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第1章「暗夜」(18)

 ふいに――


 ボードヴィルの方角から、風が叩き付けた。

 圧倒的な恐怖に魅入られ凍り付いていた兵士達や騎馬の脚を、一瞬地面から浮かせるほど激しく吹き抜ける。サランセラムの草原がうねり、音を立てる。

 ワッツは奥歯を噛み、騎馬の上に伏せるようにして自分の身体すら浮かしそうな風を堪えた。


(今度は何だ――ッ)


 途端に風はぴたりと吹き止んだ。

 風に押されていた身体が前のめりに戻ったが、恐怖と悲鳴と混乱とに満ちていた戦場は静まり返っている。

 正規軍兵も、西海の兵も、全ての目が一点に集中していた。


 ワッツは目を見開いた。視線の先で、地上を食い荒らしていたナジャルが、暗い夜空へと鎌首を起こしている。

 静まり返り、風と抑えた息遣いの微かな音しかない戦場から、銀色の長い体躯を空に伸ばし始めた。

 ボードヴィルへ。

 心臓が跳ねた。

 ナジャルが街を目指しているのは明らかだ。


 なす術もなく、ただ剣の柄を握り直したワッツの視線の先で、一瞬、ナジャルの姿が陽炎のように揺らいで見えた。


「――」


 ワッツが目を凝らす。


(見間違いか)


