アスタロトが炎を統べるように風を統べる。

 もし戦う事になっていたら、いくらレオアリスだって無事では済まない。

(もしか、したら)



 死ぬ、事も――



 全身に震えが走った。

 胸が詰まる。

(嫌だ――)

 心臓を冷たい手で掴まれ、潰されるような気がした。

(そんなの)

 目の前をぱぱっと何かが横切る。アスタロトは瞳を瞬かせた。

「アスタロト」

 周囲に届かない程度、小さい声で呼んだのはレオアリスだった。何度か呼び掛けたらしく、それで気付かないからアスタロトの顔の前で手を振ったらしい。

 アスタロトは慌てて辺りを見回し、それからレオアリスの顔をまじまじと見つめた。

 いつもと変わらない様子で、すこし怪訝そうにアスタロトを見ている。

 恐怖がすうっと溶けた。

 同時に鼓動が一つ跳ねる。

 何か返さなきゃ、と思って咄嗟に「おはよう」と口を突いて出た。

「――寝てたのか?」

 アスタロトの返しにレオアリスは可笑しそうな顔をした。

「ち、違うよ、考え事してたんだ」

「考え事? 珍し――くもないか、最近は」

 ちゃかすように言い掛けてから、レオアリスはふと真面目な表情を浮かべた。「考え事って?」

「えと」

 素直に言える訳もなく、ぱっと思い付いた事を口にする。

「すごい人だなって。周り」

「ああ――」

 レオアリスは本当に納得したかは判らないが、確かめるように周りを見回した。

「確かに。ここまで渡ってくるのが大変だった」

 通りから広場の中心にある時計塔まで、真っ直ぐ歩いてくるのも難しいほど、多くの人で賑わっている。

 レオアリスは視線を戻し、アスタロトの両隣を見比べた。

「アーシアは? 今日いないのか」

「そ」

 跳ねるように頬に血が昇るのがはっきり判った。

「今日は、その、アーシアは来ないって、行き掛けに」

 いってらっしゃい、とアスタロトを見送ったアーシアは、「僕はやる事があるので」とそう言った。

 でも、強いて誘わなかったのはアスタロトだ。

「用事があるって。いた方が良かった……?」

「まあ用事があるんなら仕方ない。後でアーシアに何か土産でも買ってってやろうぜ。にしてもお前一人で祭に出すなんて、随分信用されるようになったよなぁ」

「レオアリスと一緒だから。レオアリスはほら、頼りになるし」

 そう言った瞬間、何だかすごく大胆な事を言ってしまった気になって、アスタロトは益々顔を赤くした。

「そ、それに、私だっていつもアーシアに頼ってばっかじゃ無いよ」

「判ってるって、冗談だから怒るなよ」

「怒ってな」

 ごぉん、とちょうど時計塔の鐘が鳴った。真下にいるせいで鐘の()は少しくぐもり、全身を包むように降ってくる。

 四つ鳴り響いた後、楽の音を残してほんの一瞬だけ、広場は静かになった。

 レオアリスは時計塔の石段を幾つか降り、振り返った。

「早いところ見て回ろうぜ。俺も結構腹減った」

「う、うん。どこ行こう」

「適当に屋台とか見て、出し物見て、まあそんなところか」

 ひとつひとつは口にしてしまえばあっさりしたものだが、それがこうやって一斉に集まると気持ちが浮き立つような祭になるのだから不思議だ。

 春の祝祭は、秋に行われる収穫祭よりももっと盛大で、一年の中で最も大きな祭りだった。王都の東西南北四地区にそれぞれある大通りとその周辺にある広場は、各地から集まった行商人達が構える屋台や露天で、下層から上層まで埋め尽くされる。

 王都に張り巡らされた運河でも、遊覧船(カーネ)が行き来し、その間を物売りの船が浮かび、岸辺では楽隊が、ゆっくりと運河を登り下っていく船と乗客達へ音楽を響かせる。

 劇場や音楽堂などは大小を問わず、どこも常に何かしらの演目がかかっていて、祝祭最終日まで賑わい続けた。祝祭三日目、明後日の二十二日から正規軍や近衛師団が行う出し物も毎年人気がある。

