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第2章「身欠きの月」(4)


『この国にあっては、地を呑もうか』


 ナジャルの身体は時折、降り注ぐ朝の光に霞み不安定に揺れる。それでいて、霧のように纏い付く闇は一向に薄まらなかった。

 投影だとアルジマールは言った。

 だがその事に安堵する気には、ここにいる誰一人としてなれなかっただろう。

 投影ですら身を圧する質量を感じさせる闇。

 身じろぎをすれば底知れぬ闇に気付かれる。伸ばした触手に絡め取られ、引きずり込まれる。


 ただ、その闇を妨げる光があった。

 レオアリスの身を取り巻く、青白い剣光――その清冽さは、白い陽光の中にとぐろを巻いて巣くう闇とは対極にあるようだ。



 ナジャルは自身の異質さなど一切意に介さず、まるで旧知の挨拶をするように、斜め前の卓にいるアスタロトへ顔を向けた。


『娘――主君を見捨てた気分はどうだ』


 蒼ざめる面を眺めて血の朱を帯びた銀の双眸を満足げにたわめ、ナジャルは唇の両端を吊り上げた。


『だがそなたが放った最期の炎――あの美しさ、儚さは賞賛に値する』


 レオアリスが一歩踏み込む。足元から亀裂が一筋、ナジャルへと奔った。


「抑えよ、レオアリス」


 スランザールが低く、だが鋭い声を上げる。

 レオアリスは右手を鳩尾に当てている。双眸は心臓を凍らせる光を帯びていた。


 だが、剣は抜かれなかった。

 肩が呼吸を抑え、微かに上下する。

 ナジャルとレオアリスがいる場所とを隔てる卓の外側で、列席者達は安堵と不安に、一歩、後退った。


『ほうほう、ほう――』


 喜びを見出(みい)だすように、ナジャルは身体を揺すった。


『地上は全く、興味深い』


 舌舐めずりをし、ナジャルはレオアリスから視線を離すと、片腕を前へ延べた。


『だがまずは、国としての問いに答えねばならぬ』


 レオアリスの背後で、ファルシオンが両手を握り込み、ただ瞳は真っ直ぐにナジャルを睨んだ。傍にベールとアルジマールが守るように立つ。

 ナジャルが嗤う。闇が揺らぎ、束の間古き王の姿をゆらりと霞ませた。


『古き盟約は(つい)え――


 地と海とを縛る鎖は解き放たれた』


 ナジャルの言葉は、詩を唄うが如く流れた。



『新たな創世』



『新たな滅世』



『千年の深淵より地上へと戻る。

 地を喰らい、飢餓をすすぎ、

 荒れ野は汚穢の沼と化す』


 朗々と、死を謳うが如く。


『地上には闇が巡り、混沌が蔓延(はびこ)り、

 生きとし生けるもの皆全て、

 血と肉と絶望の坩堝に(むせ)ぶだろう』



『胎内への回帰――』



 銀の双眸が恍惚と細められる。血の朱が色を増した。

 不吉な言葉の羅列は、ただそれだけで世界に掛ける呪のようだ。

 ナジャルの姿は再び揺らぎ、次第に形を変え始めた。

 闇が広がる。


『全ては始まりへと戻る――この国も』


 質量が増した。


「まずい」


 アルジマールが被きの下の頰を緊張させ、指先を宙に走らせる。

 ナジャルの足元から闇が立ち昇り、四つの塊となって前後左右に浮いた。


『この都に饗宴を――我がもてなしを受けるといい。何、ほんの些細な貢物といったところだ、遠慮は要らぬ』


 レオアリスの左手(・・)が鳩尾へ動く。


「抜くな、大将殿!」


 アルジマールが咄嗟に叫ぶ。


「裂傷に手を突っ込むようなものだ!」


 ずぶりと、左手が手首まで沈む。レオアリスの表情が苦痛に歪み、奥歯が軋んだ。


「……ッ、」


 獣の呻きに似たくぐもった苦鳴を押し殺す。漆黒の瞳に青白い光が宿った。


「大――」

「ぅ……ァ、ぁぁあ!!」


 同じ光が溢れ、長剣が姿を現わす。新緑の絨毯が敷かれた床に、湿った音を立て血が滴り落ちた。凄惨とも言えるその姿に、誰もが言葉を失い息を呑む。


 自らの血を吸った絨毯を蹴り、レオアリスはナジャルへと踏み込んだ。青白い光を纏った剣が尾を引き、ナジャルの正面に浮かんだ闇の塊を切り裂く。剣光はそのままナジャルの脇腹を裂いた。


