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第1章「暗夜」(15)

 夜空を薄く覆う雲の向こうで、赤味を帯びた月が次第に傾いて行く。

 ワッツは鎧が音を立てないよう、サランセラムの丘に落ちる夜の影の中で静かに騎馬を進めた。

 彼の周囲を兵士達もまた、同じように馬上に身を屈め、騎馬の嘶きを抑えながら短い草の上を進む。


 ボードヴィルを囲む西海軍の兵列は、まるでそこに一夜にして湖を作り出したかのように広がり、暗い夜の中に銀色の表面を見せ凪いでいた。


(泥地化はしてねぇ――供給源(シメノス)があるからか)


 斥候の報告でも、一里の控えを沈めた泥はボードヴィル周辺には確認されていない。

 ワッツ達は西海軍へ、夜襲を掛けようとしていた。


 ボードヴィルの街と砦城は大河シメノスの流れを背に、前面をゆるやかな丘陵に囲まれて聳えている。現在西海軍が陣取っている街壁の前は最後の丘を下ると、束の間の平地になっていた。

 ワッツが率いる左軍中隊が正面から丘を進軍して行く。

 エメルの右軍半数と第六大隊の中軍、第六大隊左軍がそれぞれ砦正面の丘陵を回り込み、まずは強襲によって西海軍をシメノスまで追い落とす作戦だった。


(風がねぇな)


 音を立てないよう草地を進む兵士達の緊張が、ワッツの身にも纏いつくようだ。

 冷えているはずの夜気の中で、こめかみから頬を伝い、汗が滴り落ちる。

 西海軍は赤い月の光の中で静まり返り、半透明の使隷の群れに射す光が、ただそこに湖があるだけのように見せていた。


(――)