 そして春の祝祭の最大の目玉は、最終日に行われる、王都の街の地区ごとに競われる『馬比べ(コン・ルキスタ)』という催しだ。

『馬比べ(コン・ルキスタ)』は王都の大通りを地区の代表騎手が馬で駆け上がり、どの地区が一番先に王城の門を潜るかを競う。

 長く続けられている行事で、大戦の折に街の有志が王の元に参じた事が始まりだとも、それよりもずっと以前、王国の始まりに際して王に仕える為に集まった最初の四人が現在の四大公であり、それを讃えて始まった、とも言われていた。

 起源の真偽ははっきりしないが、とにかく一番盛り上がる事は間違いなく、住民達は皆自分達の住む地区の色を身に纏い、時にはちょっとした騒動を起こしつつ観戦する。優勝地区はそれぞれの地区が出し合った賞金の他、王が代表騎手と地区を讃え、一年間の栄誉が贈られた。

 今年は月末に西海との条約再締結があり『馬比べ』は前日の二十九日に開催が予定されていた。

 アスタロトやレオアリスも毎年楽しみにしていて、南の地区を応援するアスタロトと北の地区を応援するレオアリスとでこの時ばかりは意見が合わない。隊内も出身地が様々だから意見が割れる。去年の優勝は西のヤノー地区で、僅差の二位だった同じく西のラドヴィック地区に住むクライフは歯ぎしりをして悔しがっていた。

「今年はどこが勝つかな。まあ俺は北ならどこでもいいけど」

「南だ、絶対!」

「南はしばらく優勝ねぇだろ。去年も最下位に入ってたし、騎手の噂聞かねぇし」

「北も去年最下位争いしてただろ!」

 きっとレオアリスを睨み付け、その勢いのままアスタロトはレオアリスの向こうを指差した。

「あっ、あれ食べたい! チュロ」

 いきなりの方向転換にも慣れた様子でレオアリスが振り返ると、すぐ後ろに小麦粉と卵を練乳を加えて練った甘い生地を油で揚げたチュロという菓子を売る屋台があった。揚げたてに更に砂糖やら蜂蜜やらを掛けて食べるのだ。