『ほう――』


 身体の一部を失って上半身を傾がせながら、ナジャルは切り裂かれた闇を見た。闇は震え――それから、唐突に形を得た。

 巨大な、人の背丈の三倍はあろうかという、怪魚の姿に。

 鉄の鎧を連ねたような灰銀の鱗が全身を覆い、不自然に膨らんだ頭部と、突き出た長い口に鋸の如く並んだ鋭い歯列。

 だが、既にその身を断たれている。


 巨大な躯が臓物をまき散らしながら、更に踏み込みかけていたレオアリスの上に落ちかかる。レオアリスは床を蹴って距離を取った。

 重く湿った音を立てて謁見の間の床に崩れ落ちる。尾が円卓の一部を叩いて跳ね飛ばした。生臭い臭いが立ち込める。


それ(・・)を薄紙の如く斬るか』


 ナジャルは口元を吊り上げた。


『しかし、足りていないぞ』


 既に他の三つの闇は、ナジャルを離れて天井へと伸びる。レオアリスが闇を追おうとして剣を返し――不意に膝が力を失い、そのまま崩れるように床に片膝を落とした。

 剣を床に突き立てて身体を支え、噎せ返る。喉から赤い血を吐き出した。


「レオアリス!」


 ファルシオンとアスタロトが叫ぶ。駆け寄ろうとしたアスタロトの腕をタウゼンが掴んだ。


「離せ――!」


 ナジャルが闇を広げるように、レオアリスの上に屈み込んだ。








 王都は王城を中心に、街の外からは東西南北の主幹街道に続いていく大通りが、十字に整備されている。

 大通りからは常にどの場所からでも、見上げれば王城の姿を見ることができた。多くの住民や商人、旅人達が集まる都で最も賑わう場所だ。

 通りを進むと何度となく、王都に円状に巡らされた水路と交わる。交差するごとに美しい造形の橋がかかり、橋をくぐる水路の水面は穏やかで、時折花売りの小舟から零れた花びらを浮かべながら初夏の陽射しにたゆたっている。


 朝の七刻を過ぎ、これから王都の賑わいは夕刻まで増し続ける。

 空の美しい青さに清々しさと眩さを覚える、そんな一日の始まりだった。



 王都に近い上層クレモント地区の広い水路に掛かる橋を、商隊の荷馬車が轍の音を立てて渡っていく。 一段高い歩道には家族連れや恋人同士、年老いた者も幼い子供も、多くの人々が通りに並ぶ店を目当てに行き来していた。

 橋の上から二十歳前後の青年が、橋のたもとに小舟を寄せた花売りから、傍らの恋人らしき少女に捧げるための花を求めている。花売りは慣れた手つきで竿にくくった籠に花を乗せ、するすると欄干まで持ち上げた。


 川面が揺れ、四角い石版を連ねて貼った堀を叩く。花売りの小舟が大きく揺らぎ、傾いだ。花は青年の手に渡る前に竿の先から零れた。欄干に両手を置いて顔を綻ばせていた少女は残念そうな声を上げた。