 凍り付いていた戦場がどよめく。

 その響きにこれまでと違ったものを感じ、地上に戻しかけたワッツの目が、もう一度ナジャルに据えられた。正確にはナジャルではなく、その向こう――

 欠け始めた月とナジャルとの間に、白い影が浮かんでいる。

 小指の先ほどの大きさでしかないが、影が風に揺らす黒髪が見えた気がした。

 白い頬に浮かぶ、(あで)やかな笑みが。


「西方、公……」


 ぞくりと背筋が凍った。

 月を背に、再び突風が起こる。夜の闇が月の光を巻き込み渦巻くように見えた。

 だがそれは先ほどのように戦場に吹き降ろすのではなく、街壁を越えようとするナジャルへと叩き付けた。


 恐らく鉄をも捻じ切るだろう激しく唸る風を受けてなお、ナジャルは長い躯が街壁を越えようと動いて行く。

 叩き付ける風とナジャルの長大な躯とが鬩ぎ合い――


 息詰まる数瞬の後、ナジャルの躯が弾かれ、傾いだ。


 ゆっくり、戦場へと、倒れる――

 月の光を受け、銀色の鱗が冷たく輝いた。

 はっと我に返り、ワッツは声を張り上げた。


「全軍――退却だ! 退け!」


 倒れて来るナジャルの影に、兵士達の間に再び混乱が戻る。ナジャルの躯を避け兵士達が撤退を始める。

 ワッツも手綱を引いて騎馬を返そうとし、ふと、目の端を掠めたものに意識を引かれ首を巡らせた。


 街門の上に人影が立っている。ルシファーかと思ったが違う。

 一人、夜の中で長衣を揺らし、戦場を見下ろしている。

 ワッツは自分の心臓の鼓動が全身を揺らすのを、駆ける騎馬の上でさえ感じた。


「あれ、は――」


 あの男だ。

 昼間に見た。

 海上を渡って来た、あの男(・・・)――


「――海……」

「中将!」


 声に打たれ顔を戻した時、目の前を槍が掠めた。槍を握った西海兵を斬り伏せ、少将クランが馬を寄せる。


「お気を付けを―― ! 何かございましたか」

「……いや、助かったぜ」


 ワッツは礼を言い、だが西海兵が当たり前の攻撃をしてきた事に安堵さえしながら、また街門の上を見た。影は動く様子も無く、風に服の裾を靡かせている。

 身体の奥底から這い上がる感覚を、ワッツはぐっと奥歯を噛み締めてすり潰した。


「今はいい。全軍に撤退の指示を出せ。エンデを目指す」


 ボードヴィルに入ろうという気は、一切無かった。

 クランはワッツの指示をどう思ったのか、ただ異議を唱える事無く血の気の失せた顔で頷き、撤退の合図の笛を鳴らした。






 撤退の笛が鳴り響く。

 辺りは俄かに慌ただしさを増し、まだ馬上にいた兵士は騎馬を失った兵士を鞍の上に引き上げ、あるいは徒歩のままサランセラムの丘を目指して後退を始めた。

 そんな中で一人、まだ十台半ばの少年兵がふと正面を見上げ、そのまま立ち尽くした。


 正面にはボードヴィルの街門があり、そこにいた兵士達は撤退したのか人影は無く、篝火だけが残されていた。ナジャルが倒れるまでは、確かにそうだった。

 その街門の上に、誰かが立っている。

 背が高く、威厳を纏った男だ。


「……あれは……」


 深い安堵がじわりと湧き上がり、身を包んだ。

 助かった、という思いがたった今まで打ちのめされていたナジャルへの恐怖を拭い去り、それから街門の上の姿をよく見ようと、少年兵は目を凝らした。


「――おい! アッシェ!」


 不意に肩を掴まれて思い切り引かれアッシェが顔を上げると、彼等の班長ドルトが血飛沫を浴びた姿で怒鳴っていた。


「アッシェ! ボケっとするな! 撤退だ!」

「ドルト班長……あの」


 ドルトがアッシェの腕を掴んで強引に引っ張り、駈け出す。半ば引きずられて走りながら、アッシェは街門を振り返った。

 街門の上に立つ人影は、長衣の裾を吹き抜ける風に靡かせ、悠然と戦場を見下ろしている。

 足を止めかけるアッシェをドルトが振り返り、声を荒げる。


「早くしろ!」

「け、けど、班長、あそこに――」


 だから、もう逃げなくていいのではないか、と。

 指差そうとしたがドルトは既にアッシェの腕を放していて、前方に蹲っている兵士へと駆け寄って行くところだった。戦場を離れようとする仲間や騎馬に揉まれ、流されながら、アッシェは何度も男の立っていた街門を振り返った。

 街門はだいぶ遠くなり夜の闇に紛れて、目を凝らしても良く見分けられない。

 ただ、見間違いでは無かったはずだ。

 アッシェは――ここにいる第七大隊の兵士全員が、この朝に、威風堂々たるその姿を目にしたのだから。



 一里の控えで。



 彼等の前に、確かに立っていた、その姿を――









「倒れた―― !」

「ナジャルが倒れたぞ!」


 固唾を飲んで見守っていた兵士達の間から今日何度目かの歓声が上がった時、イリヤは遠く街の上に浮かぶルシファーの後ろ姿を見ていた。

 自分が確実に絡め取られて行く事だけが、明確に理解できる。


(――ラナエ)


 スクード達にラナエの救出を託した事に、今さら、意味はあるのだろうか。


「殿下……イリヤ」


 イリヤにだけ届く声で、ヴィルトールが呼び戻す。イリヤはヴィルトールの目を見た。


「――大丈夫、です」


 自分の意志を投げ出す訳にはいかない。

 歓声は絶えず響いている。

 ひどい身体の重さを感じながら息を吐き、街壁から目を放しかけた時、一つの影がイリヤの視線を捕らえた。

 遠目にも関わらず、それは何故かイリヤの目に明確に映った。


 街門の上に立つ――男のようだ。

 長身に、長い上衣の裾を揺らしている。

 どくりと、鼓動が鳴った。


「……ち、」


 口を突きかけた言葉を飲み込む。

 まさか、そんなはずはない。

 そうであるはずがないと――イリヤは自分でも理解できないまま、浮かんだ考えを否定していた。


「イリヤ?」

「……あそこに……」


 瞬きをし、もう一度良く確かめようと目を凝らした時には、男の姿は消えていた。









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