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第2章「身欠きの月」(8)

「西下層、ヴァン・ルー地区ケネック橋付近、鎮圧に成功しました!」

「東上層クレモント地区より急報! ヘレネ橋に現れた海魔は、東方第一大隊により鎮圧、現在負傷者の救護に入っています!」


 次々と入ったその二つの報せを受け、謁見の間にはほんの束の間に過ぎないものの、安堵の声が洩れた。


「これで二箇所、抑えることができたか」

「この時間ならば被害はまだ最小限だったと言える。最善の手を打てたのでは」


 まだ朝の協議のまま残っていたゴドフリーを始め文官達が、青ざめた面でそう囁きかわす。

 ただ、事態が好転している気がしないのは、アスタロトやタウゼン等正規軍、そして近衛師団のハリス等もまた、厳しい面を一切崩していないからだ。特に北方のランドリーは、細い面に眦をきつく吊り上げている。

 二か所の鎮圧の報が入る直前、新たな海魔の情報――北中層アルティグレ地区の情報が入っていた。

 アルティグレ地区の状況は、困難を極めていた。


「北中層は、どのように対処を」


 三つの現場の中でさえ、北中層アルティグレ地区の凄惨さは耳にするだけで胃の腑を重くさせた。

 死の歌を歌い上げる半人半魚の海魔に、部隊が近づく事も叶わないのだ。

 一手目の対峙で北方第一大隊は、一小隊百名を超える死傷者を出していた。







「また歌う(・・)ぞ、退け!」


 北中層エルゲンツで指揮を取っていた北方第一大隊右軍中将ヘイムは、何度目かの後退を繰り返した。

 エルゲンツ橋に現われた三体の人魚達が甲高い歌声を響かせるたび、血溜まりや運河の水が鋭い刃となって屹立し、人も建物も全てを容赦なく断ち切った。

 辺りは既に街の様相を呈しておらず、無残に断ち切られた煉瓦や石の瓦礫が血の海の中に島のように積み重なっている。


 何人死んだか判らない。

 男も女も老人も幼い子供も――あの無慈悲な歌が脆い石くれのように引き裂いた。

 ヘイムの部下達も同様だ。

 兵は意味が無い――剣は届かず、矢は全て屹立する刃の前に落とされる。法術士団の術士もまた、頭をかき乱す歌声に、あの人魚達を抑えられなかった。


 それなのにあれは歌うだけだ。

 ただそれだけで耳の奥を(えぐ)り、身を引き裂く。

 歌はどこまでも追って来る。

 流れた血があればいい。


 女達は碧玉を連ねた魚の尾をゆるく振り、白い裸体を惜しげもなく晒し、美しい唇を震わせる。

 ビキ、と斜め前方の煉瓦塀が音を立てた。


「――退」


 ヘイムが言葉を発する寸前に、塀が砕ける。その後ろにいた兵士五人が、塀を砕いて突き出た赤い刃に全身を貫かれた。ヘイムの足元に血が撒き散らされる。


「――くそ……ッ畜生畜生ッ畜生ッ!」

「ヘイム中将殿っ、これ――これ以上、む、無理ですッ」


 部下の怯えた声と視界を埋める血の赤と、ヘイムの耳を掠めた歌声と。

 ずきりと鋭い痛みが腕から走り、ヘイムは自分もまた、左腕から幾筋も血を流しているのに気がついた。


「中将殿……ッ!」


 ヘイムの肩を掴んで懇願する部下の顔は血塗れだ。見開かれた目の中に恐怖がありありと見える。

 何度目か――、高い声が女の喉を震わせ始めた。


「中将殿、お願いします! このままでは、全員死ぬだけですッ」


 女達はただ、穏やかな陽射しの降る水辺にでもいるかのように、美しい面を陶然と掲げている。


(何故、こんな……ことに――ッ)


