表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
117/536

第2章「身欠きの月」(9)

 書斎の机に座っていたルスウェントは、耳慣れない物音にふと顔を上げた。邸内が俄かに騒がしくなったようだ。

 何人もが廊下を走る足音、何事か交わされる声、何かの落ちる物音。

 壁際の時計を見れば、朝の八刻を過ぎたところだった。何があったのかと廊下への扉に目を向ける。良く磨かれた厚い樫の扉はそうそう音を通さない。騒ぎの原因を確認しようとルスウェントが背後の壁に垂れる呼び鈴の紐に手を伸ばした時、書斎の扉が無遠慮に開かれた。


「何事だ」


 執務机から立ち上がったルスウェントの前に、足音も荒く五人の男達がなだれ込んだ。家人ではないのは一目で判った。


「お前達は、一体……」


 前触れの無い訪問者を見渡したルスウェントは、彼等が身にまとっている服が、ルスウェント自身良く知っているものだと気付いた。

 ヴェルナー侯爵家の警備隊の制服だ。

 重く嫌な予感だけがあった。その予感を裏打ちするかのように、警備隊の一人が進み出る。

 まだ二十歳そこそこの若い隊士で、襟元には部隊の隊長を示す紀章が留められている。ルスウェントはその顔に見覚えがあった。


「お前は」


 ヴェルナー侯爵家の警備隊は幾つかの部隊に分かれていた。背の半ばまで覆う肩掛の臙脂色は、ヘルムフリートの館の警護を担う部隊を表わしている。

 特に彼等はヘルムフリートが親衛隊として用立てている若者で、その名も思い出した。


「オーウェン・オルブリッヒ。私を訪ねて来たのはヘルムフリート様の御用件か」


 オルブリッヒと呼ばれた警備隊士は、まだ子供っぽさの抜けきらない面に勝ち誇った色を浮かべた。


「ルスウェント伯爵、前侯爵殺害の共謀の罪で、貴方を拘束します」


 一瞬、ルスウェントは言葉の意味を飲み込み切れず、オルブリッヒの顔を見返した。


「殺害――どう言う事だ? 何の事を言っている」


 前侯爵(・・・)と、オルブリッヒは言った。

 ルスウェントは腹の底が冷えていくのを感じた。


「判るように説明をしろ」


 だが、今何が起きているのか、ルスウェントは既に概ねを理解したと言っていい。昨夜のヴェルナー侯爵との会談は、それ(・・)を引き起こす可能性を充分に内包していたからだ。


(侯爵――)


 胸の奥に重苦しい哀悼を覚え、手を当てる。


「説明をしろとは、罪人が偉そうに――貴方が我々に説明をする立場なのです、伯爵」


 声に嘲る傲慢な響きを含み、オルブリッヒはルスウェントの腕を掴んだ。

 ルスウェントは呼び鈴の紐を引いたが、騒がしさが漂う廊下には家人が駆け付ける気配は無い。オルブリッヒは鼻を鳴らした。


「悪足掻きは見苦しいですよ」

「――館の中で何をしている」

「静かにしてもらってるんです。執事ごときが何を勘違いしてか我々を阻むもので、つい斬ってしまったのですが、それで他の者達も大人しくなりました」

「……何てことを――、お前達、自分が何をしているのか、判っているのか」


 怒りを昇らせたルスウェントの肩をオルブリッヒが無遠慮に押しやり、他の警備隊士が後ろ手に縛り上げた。


「充分判っていますよ。判っていないのは伯爵、貴方だけでしょうねぇ」


 せせら笑い、オルブリッヒは尊大に腕を組んで顔を歪めた。


「ああ、あともう一人、弟君もいらっしゃいましたか。貴方と共謀した」

「共謀――」


 ルスウェントは打たれたように息を飲んだ。


「まさか……お前達」

「新たな、正当なるヴェルナー侯爵家当主たる、ヘルムフリート様がお待ちです。ヘルムフリート様は恩情に富んだお方です、貴方の弁明にも、少しは耳を傾けられるんじゃないですかね」








 混乱の夜を抜けて朝の八刻を過ぎ、ヒースウッドはボードヴィルの街を歩いていた。黒い板壁を用いた街並みを、ヒースウッドが歩く灰色の石畳の通りがくねりながら縫い取っている。

 なめした杉の皮を葺いた屋根に生える煙突からは、朝食の煮炊きの煙がまだ上がっていた。

 ただ、木造の家が両側から迫るような狭い通りには、不安そうな顔をした住民達がそこここで言葉を交わしあっていた。昨夜のサランセラムでの戦闘は既に小さな街全体に知れ渡り、興奮気味に交わされる会話には巨大な海魔――ナジャルの姿を目の当たりにした恐怖も入り混じっている。

