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第1章「暗夜」(17)

 悲鳴、苦鳴、喚き声、怒声、騎馬の(いなな)き。剣と剣、剣と盾が打ち合い擦れる高い金属音。肉を突き、断つ鈍い響き。

 そんなある意味当たり前のもので満ちていた戦場は、今や完全に音を無くし静まり返っていた。


 ゆらりと。

 鎌首をもたげた長大な躯が揺れる。


「来るぞ――」


 ボードヴィルの砦城を越え、弧を描いて伸びて来る。

 一抱えもある光球の如き双眼、月光を弾く鱗はぬらりと濡れている。閉じられていた顎が緩く開き、四つの牙と奈落のような口蓋が覗く。


 このまま、あの奈落に呑まれるのだという、頭の芯が痺れたようなその考えだけが、戦場に立つ者達の間にあった。

 どこか現実味が無い。

 ワッツは戦場の中ほどに騎馬を立てたまま、迫りくる大蛇の姿を見つめていた。


(蛇かよ、あれが――)


 一瞬、どういう訳か込み上げた笑いを喉の奥に飲み込む。

 黒竜の時と状況が似ている。だが既にあの状況を打破したウィンスターは無く、そして今ここには炎帝公も――剣士もいない。

 今更ながらにウィンスターが、どれほど重い責務を背負っていたのか思い知らされたが、それを嘆いている時間はなかった。


 絶望的な状況で唯一理解しているのは、ワッツが先導しなければ、この戦場は全滅するという事だった。それは火を見るよりも明らかだ。

 ワッツは煩い鼓動を抑え、声を張り上げた。


「サランセラムへ退く! そのまま第六の軍都(エンデ)を目指せ!」


 ワッツは鞍の上で背を伸ばしあらん限りの声を張り上げ、掲げた剣で東を指した。だが兵士達はワッツの言葉も聞こえていないかのように、一様に迫り来る蛇をただ見つめている。