 何人死んだのか。

 これほど、無残に。


 ヘイムは音を立てて奥歯を噛みしめ、顔を上げた。


「中将殿!」


 もう兵士達は、限界だ。


「撤退、を――」


 唐突に、歌声が途切れた。

 ヘイムは命令を発する形を口元に留めたまま、瞳を見開いた。


 目に焼き付いたのは、閃光とも言える青白い光の筋だった。


 人魚の一体が二つに断ち切られている。

 遅れた衝撃が血溜まりを吹き上げた。

 その赤い飛沫の中に、人影が降り立つ。

 視線の端に、上空を旋回する銀翼の飛竜の姿が映った。


「……王の――」


 ヘイムが掠れた声を絞る。背後の部下達からも同様の響きが洩れた。

 血溜まりに降り立ったレオアリスは、自分の足元を染める鮮血に眉をしかめ、残りの二体に向き直った。


 その手に握られた剣が陽光の下にも青白い光を纏い、ヘイム達は一瞬、自分の喉元に凍る剣を当てられている錯覚を覚えた。


「ッ」


 身体が震える。

 たった今まで女達がもたらしていた恐怖よりも、更に――


 女達の艶やかな唇が開かれ、白い喉が死の叫びを(たた)えて反らされる。

 足元の血溜まりが踊り始めた。


 レオアリスは、一歩踏み込んだ。同時に手に提げていた剣を斜め下から斬り上げる。

 青白く爆ぜる剣光が女の脇腹から肩口を断った。

 ずれた上半身が血溜まりに落ちるのと入れ替わりに、レオアリスは地面を蹴った。間に横たわる瓦礫を易々と越え、最後の一体の頭上へ、凍て付いた剣を振り下ろす。

 歌を(とど)めた唇を開いたまま、女の身体は真っ二つに断たれ、血溜まりの中に飛沫を上げて倒れた。


 それは束の間の出来事だった。呼吸を三度繰り返したかどうか――

 それまでの恐怖はまだ、安堵にすら変わっていない。


 レオアリスは何事もなかったかのように、青白い光を纏う剣を提げ、ヘイム達を振り返った。

 異質、という言葉がヘイムの頭を巡る。

 まるで、温度のある存在では、無いような――


「三体――これだけか」


 それが問い掛けだと気付くのに、束の間の空白があった。

 ヘイムは思わず唾を飲み込み乾いた喉を湿らせた。


『たったこれだけか』


 と――そう言ったように思えたのだ。

 そうでは無いと首を振る。踵をできる限り強く打ち合わせる事で自分を奮い立たせ、ヘイムは右腕を胸に当てた。


「はッ、ここエルゲンツに現われた海魔は、その三体であります! それ以外は現時点で確認されておりません!」

「ならいい。負傷者の救護を急いでくれ」


 レオアリスの手から凍る光を纏う剣が、その姿を消す。

 ヘイムはようやく、わだかまっていた恐怖と共に肺に溜まっていた息を吐き出した。

 遅れて歓声が沸き起こる。恐怖が去った安堵と『王の剣士』を讃える声だ。


 上空に待機していた飛竜が翼に風を孕み、レオアリスの傍らに降り立つ。

 手綱を取っていたロットバルトは、ハヤテの背に上がるレオアリスに手を貸しながらも、街の様子を見渡した。


 状況に対して、今回の判断は正しかったと思える。これほどの破壊と殺戮に対し、『王の剣士』が出る事は、鎮圧という目的に加え、住民達の心に広がった恐怖を薄め安心をもたらす事に繋がっただろう。


 ただ、レオアリスはハヤテが上空へ上がり街からの視線が完全に途切れると、抑えた息をゆっくりと吐き、ハヤテを操るロットバルトの背中に、自分の背を預けた。

 それまで込められていた力が緩むのが、背を通して感じられる。


「――」


 回復が追い付いていないのは明らかだ。それが何よりも気になった。

 謁見の間でアルジマールがレオアリスを抑えた時、半ば強制的にでも休養が得られるとも考えたが、レオアリスは長く眠ってはいなかった。

 アルジマールの面は(かず)きに隠れていたが、予想以上に早く目覚めた事に驚き、また憂慮していたように思う。

 ロットバルトは口を開きかけ、それを一旦は収めて別の言葉を口にした。


「ケネック橋、ヘレネ橋も鎮圧を完了しました。これでナジャルが呼び出した海魔は全てです。負傷者の救護や被害状況の調査は、正規軍が中心となって進めるでしょう」


 主の状態を気遣っているのか、ハヤテの飛翔はいつもより緩やかだ。レオアリスが何故自分で手綱を握らないのか、この飛竜は理解しているようだった。


「今後は王都の防御体制の再構築が急務となると思いますが、現時点では当面の脅威は去ったと考える事はできそうです」

「王城の警護も、強化が必要だ。トゥレスとセルファンと、この後すぐにでも、協議が要るだろう」

「それについては副将と私にお任せください」


 束の間、ハヤテの翼が風を切る音が耳を打つ。

 ロットバルトは一度収めた言葉を、改めて口にした。


「何度も言うようですが、貴方は今、休養が何より必要です」


 沈黙の後、大丈夫だ、と声が返った。


「アルジマールに、強制的に、休養させられたからな。今は眠くない」


 もの言いは普段のレオアリスのものと変わらない。ただ一言一言を押し出す様は、身体の内に篭る苦痛を思わせた。

 ロットバルトは胸の内で息を吐いた。


「では、第一大隊一等参謀官としてお尋ねします」


 返事が返らないのは了承だと受け取り、背中越しのレオアリスに明確に問いかける。


「貴方の剣は先ほど制御を失いかけたように見えました。私が思い出したのは、ミストラです」

「――大丈夫だ。まだ」


 肩越しに視線を向けたが、背中合わせのレオアリスの表情は判らない。ただそれは取り繕う事のない率直な答えでもあった。


「――もう一つ」


 レオアリスは抑えた呼吸を繰り返している。


「剣の眠りは、どの状態で、いつの時点で必要なのか」


 今度の沈黙は、やや長く、戸惑いを表わしていた。

 短く、答えが返る。


「悪いが、俺にも判らない」


 ハヤテは王城の壁面に張り出した半円の乗騎場へ降下して行く。


 レオアリスはもう一度、大丈夫だと、その言葉を口にした。







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