 ボードヴィルはこの先どうなってしまうのか、何処もかしこもその話でいっぱいだ。


「ヒースウッド様!」


 名前を呼ばれて振り返ると、三人の住民がヒースウッドへ駆け寄って来るところだった。

 声をかけてきた四十代ほどの男女と、彼等より少し若い男はヒースウッドをやや遠慮がちに囲んだ。

 三人はヒースウッドと特段顔見知りという訳ではないが、この辺り一帯を所領するヒースウッド伯爵家として、またボードヴィルに駐屯する正規軍西方第七大隊の中将としてもヒースウッドは良く知られ、親しまれている。


「ヒースウッド様、昨夜の戦闘は何だったんですか」

「西海の軍は、まだいるんですか」

「援軍が来たはずじゃ。援軍はどうなったんですか? 街に入って来てない」


 次々に投げられる質問を、周囲に立ち止まった住民達もまた耳をそばだてて聞いている。


「昨夜の、あの化け物は、何なんですか」


 そうだ、と幾つも声が上がる。


「あんな化け物がまた来たら、今度こそボードヴィルは終わりなんじゃ」

「ヒースウッド様」

「安心しろ――」


 ヒースウッドは周りにも聞かせる為に声を張り上げた。


「あれは、ルシファー様が討ち果たされた」


 張り上げたはずが、ヒースウッドは自分の声の弱さを感じていた。

 ナジャルはルシファーの風に押し戻され、消えた。それは、ルシファーがナジャルを倒したという事ではないか。


「とにかく皆、今は落ち着いて欲しい! 我々軍はこのボードヴィルを、必ず守る!」


 ヒースウッドの言葉に顔を見合わせながらも、通りの住民達はわずかに頰の硬さが薄れたようだ。

 その事にどうにか勇気づけられる反面、昨夜の戦場を直接見ていたら、この街の人々はどれほどの恐怖を覚えただろうかと、ヒースウッドは唇を噛んだ。


(街の人々を何としても守らねばならん)


 ナジャルが消え西海軍はシメノスまで後退したが、そこから更に退かせる術をヒースウッド達は持っていなかった。それを今、砦城では必死で考えているところだ。


「ヒースウッド様」


 城へ向かおうとしたヒースウッドを、また誰かが呼び止めた。


「王太子殿下がおいでだというのは、本当ですか」


 若い男が人垣の中から進み出る。


「城壁の旗は、王太子殿下の旗だと、昨日お聞きしました。本当に、殿下が――いえ、昨夜の化け物も、殿下が西方公にお命じになったのだと」








「北中層エルゲンツ橋における鎮圧の任、完了致しました」


 謁見の間に戻ったレオアリスは、ファルシオンの前に膝をついて鎮圧の完了を告げ、伏せていた面を上げた。

 時刻は八刻半を過ぎようとしている。ナジャルがこの謁見の間に現れてからおよそ一刻半が経過した事になるが、誰もがそれ以上の時が流れたように感じていた。

 この間に失われた命と街への損害は、途中経過を聞くだけでも胸が重くなるものだ。


 ファルシオンは強張っていた幼い面にやや血色を取り戻し、両手で胸元を押さえ、小さな肩を一度、ゆっくりと上げて、下ろした。


「良かった――皆、ありがとう」


 謁見の間に張り詰めていた空気が、ようやくわずかながら緊張の糸を解く。三か所の鎮圧、特に凄惨を極めていたエルゲンツ橋の鎮圧は、精神を削る出来事の連続の中でいっとき呼吸する間を与えたように思えた。


「さすがは、レオアリス殿だ」


 ゴドフリーが吐く息とともにそう言うと、横にいた地政院のランゲや彼等の補佐官達も頷く。

 ランドリーは立ち上がったレオアリスに近寄り、右手を差し出した。


「礼を申し上げる。貴殿のお陰で兵の損失を抑える事ができた」


 その手を握り返し幾つか言葉を交わす姿を、アスタロトは深い安堵の想いとともに眺めた。

 レオアリスに何があったのか、アスタロトはまだ聞けていない。

 そして自分から尋ねるのは、怖かった。

 原因がどこにあるのか、今の状況を考えれば想像できる理由は限られている。


(血を吐いて――)


 外傷によるものではなく、身体の内部の損傷によるものだ。

 内臓。それとも。


(左の剣を出した)


