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第1章「暗夜」(19)

「お帰りなさいませお館様、今日はこちらへはお戻りにはならないかと……」


 ヴェルナー侯爵の外套を脱がせて預かり、家令は玄関広間に置かれていた時計の針を確認した。深夜の三刻を過ぎている。


「六刻にはまた王城へ戻る。だが、連絡した通りだ」

「畏まりました。必要な物は揃えてございます。湯浴みの御用意を致しますか」


 ヴェルナーが頷くのを確認し、家令はそれまで従っていた秘書官と従者を下がらせると、燭台を片手に大階段を上がって行く。


「ルスウェント伯爵がお越しになりました。ヘルムフリート様とお話をなさりたいとの事でしたが」


 ヴェルナーは蒼い目を家令へ向けた。


「ヘルムフリートは」

「その時はお戻りになってはおらず、お会いになっておられません」


 家令はルスウェントの用向きを口にしなかったが、それは敢えて言うまでもない事が判っているからだろう。

 三階の奥にある書斎まで来ると、家令は前室の扉を開けた。


「誰も近寄らせるな」

「登城の御用意は」

「五刻でいい」


 ヴェルナーは書斎に入り、左の窓際に置かれた広い机へと歩み寄った。庭園を望む一面の硝子戸は、今は濃紺の天鵞絨(びろうど)の日除け布で閉ざされている。深い夜に物音は一切聞こえなかった。

 机の上には家令が用意していたものが一式、出揃っていた。

 ヴェルナー侯爵家の紋章をあしらった純白の用紙と貴重な青金石を溶かした封蝋。それらは侯爵家の重大な意思決定事項を証する際にのみ、用いられるものだ。

 右手の中指に嵌めた指輪が印璽となっていて、署名を入れた書状の上部中央と封筒に蝋で刻めば、それは即ちヴェルナー侯爵家の正式な意思となる。


 ヴェルナーは机を回って椅子に腰掛け、純白の用紙を手元に引き寄せると銀の筆先を青い小瓶に浸した。群青の液体が小瓶の口から、ふわりと独特の香りを散らす。

 束の間脳裏に(よぎ)った面影が眉根を寄せさせたが、ヴェルナーは浸していた筆先を持ち上げた。繊細な金属の先端が純白の紙の上を走る。


「父上」


 抑えた低い声に、ヴェルナーは顔を上げ、続きの間から現れた姿を認めた。


「……ヘルムフリート」


 ヘルムフリートはまだ内政官衣を身に付けたまま、やや俯きがちに、左手を背中に回して立っている。

 続きの間は書庫代わりになっている。ヴェルナーが戻る前からそこにいたのだろう。ヴェルナーはちらりと、廊下へと続く扉へ目を向けた。


「ここにいるとは聞いていないが」

「お話があって、待っていたのです」


 ヘルムフリートは走って来た後のように呼吸を乱していて、それを抑えながら声を発した。


「昨夜の」

「今は忙しい、後にしろ」


 感情の無い平坦な声に打たれ、ヘルムフリートは肩を揺らした。


「後に――?! わ、私の要件はそれです! 今その手元にある――お判りでしょう!」


 声を震わせ、一歩、父の座る机へと踏み出す。


「私を廃嫡すると仰った!」

「そうだ」


 ヘルムフリートは身体をびくりと震わせ、父侯爵を見た。


「私が……私が何か、失策をしましたか!? そうでないのなら、何故私を嫡嗣から外すと仰るのか――わ、私には判りません。そのような事は、余りにふ、不当な仕打ちではありませんか!」