 ワッツは眉をしかめた。

 ワッツの第一陣はボードヴィル街壁前に至る、最後の丘の頂きに差し掛かろうとしている。そこを超えれば、丘を駆け下り、その先に広がる西海軍の陣へ突進するのみだ。


 右目の端に指す光を捉え、ワッツは顔を向けた。

 彼等の右側から隊を進めていた右軍と第六大隊中軍の準備が整った合図だ。

 チカ、と同じように、左の丘からも合図の光が閃く。


「中将」


 ワッツは息を吸い、ゆっくりと吐いた。


「――合図を送れ」


 伝令兵が手にした鏡に、空の月の光を捉える。

 息を吐き、吸い、吐く――

 月が、雲に隠れた。


 ワッツは大きく肺を膨らませた。


「――西海の兵共を、シメノスへ落とせ!」


 応える千の声、一斉に剣を鞘走らせる音が響き、軍馬が高く嘶きを上げる。


 騎馬の前脚を躍らせ、ワッツは右手の剣を振り上げ、斜面を駆け下った。


 矢が放たれる音が夜を切り、前方に広がる西海軍の前面へと降り注ぐ。

 凪いでいた西海軍から俄かに混乱の叫びが湧き上がる。

 そこへ方形の陣形を取った騎馬の一団が雪崩のように打ち掛かった。


 使隷の造り上げた偽りの湖が歪み、決壊し、左右に溢れ出す。

 その鈍い銀色の河へ、両側の丘から雪崩を打った左右軍が突進した。


「一息に切り裂け!」


 ワッツは手近な使隷を斬り崩し、騎馬の速度を上げた。

 ワッツの騎馬を先頭に、第七大隊左軍の陣が台形に使隷の群れを蹴散らし、その奥に陣取る『本隊』へと突進する。


 西海軍の槍や矛が月の光を弾き、迫り来る騎馬を迎え撃とうと一斉に倒される。

 後衛から放たれた矢が西海軍前面の兵に降り注ぐ。


 西海軍の士官らしき兵が、騎馬に跨って進み出る。後足が魚の尾のそれは、馬ではなく、海馬か。

 ワッツは左手で背にしていた投槍を引き抜き、馬上で半身を捻り、腕を振り抜いた。

 投槍は真っ直ぐ空を切り海馬の胴に突き立った。


「ッてぇ、くそ」


 ずきりと痛む胸部に頬を歪めつつ、ワッツは右手の剣を握り直し士官兵目掛けて突進した。

 剣が士官兵の胴を薙ぐ。そのまま倒れる士官の脇を駆け抜け、西海兵が繰り出す槍を弾く。

 ワッツに続いた兵達も各々の剣や槍を振るい、西海軍の陣営に押し入って行く。


「ワッツ中将! ボードヴィルが……!」


 兵の声に視線を上げる。ワッツの目も、兵が叫んだものを捉えた。

 ボードヴィルの街壁の上に、新しい篝火が揺れ始めている。サランセラムの動きに気付いたのだ。


「どう動く――」


 脇腹を突こうとする槍を剣で叩き折り、左から斬りかかる兵を盾で払う。西海の兵は脆かった。

 芯がない感覚――地上だからか。

 それとも一度ボードヴィルを攻めた時の疲労からか。


 だが使隷を含めた西海軍の母数はワッツ等よりも確実に多く、左軍の突進の勢いは既に落ちていた。

 それも想定の内で、元から簡単に行くとは思ってはいない。

 後は踏み(とど)まり、西海軍をシメノスまで押し出す。

 それだけだ。


「踏み込め! 周りは囲んだ! こいつ等はシメノスにしか行けねぇ!」


 あたかも振り下ろしたワッツの剣に応えるかのように、ボードヴィルから一斉に声が沸き起こった。

 見上げた先、街壁の上に、ずらりと兵士達の影がある。


「――」


 一瞬、ワッツは息を詰めた。


「撃て! 味方に当てるなよ!」


 閉ざされた街門の上、中央に立つ男からの号令と共に、弦が鋭く空気を打つ音が響き、矢羽が夜を切り裂いた。

 西海軍の兵を次々と倒して行く。


(ヒースウッド)


 あれはヒースウッドだ。

 ボードヴィルは動いた(・・・)

 掲げる旗の意図はさておき――だ。

 ワッツの鞍を槍の穂先が掠める。


(考えてる場合じゃねぇ)


 このまま西海軍を追い落とし、ボードヴィル砦内に入るかどうか、その時点でいい。

 今はこれで、西海軍を退かせる事ができる。

 ボードヴィルからの援軍を得て、攻めていた兵士達の圧力が増した。突進した時よりも更に、西海軍を蹴散らし、踏み入り、追い込む。


「押せ――!」



 不意に――



 全身を、ざらついた手が撫でるような感覚を覚えた。

 不快で、無慈悲な。

 騎馬が怯えた高い嘶きを上げる。


「――なん」


 戦いの最中だというのに、ワッツの背筋や首にどっと冷や汗が噴き出した。

 この感覚は、今初めてではない。


(どこで――)