 舞い落ちた花が川面に落ちる。

 慌てて追いかけた小舟の舳先の前で、花を浮かべた川面が、自分に捧げられた供物を飲み込んだ。

 波紋が散る。


 その波紋の中から、飲み込んだ花の代わりに、見慣れないものが幾つも現れる。

 それは木の芽が地面から芽吹くように、水面へと伸びた。触手だ。触手のようなもの――それぞれ赤黒く濡れた表皮に、白く丸い吸盤がぞろりと並ぶ。

 花を探して欄干から身を乗り出していた少女が悲鳴を上げた。

 花売りの小舟が舳先を上にして持ち上がる。花売りが水の中に転げ落ち、小舟に積んでいた大量の花が川面に撒き散らされた。


「何だ――!?」

「舟がひっくり返ったぞ!」


 橋の欄干や運河の岸に、騒ぎを聞きつけた人々が何事かと駆けつけて来る。転覆した小舟を助けようと、運河にいた物売りや遊覧船(カーネ)が集まりだした。

 川面が大きく揺れる。

 一人だけ、少女は逃げてと叫び続けた。

 散った花弁を纏って持ち上がり、触手は長く伸びた先端をぞろりと橋に掛けた。



 それは、人々で賑わう王都の街の、三カ所で起きた。

 東上層クレモント地区ヘレネ橋。

 西下層ヴァン・ルー地区ケネック橋。

 北中層アルティグレ地区エルゲンツ橋。

 賑わっていた大通りに、悲鳴と混乱、恐怖が満ちた。







 ナジャルの手が、レオアリスの頭を掴む。

 レオアリスは苦痛を堪えるように肩を小刻みに震わせながらも、薄っすらと目を開け、ナジャルを見た。ただ、今にもその光は薄れて行くようだ。


『憐れな――その剣は身喰いではないか』

「その手を離せ」


 アルジマールの声が硬く場を打つ。


「それから、速やかに退場願おう」


 目深に被った灰色の(かず)きの下で、虹色の光が揺らぐ。


『いずれ街の悲鳴がここまで聴こえて来よう。何も手を打たずに蹂躙されるのを眺めるか』

「何をした」


 ベールがナジャルを見据える。


『何、ただ解放したまでのこと』


 物を放るようにそう言ったが、そこにはおぞましい響きが含まれていた。


『これまでに我が喰らい、この腹に沈めた者達だ。今頃はこの美しき王都で、久方の自由を味わっている事だろう』


 ナジャルは周囲の動きを歯牙にも掛けず、レオアリスの頭を掴んだまま、ぐいと持ち上げた。剣の柄を握るレオアリスの左手が緩む。

 レオアリスの耳元に、ナジャルは流し込むように優しく囁いた。


『その剣は手放さねば』


 屈めていた長身を起こし、ナジャルは自分を囲む者達を眺めた。ナジャルの口の端がゆるりと上がる。鋭い二つの牙が覗いた。


『さて、最後の答えだ。“汝らの王は何処か”――』


 無機質な響きの中に確かな嘲笑を交え、ナジャルは牙を剥き出した。


『王の守護者の折れた剣を見よ』


 レオアリスの手が、手放しかけていた剣の柄を、掴む。

 身体から、突風となって剣圧が湧き起こった。卓上に置かれていた書類を高く舞い上げる。

 頭を掴む腕を断ち、そのまま空間を切り裂くように青白い光が尾を引いて走る。剣はナジャルの右脇腹を捉え、斜めに斬り上げた。


 身体を断たれたナジャルの姿が、歪む。

 剣の余波はそのままの勢いで奔った。

 白い光を帯びた壁が立ち上がる。光の壁は一瞬で、楕円の卓の内側を覆った。

 剣の余波が壁と激しく衝突する。


 鬩ぎ合い、硝子が砕けるような音とともに、突き抜けた。

 卓を砕き、その先の床と、円柱を断ち切る。

 レオアリスは構わず、歪むナジャルの影にもう一歩踏み込んだ。

 左手の剣が帯びた光を増す。


「大将殿!」


 アルジマールが叫ぶ。たった今障壁を張った手が、白く輝いた。


「無茶だ! 抑えるんだ!」


 振り向きもせず、ただ視線がアルジマールへと動く。レオアリスの瞳に、一瞬アルジマールは慄然とした。

 青白く灯る怒り。

 酷薄な、無機物を見る瞳――


 まるで別人だ。

 そう、――それはバインドを彷彿とさせる。


(封じ――)


 無意識に浮かんだ考えを振り捨て、アルジマールは音高く合わせた両手を、楕円の卓を抱えるように開いた。

 再び、楕円の卓の内側に輝く障壁が立ち上がる。


「大将殿、そこを出るんだ。僕が追い戻す」


 レオアリスは答えず、再び踏み込んだ。剣が雷光を帯びる。迸る剣光へ、ナジャルは右手を開き伸ばした。

 剣を掴んだと思った手が、弾けるように断ち切られる。

 剣はナジャルの首を裂いた。


『――ほう……この身は写しだが――』


 レオアリスは更に歩を詰め、上げた剣を返し斬り下ろした。

 一瞬、謁見の間を覆っていた圧力が、消える。


 完全に消滅させたかと思ったのも束の間、闇は空間の隙間から滲むように現われ、レオアリスを取り巻いた。

 ナジャルの姿が再び、ゆらりと立ち上がる。


『褒美に教えてやろう』


 闇が細い縄のように捩れ、レオアリスの身体に絡みついた。

 質量を持って締め上げる。

 ぎし、と骨の軋む音がした。


「……ッ」


 指先が宙を泳ぐ。


「レオアリス!」


 ファルシオンが身を乗り出し、アルジマールの張った白い障壁に阻まれる。アスタロト、グランスレイ、ロットバルトもまた障壁に手をついた。


「アルジマール!」


『そなたらはいつまでも、赤子が親を求めるように求める。だが――のう』


 障壁の中で、ナジャルは喉を震わせ、いとけない子供をあやすように語りかける。



『あの男は、もう、解放されたかったのだよ』



 レオアリスは打たれたように瞳を見開き、肩を震わせた。


「……戯、言、……を」


 レオアリスの身体の内から、青白い光が弾けた


「言うな――ッ!」


 光に貫かれ、ナジャルの姿が溶ける。光はそのままその場を囲む卓を飲み込むように広がった。

 轟音が響き、その向こうに立つ諸侯の上に差し掛かる。


 アルジマールは両手を広げ、そこにあるものを掴むように手のひらを合わせた。乾いた音とともに、立ち上がっていた障壁がやや虹色がかって輝き、急速に集束する。

 光は球体となり、中心にいたレオアリスを閉じ込めた。

 一瞬、瞼の奥を焼くように輝く。


 やがて光りは静まり、束の間、一切の物音が消えていた。

 ナジャルの姿も、そこにわだかまっていた闇も無い。

 誰からともなく溜めていた息を吐く。


 レオアリスは膝を抱え込むようにして光球の中に横たわり、左手からは剣は消えていた。


 そして謁見の間の床は一部、あたかも蒸発したかの如く失われ、階下の空間を覗かせていた。






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