 ヴェルナーは顎の下に手を組み、激昂するヘルムフリートへと、冷徹な視線を据えている。


「そもそも陛下は、私がヴェルナー侯爵家の跡継ぎだと仰ったのです! 陛下が、陛下は、私こそが――そ、それを」

「今は状況が変わった。それすらも解らんか」


「状況――?」


「この混乱の状況下では、感情や他者に流されない適切な判断が何より求められる。ヴェルナー侯爵家の行く末を見据えた判断がだ」

「そ、それであれば――、それであれば尚更、私も侯爵家の行く末について、意見を言う立場ではありませんか!」


 ヴェルナーの吐いた息は、失望を有り有りと表し、ヘルムフリートを凍り付かせた。


「それを話すのはお前とでは無い。あくまでヴェルナー侯爵家当主の意思と、長老会の承認による話だ」


 組んでいた手を解き、黒檀の机を挟んでヘルムフリートと向かい合う。


「こんな夜半に、国の存亡の危機ですらある中で、口にする事は我が身の事のみか。感情に任せまともな話もできん。だからお前では、当主としてこの先の変局を乗り切れんと判断したのだ」


 蒼い瞳には室内の薄暗さ故ではない冷徹さが浮かんでいる。

 そして僅かに、苛立ちと。

 その苛立ちがヘルムフリートの喉を塞いだ。


「当主に相応しいよう手を掛けてきたつもりだったが、それに応えられなかったのはお前自身の問題だ」


 話はそれで終わりだと言うように、ヴェルナーは再び筆を手に取り、机に向かった。


「判ったら戻れ。私は忙しい」


「……わ、私は」


 俯いた口の中で呟かれた言葉は、初めは蝋燭の火が芯を焦がす音にも掻き消され、ヴェルナーへは届いていなかった。


「私は……、貴方の言う通りにしてきた――それだけだ――、それだけの……ッ」


 俯いていた面を跳ね上げる。


「貴方の為に――ヴェルナー侯爵家の為に、全て……!」


 室内の空気が揺れ、壁に掛けられた燭台の火がゆらゆらと揺れる。


「全てだ! 今まで、何もかも、全て、全て全て全て全て、全て―― !」

「ヘルムフリート、今は」


「貴方はそれを裏切るのか!」








 ゴトリと重い音を立て、毛足の長い絨毯に剣が落ちた。

 蝋燭の淡い光を微かに映し、剣は元からそこに彫刻されていたかのようだ。絨毯に広がり始めた血が、剣の切っ先を濡らす血に混じる。


「……私は悪くない、私が悪いんじゃない」


 歯の根が合わずガチガチと音を立てながら、ヘルムフリートはずっとその言葉を繰り返していた。

 身体全体が呼吸に合わせて揺れる。鼓動は一拍ごとにこめかみを打った。


「私は――」


 最後まで左手に硬く握り締めていた鞘を、指を一本一本剥がすようにして床に落とす。絶え間なくぶるぶると震え続ける手を伸ばし、机の上に置かれていた純白の用紙を破って手を濡らした血をどうにか拭った。

 用紙には一行にも満たず、書き出しの文字が綴られていたが、それに何の効力も無い。


「私を、裏切るからだ」


 足元で転がる剣と鞘を見つめる。つい数刻前、トゥレスから護身用にと渡された剣だった。

 黒と銀の鞘に施されている紀章。

 近衛師団の支給品だ。

 ヘルムフリートは口元を歪めた。


「――貴方が悪いのだ、父上」


 一度扉へ向かいかけ、絨毯に投げ出された手にヴェルナー侯爵家の印璽が嵌っている事に気付いて、足を戻すと倒れている身体の横に膝をついた。

 その拍子に虚ろな双眸と、目が合った。


「――ッ」


 見開かれた瞳は、お前は相応しくないと、そう告げているようだ。

 もうヘルムフリートを否定する事などできないはずなのに、青い双眸から失せた光は、そのままヘルムフリートへの失せた期待だったように思えた。


「貴方が、悪いのだ」


 まだ震えの収まらない指先で、ヘルムフリートは投げ出された手から、何とか印璽の指輪を抜き取った。

 それからそれを手の中に握り締めた。









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