「初っぱなからこってりだな」

「お腹減ってるんだからやっぱこってりだよ、こってり。美味しそう~」

「へぇ――で、どれにする?」

 レオアリスが屋台に並ぶ蜂蜜やらの入った壺を示す。蜂蜜、砂糖、黒砂糖、練乳、果実煮、好きなものを掛けられる。

「蜂蜜とー、黒砂糖!」

「うわあ……、じゃ、じゃあそれ一つ」

「蜂蜜たっぷりね」

「まいど!」

 屋台の女が威勢よく言って揚げ菓子を油紙で挟むと、壺から掬った蜂蜜をこれでもかと掛け、更に黒砂糖を振り撒いて差し出した。蜂蜜が零れ落ちそうだ。

 アスタロトが手を伸ばして受け取り嬉しそうに一口かぶりついてから、一つだけ? と首を傾げた。

「お前は?」

「俺はいいや。甘いのもいいけどまず肉食いてぇ」

「あ、私も。あと焼きとうもろこし……」

 と言いかけてからアスタロトは取り敢えずその先を飲み込んだ。

 どれだけ食べるのが好き発言なのか。

「アスタロト、あれ」

「に、肉はいいよ?!」

「肉じゃねーって」

 レオアリスが指差した方を見ると、広場の一角で数人が声を出していた。人垣ができている。しばらく立ち止まって眺めていると、どうやら芝居をやっているらしいと判る。

「珍しいね、路上で芝居って」

「呼び込みみたいだな。五刻からそこの劇場でやるって貼り紙してある。色々眼を引くこと考えるもんだよなぁ」

「どこ? あれ? へえー、よくここからあんな字見えるねー、目ぇいいなぁ――あ! 苺飴食べたい!」

「――どこだよ……」

「ほらあれ、向こう側の三軒先」

 アスタロトの指差した先、通りを挟んで人混みの奥の奥に、ちらりと「苺」という文字が見えた。

 レオアリスが「目がいいのはどっちだ」、と呟き、目ざといって言うんだな、と言い直す。

「今苺なんて珍しいよ~!」

 アスタロトは弾むような足取りで駆け出し、三歩でぴたりと立ち止まった。

 どっと羞恥と反省が足先から駆け上がる。

 またやってしまった。

「何だ? 他の店?」

 アスタロトの心の葛藤も知らず、さらりと尋ねるレオアリスがいっそ憎たらしくなる。

(もっと女らしくしろ、とか)

 言う気配が無い。

(これっぽっちも思ってないんだろうな……)

 何となく涙が出てきた。

「アスタロト」

「苺飴だよ!」

「お、おう……?」

 やけっぱちに言って、ぽかんとしているレオアリスを置いてアスタロトは人混みを縫って通りを渡り始めた。

「――はぁ」

 何となく気が抜けた――というよりは自分一人気負っていて恥ずかしい。

 でも、いままで通り、違和感なく話せている。多分。

 ほんの数ヶ月前まで、何の意識もせずに話せていた時みたいだ。

(……良かった)

 先ほどまでの不安や考え事は、顔を見たら飛んでいってしまった。

(――このままでいいや)

 このままがいい。

 好き、だとか、そんな事でぎこちなくなったり――もし、気持ちを伝えて、それでもし距離を置かれたりしたら――

(めんどくさい、とか、思う、かも――)

 その方が辛い。

 こうやって、これまでみたいに変わらず、近くに居て話せれば

(その方が)

 くすり、と、どこか遠くでルシファーが笑った気がした。

 振り払うように頭を振る。

「何だ?」

 怪訝そうに聞きながらも、レオアリスはいつの間にか買った苺飴を差し出してくれる。アスタロトは「ありがとう」と言ってしっかり受け取り、きらきらと光を弾く飴の中の苺を切なく見つめた。

(こーゆうのが一番好きだと思われてんだろうなぁ……。好きだけど)

「アスタロト?」

「そ、そう言えばさぁ、クライフとか屋台すんごい好きそうだよね。今日は来てるのかな」

「好きそうじゃなくて好きだな」

 好き、という言葉を迂闊に引き出しまい、自分に対して言われた訳でも無いのにアスタロトは狼狽えた。

「ま、ま、まあ、クライフはそうだよね! じゃあロットバルトはこういうの全然好きじゃなさそう! 好きじゃないよね!? 来た事あるのかな?」

「あいつは無いんじゃねぇ? 想像付かな……あ、何か面白ぇ。今度連れ出そう。グランスレイも……」

 レオアリスは何やらツボにハマったらしく、頭の中で計画を始めた。

「――いいなぁ。お前のとこは何だかんだこういうの一緒に来たりするよねぇ。うち皆真面目で面白おかしくないからなぁ」

「面白おかしい言うな」

「面白いよー、近衛師団は。あ、第一大隊は」

「言い直すな。お前に言われたらグランスレイなんか熱出すぞ」

「喜ぶよ」

「嘆くって」

 ぽんぽんと他愛ない言葉を交わしながら、二人はしばらく通りの左右にあちこち顔を向けてはあれこれ思い付いた事を適当に話し、時々眼を引いた露天や屋台に立ち寄り、混み合う坂道を下った。

 すれ違う人々はやはり屋台や出し物に夢中で、ただ時々ふっと目が合うと、アスタロト達に気付いたのか驚いたように目を見張り、通り過ぎてからもしばらく振り返った。

 アスタロトではなくレオアリスをじっと見て行くのは、やはり女の子に多い、気が、する。

「――」

 自分達はどう見えているのだろう。

(兄妹――は、無いかな。友達同士、とか)