 こめかみが激しく脈打ち、眩暈がする。

 尋ねれば判る。

 一言――


 レオアリスが振り返る。ファルシオンの傍らにいたアスタロトへ、レオアリスの視線が動く。

 アスタロトは咄嗟に俯いた。

 ファルシオンが首を巡らせる。


「レオアリス、休んで」

「いえ――有難うございます。ですが問題ありません」


 穏やかな口調で答え、一度立ち止まるほどに緩めた歩調を戻し、レオアリスはファルシオンの斜め後方に立った。


「アルジマール院長」


 タウゼンが、それまでアスタロトへ向けていた視線を外し、アルジマールへと向き直る。タウゼンの長身へ顔を上げたアルジマールに対し、タウゼンは問うことを躊躇うかのように一呼吸置いたが、ややあって言葉を吐き出した。


「王城の防御陣は、今回働かなかったのでしょうか」


 数名が顔を上げ、タウゼンを、そしてアルジマールを凝視する。王城には常に防御陣が張り巡らされていた事を、その言葉で思い出したのだ。

 アルジマールの法衣の裾が揺れる。


「それについては、こんな状況にならなくても報告しようと思っていた」


 先ほどの術の名残かそれとも他の理由からか、灰色の(かず)きに隠されたアルジマールの瞳は、厚い布を通しても、虹色の光を揺らしているのが判る。その光に引き寄せられるように、その場の視線はアルジマールに集中した。


「昨夜から僕は、この王城内を、一つひとつ確認して回った。各所に示される痕跡は全部で四十――この城の規模では本来、それだけでも少ないが」

「――アルジマール院長、何を確認して回ったと」


 スランザールの問いに、アルジマールの被きが、やや上がる。


「陛下が王城に施された防御陣だよ、老公」

「――」

「王城の防御陣は全て失われている」


 一息に吐き出された言葉が、謁見の間の温度を奪った。

 口を開こうとしたスランザールを目線で遮り、アルジマールはもう一度、言葉を変えて繰り返した。その瞳の色は、目の上に掛かる布の陰に潜んだ。


「防御陣は全て、機能していなかった。やはり――恐らく昨日、僕がボードヴィルに施そうとしていた二重結界が壊されたあの時、同時に壊れたんだ」


 昨日午後、アルジマールはボードヴィルを覆っていたルシファーの結界を、もう一つの結界で覆おうとした。


「ルシファーはボードヴィルとこの謁見の間を繋いだ。その場にいた何人かは覚えているだろう。僕が発動させた二重結界はそれを断ったが、その後だ」


 ファルシオンは金色の瞳を見開いて、あの時、イリヤの――兄の姿が映し出された場所を見つめた。

 それから、レオアリスが苦痛にうずくまった、その床を。

 そこは偶然か、一刻前のレオアリスの力の発露とともに、陥没し階下の空間を覗かせている。


「その時に生じた大気の振動も覚えているかな」



 謁見の間に現れたアルジマールは、こう言った。

『大気に遠くから衝撃が走った。発信源は西だ。ボードヴィルよりも更に向こう――何かが大きく膨れ上がって、弾けたんだ。それを感じた直後に、僕の二重結界が破壊された』



「あの時感じた通り――、王城に施された防御陣も消失したんだろう」


 消失、という二文字は思いがけない衝撃をそこにいる者達に与えた。

 アスタロトの真紅の双眸が見開かれ、震える。瞳の奥には、あの水都バージェスの館の、千々に砕けた天井の硝子絵が蘇っていたのかもしれない。


「原因、は……」


 ゴドフリーがそう口にしかけ、半ばで口を噤んだ。文官であるゴドフリーにさえ、アルジマールが口にした事態の原因は想像する事ができたからだ。

 それでも口にしがたいのは、昨日から何度も、何度となく、考えては打ち消し、また考え続けているからだ。絶望と希望と。

 王ならば、イスで起こった事すらも何一つ問題とせず、いずれこの王都に戻るのではないか、と。


「――防御陣の復旧にはどれほどかかる」


 ベールの問い掛けには、すぐに答えが返らなかった。


「アルジマール院長」

「黙ってても仕方ないね。率直に言おう」


 重ねて問われ、アルジマールは一度息を吐いた。その仕草をアルジマールに見るのは珍しい事だ。


「陛下がなさったとおりに防御陣を再編するのは、不可能だ。僕一人の話だけではなく、法術院全体で対処しようとしても、もうあれほど堅牢な防御は施せないだろう」

「それは――」


 一瞬、広間は言葉を失い静まり返った。

 ちょうどその時、束の間に生まれた静寂を待っていたかのように、鋭い翼の羽ばたきが響いた。


 見上げた空間から見覚えのある鷹の姿の伝令使が、昨日から何度目になるだろうか、淡い陽光の落ちる卓の上に降り立った。








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