 ごく最近だ。

 最近と言うよりも――もっと。

 丘を揺るがすほどの喧騒と、次いで兵の掠れた声が聞こえた。


「ちゅ、中将――!」


 顔を巡らせたワッツの前で、その兵は目の前の戦場ではなく、呆然とした顔で空を見ていた。

 空――ボードヴィルの街壁。

 いや、更にその向こうだ。


 同様に兵士達が――西海兵もまた、振るっていた剣を止め、動きを止めて行く。

 彼等の視線の先、ボードヴィルの最も高い尖塔の傍に、黒々とした影が伸びていた。


「……増幅器――じゃ、ねぇ……」


 塔の影に似た、けれど塔よりも高く、巨大な影だ。

 そしてそれは、緩やかに体躯(・・)を揺らしていた。


 強い風が吹き、一時期雲に隠れていた月が、光を投げる。

 月の光は影を、銀色に輝かせた。

 悲鳴を堪えたような呻き声があちこちで上がる。

 ワッツはかつて、巨大な黒竜を目の当たりにした時の事を、思い出していた。その恐怖も。


 それは蛇の姿をしていた。


 恐らくシメノスからもたげているであろう、巨大な、長い、銀色の(からだ)が、夜の中にゆっくりと揺れている。

 暗く血のように朱い双眸が、遥か眼下の戦場に向けられていた。

 それは途方もなく巨大な、蛇の姿だった。


「……ナジャル――」


 誰とも知れない掠れた呟きが、凍り付いていた戦場に落ちる。

 それが恐怖を表わす名であるかのように――


 今あの空に在るのは、長大な蛇の形を取った、死だ。


 凍り付いた視線の見守る前で、巨大な蛇は塔に身を寄せると、緩慢な動作でそれに巻き付いた。

 石壁の軋む音が、ワッツの耳にまで届く。

 塔は呆気なく砕け、銀の鱗の上を滑り落下した。

 付近の城壁に居たであろう兵士達の叫びが、静まり返った夜の中を鈍く届く。


 蛇は、びっしりと並んだ鱗に紅い月の光を弾きながら、西海軍と正規軍とが未だ凍り付く戦場へと、ゆっくり――ゆっくりと首を伸ばして、


 来る。




 寄せる潮に似た混乱が、戦場を覆い始めた。

















 風が湿原を渡って行く。

 葦が穏やかに、寄せる波の音を立てて風にそよぐ。

 夜の闇に染まった水面(みなも)は、射干玉(ぬばたま)に光るその面を、まるでどろりとした重い塊のように揺らした。


 王都から千六百里を遠く隔てたハイドランジア湖沼群では、広がる大小様々な池や湖、湿原に、欠け始めた十八日目の月が、澄んだ銀色の光を投げている。

 風は幼な子をそっと起こすように吹いた。

 鏡のように凪いでいた湖面を撫でる。





 泡が一つ。





 ゆっくりと



 深い水の底から、揺らめきながら沸き起こった。



 湖の中央、輝く水面に浮かび上がり、風に触れて弾け、微かな波紋を広げる。




 もう一つ。

 ぱちんと弾け、生まれた新しい多重円が初めの波紋を追う。



 すぐに泡は次々と浮かんでは弾けて水面を揺らし、やがてさざ波は、風の作り出したそれと混じり、湖面全体を揺らし始めた。

 遠く離れた岸辺を叩く。

 風が吹き、広がる葦と湿原を囲む木立を揺さぶる。


 それまで弾けていた泡に代わって、暗い水面が、ぐうっと(・・・・)盛り上がった(・・・・・・)


 水面が割れる。

 銀の光を浴び、長い首が水を纏わせながら、夜の中に高く持ち上がる。

 竜の首だ。


 永い間畳まれていた翼が、石を擦る音を立て広がる。

 広い湖を池と見紛わせるほどの、巨大な竜。


 だが、その全身、白い骸(・・・)だった。

 鱗も皮も肉も無い。

 長い時の間水底に晒され、所々に苔を纏わせた、巨大な白い、竜の骸だ。


 かつて三百年の昔に、この地ををその(あぎと)から吐き出す風で引き裂き、破壊を齎し、そして一人の剣士によって湖に身を沈めた、風竜――




 風が強く吹き抜け、骸をあたかも銀の楽器のごとく鳴らす。

 風を受け、風竜は喜びにか、それとも三百年触れる事のなかった大気の冷たさにか、骸の全身を震わせた。

 大気に漂う言葉を聞くように、空洞の耳を傾ける。






      『哀れなことだ――』






 風が、唄う。

 人の身では聞き取り難いそれは、木立を抜ける風が奏でる音色に似ていた。



『幼子よ――三百年、嘆きの色は変わらぬのか』



 哀れなことだ、と。



 長く連なる白い骨を軋らせ、風竜は自らの足元の湖面を名残惜しそうに眺めた。

 望み、望み、望んでようやく得た、死という眠り。

 それを与えてくれた剣を想う。



『せっかくお前が私に眠りをくれた想いを、無駄にしてしまうが』



 またもう一度、今度は骨すらも残さず、あの剣が自分を砕いてくれればいい。



 哀れなことだ、と――風が呟く。



 皮膜の無い翼が広がる。


 骨組みの翼が、風を孕んだ。










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