 それとも

「あ、肉あった。食うか?」

「食べる!」

 咄嗟に大声で返し、周りから笑い声が上がった。

「アスタロト様だわ」

「食べ歩きかな」

 という声が聞こえる。

「――」

 恥ずかしい。

「一緒にいるの、王の」

「本当だ。若いなぁ」

「一緒って、二人だけ?」

「ええ、まさか。お付きがいるだろ」

「――」

「アスタ」

 串に差して焼いた肉を二つ持って戻ってきたレオアリスが声を掛けた瞬間、アスタロトはだっと駆け出した。

「はぁ? ちょ」

 坂道を駆け下っていくアスタロトを呆気に取られて見送り、レオアリスは束の間その場に立ち尽くした。

 人混みを避けながらで早く走れはしないが、アスタロトは肉、いや二区画くらい走ってから漸く立ち止まった。

 十字路で、やはり込み合っているが少し広めの広場になっている。

 顔を伏せたまま、深く息を吐いた。

「はぁー、恥ずかしかった」

 一足後に追いかけて来たレオアリスは呆れた顔だ。

「お前なぁ。突拍子も無さ過ぎるんだよ行動が」

「――ごめん、ちょっと」

 唐突な行動にどう言い訳をしようかと視線を彷徨わせ、ちらりと視界に映ったものを認識する前に咄嗟に口にした。

「巨大な鳥が見えて」

「鳥って」

 レオアリスは何を言っているのかと辺りを見回し――、訳の判らない事言ってんなよ、――という代わりにアスタロトの横を指差した。

「これか?」

 首を向けると傍らにひと抱えほどある鳥の頭と黄色い嘴が見えた。

 確かに鳥だ。

「あ、そう。それ……――ぇえぇ?! 何で鳥?!」

 瞳を瞬かせて良く見ると、アスタロトの傍らには、彼女の身長と同じくらい大きな鳥がいた。正確に言うと足と首の長い大きな鳥だ。

「鳥?」

 いや、着ぐるみ。

 着ぐるみはアスタロトを見つめてこくっと頭を下げた。

「あ、ども」

 何だろうと思う間もなく、気が付けば回り中、巨大な鳥の着ぐるみだけではなく奇抜な衣装で身を包んだ人々で埋まっている。アスタロトは感嘆の声を上げた。

「うわー、……すごいねぇ、これ。何人いるんだろ。仮装行列かな」

「そうだな、ど真ん中だ」

 と言っている間にも、仮装行列はどんどんと、緩やかな坂道を登って進んでいく。衣装も思い思い、吹き鳴らす笛や喇叭や太鼓もてんで揃っていない、闇鍋みたいな仮装行列だ。

 レオアリスとの間に巨大な雪だるまが通り過ぎた。

「うわ」

 流される。

 空いている左手の手首を、レオアリスが掴んだ。

「出よう」

「――」

 どくん、と鼓動が鳴る。

 ちょうど掴まれている手首が、脈を測るみたいにトクトクと早い音を立てている。

 掌から伝わる体温が、熱い。

 腕を引かれ、アスタロトは息を止めたまま、潰されそうに密集した仮装行列の間を抜けた。

 抜けきった頃には、もう手は離れていた。ちらりと見上げたレオアリスは通りに顔を向けていて、どんな顔をしているのか判らない。

「この通りを歩くのは今は無理だな。もう一本先に抜けるか」

「うん」

 レオアリスはすぐ先にあった路地を指し、観客の隙間を擦り抜けるようにして歩いていく。アスタロトも急いで後を追った。

 掴まれた手首がずっと熱い。ぎゅっと唇を噛み、手首をもう一方の手で押さえた。

 路地の角を一回右へ、一回左へ曲ると、連なっていた建物が途切れた。視界の上半分が蒼い夕闇の空になる。

 斜面で形成されている王都では良くある、見晴らしのいい小さな広場だ。中央にある真鍮の水栓はこの辺りの住民達が共同で使う洗い場のようだった。

 さすがにここは屋台も無く、誰もいない。

 どちらともなく立ち止まる。右手からは先ほどの仮装行列の鐘や鳴り物の音や賑わいが流れてくる。

 二人は少し距離を置き、街を見下ろす低い壁の前に立った。

 しばらく黙って王都の街並みを見ていたが、アスタロトは沈黙がいたたまれず、思い出したように口を開いた。

「そういえばすごかったねぇ、さっきの。私もすごいの作って参加したかったな」

「どんな仮装?」

「そうだねー、アーシア? 青い布ででっかく翼作って、胴体はハリボテ。いつも乗せてもらってるから、私がアーシアを乗っけて歩くんだ。優勝するよ。本物そっくりに作るから優勝間違いなし!」