「くそッ」


 騎馬に拍車をかけ手綱を引き、同じ事を繰り返そうとした時、震えるような悲鳴が上がった。

 視線を転じた先――、今やその朱が夜目にも判る程に迫った顎が、あたかも水面に沈むように、兵士達の群れへ、降りる。

 戦場は一気に乱れた。

 正規軍も、西海の兵も区別無い。


 ナジャルの顎が悲鳴を飲み込む。噛みちぎられた手足が血飛沫と共に落下する。

 息を呑むワッツの耳に、混乱し恐怖に満ちた兵士達の声が入り混じって飛び込む。


「何だ――何なんだこれ」

「何が起こってるんだ」

「く、喰われて……ッ」


 馬の嘶き、断末魔の苦鳴。

 銀色の巨大な蛇が身をくねらせる跡には、直前まで人だった欠片が残る。

 自分達の常識とは全く違う。

 ここは戦場ですら無い。

 そしてあれは、喰らう為だけの蹂躙だ。

 だがここにいる全てを喰らったとしても、あの長大な蛇の腹が満たされるとは到底思えなかった。


「助けてくれ」

「嫌だ、喰われんのは」


 ワッツは動けなかった。

 自分が息をする生物である事すら忘れていた。

 騎馬の脚を持って行かれた兵士が、草地の上に投げ出される。

 兵士と目が合った。つい先日、食堂で言葉を交わした若い兵士だ。


「中将―― !」


 兵士の喉から掠れた声が絞り出される。

 震える手がワッツへと伸ばされた。


「た、助けてください……! 中」


 呼吸が――、戻った。


「ッ……!」


 剣の柄を握る手に力が篭った瞬間、ばくりという重い音と共に兵士の姿が消えた。銀色の顎がワッツの目前を奔る。

 喉の奥から吼え、目と鼻の先を(よぎ)る長い銀の胴へと、ワッツは渾身の力を込めて剣を振り下ろした。

 剣は鉄か壁にでもぶつけたかのように砕けた。疾駆する胴に触れ、ワッツの巨体が馬上から弾き飛ばされる。草むらの中に(したた)か肩を打ち付けた。


「――ッ」


 起き上がろうと地面についた手が、生暖かい感触に濡れる。ワッツの周囲には血と、兵士達の身体の一部がばら撒かれていた。

 怒りと自分の不甲斐なさが熱と共に頭の奥でごちゃ混ぜになった。


「中将ッ!」


 駆け寄ろうとした部下に腕を振る。


「退け!!」


 目の端にボードヴィルの街壁が映った。だがそこに駆け込むまでにどれほどの兵があの蛇の腹に入るのか。

 銀色の躯が街壁との間をくねる。恐怖の悲鳴は途切れる事がなかった。

 それでも兵士達は、銀色の蛇に魅入られ、動きを止めてしまっている。


「――退け、退け、退け! 何でもいいから退け!」


 全滅する――、と。

 もう一度その考えが頭に浮かんだが、この状況では当然だという思いの次が浮かばなかった。









 外壁の向こうから絶望の悲鳴が狭い街を抜け、身を切る刃に似てボードヴィル砦城内にも響いてくる。

 両脚が震え、恐ろしさに肩を呼吸で揺らしながらも、イリヤは城壁の上へと登った。

 サランセラムの丘へ続く平地がやや明るい。

 そこから響く悲鳴――


「ミオスティリヤ殿下……!」


 城壁を駆け寄ったのはヒースウッドだ。全身で息を切らし、篝火の中でも髭を蓄えた面は蒼ざめている。

 イリヤが問う前に、引き攣るように言葉を押し出した。


「ナ――ナジャルが……!」

「ナジャル――?」


 シメノスから巨大な蛇が現れたのだと、つい先程兵士からそう聞いた。

 ナジャルの名はイリヤも知っていた。

 西海の三の鉾の一人。古の海の王。

 その姿は大海蛇を(かたど)るという。


「帰投した左右軍が西海軍に仕掛けた、直後に現れ――兵達を、く……喰っており」

「――」


 喰っている。

 戦場から湧き上がる悲鳴と裏腹の、奇妙な静けさの意味を、イリヤは漠然と考えていた。


「殿下……ッ、わ、我々は何も、術がなく……ッ」


 ヒースウッドは噛み締めた歯の隙間から押し出し、憤りと悔しさに拳を震わせた。

 イリヤには憤りよりも無力感が大きい。

 一体何をすればいいのだろう。


「――彼等を、退かせなくちゃ……安全な場所まで……ボードヴィルに」


 ヒースウッドが首を振る。


「ナジャルが遮っており、ボードヴィルへは」


 ボードヴィルへ入る事は叶わないのだ、と、ヒースウッドの言葉を耳にしながら、イリヤは蒼ざめた面を離れた街壁の向こうへ向けた。


「――」

「討って……」


 ヒースウッドが掠れた声を振り絞る。


「こうなれば、我等から討って出ましょう、殿下! 仲間が死んでいくのをただ見過ごすなど、耐え難い苦痛です! たとえ勝利は無くとも―― !」


 ヒースウッドは叫んだが、イリヤにもそれは無意味だと判っていた。ここにいる全ての兵があの戦場へと討ち出ても、為す術なくただ喰われるだけだ。

 ヒースウッドの背後の兵士達の面には恐怖が張り付いている。彼等がその命令を喜んで受け入れるとは思えない。

 もし、この状況下において選択すべき正しい方策が兵を出す事だったとしても、イリヤにはそれを選ベなかった。

 だが悲鳴は尽きず聞こえてくる。悲鳴が聞こえなくなったら、それは食い尽くされたという事だろう。


「殿下、どうか、御下命を」

「……だ、駄目だ」


 自らの手を見つめる。ここに宿る力程度で、あの大海魔を討ち倒せる訳がない。イリヤには何もできない。


「殿下―― ! ここにいてもいずれ喰われるだけであれば、今、仲間達を救いに動く事こそ最後の誉れと」

「駄目だ」


 イリヤは首を振った。

 死にに行けなどと言えない。

 けれどあの戦場にいる人々に、ただ死ねとも言えない。


「殿下、何とぞ……!」

「ヒースウッド中将、よせ。その判断を他者に求めるのは酷だ」


 それまで黙っていたヴィルトールが、イリヤとヒースウッドとの間に身体を入れる。ヒースウッドは(まなじり)を吊り上げた。見開かれた両眼にあるのは希望などでは無い。


「何を言う、ヴィルトール中将! 殿下の御言葉があればこそ―― ! なればこそ我等は死地に赴けるのだ!」

「それが酷だと言っているんだ」

「今為さなければ――いいや! 今為さなくとも、次には我等は死ぬ! 奴が我等を見逃す事はあり得ないのだ! どちらでも結果が変わらないのならば、名誉ある死を私は望む!」

「ヒースウッド!」


 ヒースウッドはヴィルトールを押し退け、イリヤの前に両膝をついた。顔は強張り、双眸は限界まで見開かれている。そこにはありありと恐怖が張り付いている。


「殿下、どうか――私は、先ほど戦場を見ました。あれは、あれは――」


 その脳裏に何を浮かべたのか、綴る言葉を失い、ヒースウッドは冷たい石の上に身を伏した。


「……どうか――!」


 イリヤは肩で息をし、首を振りながら一歩後退った。


「――無理、だ」

「殿下! どうかご決断を!」

「……俺、には、できな……」


 ふわりと、この場には場違いな芳しい風が、イリヤの肌を撫ぜた。

 やわらかな声が耳をくすぐる。


「私に御命令ください、ミオスティリヤ殿下」


 呼吸を飲み込み、強張った身体を無理やり、振り向かせる。

 彼等の背後に、ルシファーが伏せていた。


「ルシファー様!」


 希望を思い出したかのようにヒースウッドの声が弾む。周囲の兵士達も一様に、安堵と希望で張り詰めていた顔を輝かせている。

 ルシファーは美しい面を緩やかに上げ、暁の瞳をイリヤに当てた。


「私が唯一、ナジャルに対抗できましょう」

「――」


貴方様が(・・・・)御下命を(・・・・)――ミオスティリヤ(・・・・・・・)殿下(・・)。殿下の御下命なくば、勝手な振る舞いはできません。ここでは殿下のみが、私を動かし得るのです」


 ヴィルトールは内心に湧き上がる憤りを堪えた。

 兵士達の前でイリヤがルシファーに下命する。

 王子として。


 それはイリヤ自身が全軍に、自らの血統と地位を宣言する事に他ならない。

 それこそが、ルシファーの思惑だろう。

 だが、ルシファーの言う通り、ナジャルに対抗する術は今ここにルシファーしか有り得ない。


 ヴィルトールはイリヤを見た。

 悲鳴が聞こえている。

 風に乗り、一瞬大きくイリヤ達を包んだ。


 ヴィルトールは目を伏せた。


「――ナジャルを……」


 イリヤの身体が揺れる。


「ルシファー、に、命じる――」


 ルシファーは身を伏せ、イリヤの命を待った。

 口元に薄っすらと笑みを刷く。


「ナジャルを、……討て」


 二人を取り巻く兵士達が安堵と歓喜の声を上げる。

 ルシファーは一礼し、ふわりと浮かび上がった。


「ミオスティリヤ殿下の御意志のままに」







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