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第2章「身欠きの月」(1)

 欠け始めた月は、うっすらと白く輝くその身を、西の空低く浮かべていた。

 夜明け前の王都は優美な王城の頂を濃紺の空に浮かび上がらせ、街の向こうに広がる大地には低く、灰色の靄が垂れ込めていた。王都アル・ディ・シウムはさながら、雲海に浮かぶ島のようにも見える。


 あと一刻もすれば靄はすっかり払われ、周辺の畑や森、そして朝日を受けて輝く大河シメノスの川面(かわも)が西に見えてくる。


 法術院長アルジマールは先ほどから西の城壁の一角にしゃがみ込み、石積みの壁や床を食い入るように見つめていたが、やがて灰色の(かずき)に隠された面を上げた。幼さを残したままの面は瞳の上まで陰になり見えないものの、厳しい表情が結んだ口元から判る。

 夜明け前の冷えて湿った大気に薄白く息を零す。


「ここもか。予想してたとは言え――」


 確認できた所は、全てだ。

 苦味を含んで微かに呟き、立ち上がった。(くるぶし)近くまである灰色の外套の裾が揺れる。


 今彼がいるのは、西の城壁に張り出した半円の物見台の上だ。アルジマールが見上げた視線の先には、王城の西面、六階層に当たる王の居城の窓がある。


「陛下」


 主の不在を告げているのか、その窓は灯りもなく、濃紺の空を映して暗く沈むように思えた。王城の頂の向こうの空は、次第に白み始めている。

 アルジマールは足元に視線を戻し、それから息を詰めて朝靄に浮かぶ城下の街を見た。


「完全に喪失してる。これはさすがに、僕も手に負えませんよ――陛下」


 口の中で呟き、指先で彼の前の空間に模様を描いた。空間が歪み、中心に向かって渦を巻く。


 その中に踏み込むと、渦はアルジマールの姿を飲み込んだ。











 ボードヴィルの戦いから撤退した正規軍西方第六、七大隊の兵達は、夜明け間近、ボードヴィルからおよそ十里東へ離れた街道途中に三三五五集まり始めていた。

 兵士達は疲労の色が濃く、数刻前に目の当たりにした絶望的な戦場に打ちのめされ、ほとんどが座り込み俯いている。

 西方第六大隊の軍都エンデへは、なお数刻の行程があった。





 静かに、母が乳飲み子の背をあやすように、目指す東の空が白んで行く。それは疲れ果てた心に、僅かながらも安らぎを注いでくれるように思えた。

 俯いていた若い兵士、セスクは夜明けの光を感じて顔を上げ、それから、たった今眠りから覚めた面持ちで辺りを見回した。


「ドルト班長――」


 三度目に見回したセスクは、四間ほど先の樹の陰に、幹に背を預けて座り込んでいるドルトを見つけた。ドルトが無事だった事にほっと息を吐く。

 疲労に震える脚を立たせ、セスクはドルトに近付いた。伝えなくてはいけない事があるのだ。


 それは自分達西方軍にとって、いや、この国にとって間違い無く朗報になるに違いない。セスクは信じ、膨れ上がる期待を喉元に抱えてドルトの前に立った。


「班長――」






「今、何て言ったんだ」


 ワッツは草地に膝を付いた少将クランの肩口を見た。クランの顔が上がり、彼の表情が見える。

 ワッツよりやや若い、二十代後半の少将は、血と土埃で汚れた顔に困惑した色を浮かべていた。

 そして確かな、希望を。


陛下が(・・・)、ボードヴィルに――、いえ、ボードヴィルで陛下の御姿を、確かに見たと言う者がいるのです」

「陛下――?」


 思わず身を乗り出す。


「本当か」


 クランの告げた言葉は、ワッツの胸にも踊るような希望を沸き起こした。上擦りかける声を堪える。


「本当に、陛下が」


(いや――、おかしくねぇか)


 アスタロトは王がイスに残ったと言った。

 そしてバージェスで、あの海を渡って来た男は、王は死んだと――

 そう告げた。


 半ばから折れたアヴァロンの剣が記憶を揺さぶる。

 あの折れた剣が、全てを物語っているのではないか。


(だが)


 誰もその場に居合わせていない。見た者はいないのだ。

 鼓動が早まる。

 レオアリスの顔がふと、脳裏を()ぎった。


(お前は今、どうしてる――)


 それを知りたい。

 いや。

 知りたくない、と、思った。


「……それは、確かな情報なのか。見たのは誰で、どこでだ」

「複数の情報があるのです」


 クランもまた感情を抑えているのが判る。当然だろうと見下ろす。


 王さえいれば。

 王が無事なら。


 それは彼等にとって何よりもの希望だ。希望で、出口だ。

 そもそも、彼等の王を失ったなどと、誰一人本気では信じていないだろうと、ワッツ自身でさえ思っている。


「見たと言っているのは第四班ドルトの部下のセスク三等兵です。それから、第五のコール、六班からも」

「――」


 陛下は、という言葉を飲み込む。「どこに……」


「街門の上の、物見に、立っておられたと」


 クランの声は次第に、混乱よりも希望の響きが抑えきれなくなっていく。

 だが、ワッツはクランの言葉に頬を思い切り張られたような衝撃を感じた。


「……どこに、だと……?」


 街門の上、と、たった今クランは言った。

 もう一度やはりクランが「街門です」と言うのも聞こえた。


「――」

「ワッツ中将?」


 厳しい顔で黙り込んだワッツをクランが不安そうに見上げる。


(……街門……街門だと……?)


 温まりかけた身体に、冷水を掛けられたように感じた。

 ワッツも確かに、街門の上に立つ男の姿を見た。

 それは間違いない。

 だが――、ワッツがそこで見たのは、王の姿などではなかった。


 確かに遠巻きだったかもしれないが、それでもあの存在を自分達の王と見間違えるとは、到底思えない。

 あれは、海を渡って来た男だ。

 そう確信できるほど、夜目にも禍々しい空気を纏っていた。


(どういう事だ)


 兵士達にはあれが、王の姿に見えたという事か。

 ワッツは声を抑えた。


「……クラン、その話、なるべく口に出させるな」

「し、しかし」


 当然の事ながら、クランは不満そうだ。


「これを聞けば兵士達の士気も、上がるかと」

「判るぜ。だが不確定要素が多すぎる。王都へは情報を上げて伺いを立てるが、王都の判断が下るまでは余り」


 期待を持たせない方がいい、という言葉が浮かびかけ、それは自分ですら受け入れ難いものでしかなく、ワッツは口を噤んだ。

 クランはワッツの様子に何を感じたのか、上官の指示を飲み込み、頷いた。




 だが、ワッツの懸念と胸騒ぎを他所に、王が生きているのではないかという噂は、日がすっかり明けきる頃には兵士達の間に満ちていた。








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