「優勝とかあるのか?」

「さあ。レオアリスだったらなにやる?」

「俺? 仮装ねぇ……」

 レオアリスは目を細め、苦いものでも噛んだように眉を寄せた。

 しばらく考えて、ぽつりと呟く。

「……熊?」

「熊?」

 何それ、とアスタロトが繰り返す。

「ヴィジャにいたな、って」

「黒森?」

「暖かそうだったんだよなー、毛皮。冬ごもりする直前とか」

「へ、へえ?」

 判らない。

 多分適当に思いついた事を言っただけだ。

「着ぐるみ限定……?」

 ふわ、と風が街を駆け上がってきて、アスタロトの髪を吹き散らした。

「――」

 その風が来た方を眺めるように、レオアリスは低い壁の上に頬杖を付き、街を見下ろした。

 陽はすっかり落ちかかり街は青い大気の中に沈んでいたが、大通りは屋台や外灯の灯りで、淡い光の川のように浮かび上がっている。

 通り以外にもぽつぽつと、家々の窓が夕暮れに明かりを灯し始める街は、ゆっくり呼吸をしているように見えた。

 太陽は最後の光を一筋地平線に残すだけ、熱量を失って冷え始めた大気が、四方どちらからも街の喧騒を乗せて届けてくる。

「賑やかだな」

「うん」とアスタロトは呟いた。

「これだけ初日から賑わうのは、やっぱりどこか、不安があるからなのかもしれないな」

 レオアリスはふっと声を落とし、自問するように言った。瞳はなだらかに下る街に向けられている。

 あの賑やかで楽しげな街を見ながらそんな事を考えていたのか、とアスタロトは驚きと、微かな焦燥を覚えた。

 流れてくる楽の音、陽気な声、この平穏なひと時の間にも。

「離反から時間が経って一見落ち着いている――、けど表面的にはそう見えても、奥には漠然とした不安がある。祝祭は自浄作用って事か」

 レオアリスの言葉にはアスタロトではなく、近衛師団の中でグランスレイやロットバルトと問題を論じているような響きがあった。

 いや、アスタロトではなく、という言葉はふさわしくない。

 そもそもアスタロトは正規軍将軍なのだから、国政に関わる問題を近衛師団大将が投げ掛けても何らおかしくはない。

「どこに行くんだろうな――この先は」

 ルシファーが何をしようとしているのか、と。

 レオアリスは空と道の境の低い壁に飛び乗った。すぐ下の通りまでは三階分くらいの高低差がある。

「危ないよ」

 アスタロトがびっくりすると、危ないと言われるとは思っていなかった顔でレオアリスは笑った。

「このくらいの高さは降りられる」

「でも」

 風が。

 ここは風が吹く。

「――」

 アスタロトは手を伸ばしかけ、腕に触れる前に指先を握り込んだ。

 さっきまでいた祝祭の浮かれた空気とは、もう全く違う場所にいるのだと思った。

 手首を掴んだ手のひらの温度を一瞬、思い出す。

 でもそれだけだ。

 レオアリスは周囲を流れる風など気にする様子も無く、幅の無い壁の上にすらりと立ち、街を見渡した。

「こうやって街を見たり、ハヤテの背からどこまでも広がる畑とか森とか見たりすると、ふっと思う時がある」

 その後ろ姿を見つめながら、アスタロトは彼が身の内に宿す剣を意識した。

 飾り気の無い、美しい、剣。

「近衛師団も正規軍も戦う相手が在る事を前提にした組織だけど、俺達はきっと本当は、こういう光景を続けていく為にあるんだろうな」

「――」

 そうだ。

 近衛師団も――、正規軍も。

 この平和な光景が、この国が、いつまでも続くようにと。

「だから聞きたい、アスタロト」

 アスタロトは唇をぎゅっと引き結んだ。

 レオアリスが何を聞こうとしているのか、彼が口を開く前に判っていた。

 それはアスタロトが後ろめたさを抱えているからだけではなく、アスタロトにもまた、ルシファーが引き起こすかもしれない事に対する不安があったからだろう。

「西方公はあの時お前に、何を言ったんだ」

 鼓動が跳ねる。

「――」

「あの時やっぱり同じ事を聞いて、特に何もって、そう言ったよな。でも、悪いけどそうじゃないんじゃないのか」

「何で」

 心臓がピリピリする。

 隠していなければ良かった。あの時隠さなければ、今はもっと違った状況にいたかもしれない。

「お前が、苦しそうだったからだ」

 ふいに投げ掛けられたその言葉が、ぎゅっとアスタロトの心を掴んだ。

(何で、そんな言葉を、言うの)

 全て、何もかも打ち明けてしまいたい衝動が、足元に打ち寄せる。それが足元の砂を運び去っていく。

「お前は最近ずっと、何か悩んでるみたいだったよな。それと関係があるんじゃないのか?」

 何て勘がいいんだろう、と思い、その後可笑しくなった。

(何も、判ってないくせに)

 悩んでいるんだろうとは思っても、それがこんな理由だなんて考えない。

(……ずるいよ)

 今日久しぶりにこれまでみたいに話せて、その事が余計、想いを自覚させた。

 今、悩んでいた理由を告げたら、どんな顔をするのだろう。

 ただ困るだけかもしれない。

(剣士なんて)

 好きじゃない。

『お前と同じところでの想いなど抱くまい』

 いつだったか、ブラフォードがそう言った。その通りなのかもしれない。

 アスタロトは見えない程度の深呼吸とともに、口を開いた。

「私に、来るかって聞いた」

 レオアリスは驚き、その言葉が指す意味に眉をひそめた。

「何の為に?」

 隠していなければ良かった。

 もう素直に言う事なんてできない。

「判らない。でも、私が悩んでたのを知ってたからかな」

 アスタロトはレオアリスとは反対側を向いて壁の上に座り、片膝を抱えた。小さく、丸まってしまいたい。

「ファーには色々相談してたんだ。だから、心配してくれたのかも」

「相談って、何を」

「レオアリスには関係ない話」

「――」

 レオアリスはどことなく、むっとした表情を浮かべた。

 そんな事がほんのちょっぴり、嬉しい。

(……バカみたい)

「まあそりゃ、俺が知らなくていい事だって沢山あるよな」

(そうじゃないよ)

 アスタロトは長い睫毛が縁取る瞳を伏せた。

「相談できる相手なんて、ファーしかいなかったから」

 関係ない、と繰り返したようなものだが、レオアリスがどんな顔をしているのか、アスタロトには顔を上げて見る事ができなかった。

「小さいころからずっと、なんか姉上みたいな気がしてたんだ。姉上――ううん、母さまの妹みたいな感じ……? 母さまの方がずっと年下だけど」

 レオアリスは黙って聞いている。それが肯定なのか否定なのか判らなくて、アスタロトは次第に大きくなっていく鼓動の音を懸命に追った。

 手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、何でこんなに遠く感じるのだろうと思う。

 一つでも一杯なのに、色んな事が胸を押し潰そうとする。

 心を告げる事ができない代わりに、それ一つ分でも軽くなる事を期待して、アスタロトはのしかかっていた別の事を口にした。

 そう考えている事が後ろめたくて、重くて。

「だから私、本当は――」

 言うべきではない、と引き止める意識を無視して、一言一言、告げた。「このまま、ファーが見つからなければいいって、思ったんだ」

 言ってしまってから、途端に心臓がばくばくと音を立て始める。

 正規軍将軍である自分がこんな事を考えているだなんて、レオアリスはどう思っただろう。

 アスタロトは膝を抱える指先を、白くなるくらい握り締めた。

 レオアリスはしばらくして、ゆっくり息を吐いた。

「――お前はまだ、西方公に情があるかもしれないし、そう簡単に変えられないってのだって判ってる。アスタロトがそういうふうに考えるのも、別に変じゃないさ。けど」

 レオアリスは一度言葉を切り、それから、何かにぶつけるような言い方をした。

「俺は気にいらねェ」

 引き寄せられるように、アスタロトはレオアリスの顔を見た。

 レオアリスの表情はどこか、戦場にあるように引き締まっていて、アスタロトではなく遠くを見据えている。

 視線の先には、ルシファーを見ているのだろうか。

「――」

 アスタロトの館で、レオアリスがルシファーと対峙した時の光景が脳裏に浮かぶ。

 青白い光を纏う抜き身の剣――

 ルシファーが王やファルシオンに触れたから。

 だから、レオアリスはずっと怒っているのかもしれない。

 祝祭の喧騒も、どこかへ行ってしまった。

 それに気付いたかのように、レオアリスはふっと息を吐いた。

 大気に柔らかな喧騒が戻る。

「――悪い。せっかく祝祭に遊びに来たのにな」

 アスタロトはゆるゆると首を振った。長い髪が背中で微かに踊る。

「――いいんだ、と、思う。だってお互い、正規軍と近衛師団だし」

 もう完全にそうなっていて、アスタロトだけがその事を見ない振りをしていたのかもしれない。

 二人ともしばらく黙って街の喧騒を聞いていたが、やがてレオアリスは区切るように息を吐いた。

「今日はもう帰ろう」

 立っていた壁から通りにひょいと飛び降りる。

「まあ祝祭はまだ月末まであるし、また別の日に改めて来ればいいし」

「――」

「行こうぜ」

 レオアリスはじっとアスタロトを見て、肩を軽く叩くと路地へと戻りかけた。

「あのさ」

 アスタロトは思わず呼び止めた。レオアリスが振り返る。

 聞かない方がいいと判っていたけれど、つい聞いてしまった。

「レオアリスは、王に下命されたら、ファーを斬る?」

「――」

 レオアリスの表情は暗くて判らなかったが、沈黙は肯定のように聞こえた。

 そっと息を吐き、アスタロトは真っ直ぐ顔を上げて笑みを浮かべた。

「でも私やっぱりファーが好きだから、レオアリスがファーを斬ったら、怒るよ」

 レオアリスはしばらくアスタロトと正面から向き合い、それから一度瞳を伏せた。

「――そうだろうな」

 心臓がぎゅうっと小さくなる。

「ごめんね、変な事言って。……私、アーシアが迎えに来るから先に帰っていいよ」

 何でもないように言えているかがすごく気になったが、レオアリスは特に気にもせず頷いた、ように見えた。

「判った。じゃあ」

 ずきん、と心が傷む。

 それを隠して笑って手を振った。

「じゃあ、またね」

「アーシアが来るまであちこち動くなよ」

「うん、平気」

 レオアリスが路地を曲る前に、アスタロトはもう一度だけ呼び止めた。

「――西海との条約再締結、王の側に付けるといいね」

 本心のように届いたかは、自信が無かった。





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