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第1章「暗夜」(14)

 目の前の男は荒れ狂い、その感情の爆発のままに目に付くものを手当たり次第床の上に撒き散らした。


「父上は、何を考えておいでなのだ!」


 書棚から書物が床の上に落ちる。

 肩は荒い息に波打ち、時折堪えかねたようにぶるぶると震えた。


「私を、長子を廃嫡するなどと――馬鹿げているッ! そんな、そんな馬鹿げた話があるかッ!」


 三段目の棚から書物が崩れ落ち、トゥレスはヘルムフリートの靴底に踏みしだかれた革の背表紙を読んだ。取り立てて意味のない、内政官房の一部署の議事を綴ったものだ。


(ここに高価な代物が無くて幸いだな)


 もっともヘルムフリートが館に戻ったら、それなりの被害が出るかもしれないが。


(それなりの、ね)


 トゥレスは視線を上げた。


「わ、私は王から、ヴェルナー侯爵家の嫡子であると認められているんだぞ!」

「その通りです。正統な継承者はヘルムフリート殿、貴方だ。それは誰の目にも確かでしょう」

「現当主といえど! 陛下の決定を覆す事など、ゆる、許される訳がない……ッ!」


 崩壊に近付ける言葉を、トゥレスは持っていた。


「陛下はおそらく、お亡くなりに」


 ヘルムフリートの瞳が、色を失ってトゥレスを凝視する。

 引き攣るような呼吸を繰り返し、ようやく掠れた声を絞り出した。


「――なん、だと……」


 ヘルムフリートを繋ぎ止めている唯一の自負が、崩れていくのが手に取るように判った。

 顔がみるみる青ざめ、瞳がトゥレスを中心にあちこちに泳ぐ。


「ふ――、ふ、不敬な……! 貴様は、く、口にして良い事と、そうでない事を」

「御父上もそう考えておいでです」

「――」

「この国の中枢にいる誰もが――それこそ、口には出さないだけで。貴方は王の安否に一切触れられない先刻の布告を、奇妙だと思われませんでしたか」


 ヘルムフリートが喘ぐ。


「陛下――陛下が……ち、父上は……だとしたら、父上は」


 それほど重大な事でさえ、自分に伝えようとしないのか、と口元を震わせ、ヘルムフリートは足元に落ちた書物を睨んだ。


「……だ、だが、そんな簡単に、嫡子が変えられる訳が」


 縋るように口にしたそこへ、トゥレスは更に火を投じた。


「そう。ですからより直接的な手段を取るかもしれませんね」

「どういう意味だ」

「嫡子という存在を消す――要は貴方の命を奪えばいいのです」


 ヘルムフリート自身が一度、計画したように。


「廃嫡云々と手を煩わせる必要はありません。貴方もつい最近までそれを有効だと考えていたはずですよ、ヘルムフリート殿」

「……ふざけた事を……」


 握った拳を震わせる。

 トゥレスはがらりと口調を変えた。


「貴方は剣をお持ちですか」


 ヘルムフリートが意表を突かれた様子でトゥレスを睨む。


「剣? 剣など持っていない。そんなもの何の必要が」


 トゥレスは自分の剣帯から鞘ごと剣を外し、ヘルムフリートへと差し出した。


「では、この剣をお持ちください。今は何があるか判りません。護衛の代わりです」


 トゥレスが差し出した剣を、ヘルムフリートは束の間見つめた。


「こんな師団支給の剣だけではご不安でしょう、密かに護衛も付けさせていただきます。しかしながら咄嗟の際には役に立つはずです」


 自分に向けられるトゥレスの眼差しを疑うように睨み――、その双眸に、ややあってじわりと昏い光を滲ませた。

 長衣に包まれた肩が大きく上下する。


 ヘルムフリートは落ち着かない指先で、トゥレスの差し出した剣の鞘を掴んだ。











 人気のない部屋を横切って重厚な扉の前に立ち、ロットバルトは軽く曲げた指の背で扉を叩いた。

 極力抑えたその響きだけで扉は音を立てず開き、中にいたハンプトンが顔を覗かせる。

 軽く頭を伏せ、前室にいたロットバルトを招き入れる。寝室の床へ四角く差し込んだ薄灯りは、すぐに細くなり遮られた。


 広い部屋の奥に設えられた寝台には、高い天蓋から薄い布が幾重にも覆うように流れ落ちている。

ファルシオンが眠っているはずだが、その向こうは室内の灯りが抑えられているために扉の位置からは窺えなかった。

 寝台の傍に座っていたレオアリスが顔を上げる。


 右奥の壁際に置かれた時計の針は、もう十一刻を過ぎていた。九刻頃になって王妃とエアリディアルがこの館を訪れ、王妃の腕の中に抱きしめられたファルシオンは、声を上げて泣いた。

 頼りなく泣きじゃくっていたその姿はまだ幼い、本当に幼い子供なのだと、改めて思い知らされる。


 本当は誰もがそれを当然判っているが、状況がファルシオンに求めるものはそこに目隠しをする。

 王妃はファルシオンが寝付くまでずっと寝台の傍に座っていたが、少し前にファルシオンが疲れ切って眠ってからは、この館の別室へと移ったところだった。


 レオアリスが前に来るのを待って、ロットバルトは口を開いた。


「正規軍から情報が入りました。深夜、ワッツ中将の西方第七大隊及び第六大隊が、ボードヴィルを囲む西海軍へ攻撃を仕掛けるとの事です」

「西方軍が――」


 レオアリスは顔を上げ、その面を月の光に輝く窓辺へと向けた。下ろしていた手が一度握り込まれ、緩む。


「目標は」

「まずはボードヴィルから西海軍を退かせる事を作戦の第一としています。それも簡単ではないでしょう」

「――」


 ボードヴィルを囲んでいる西海軍はおよそ四千と聞いている。それに対しワッツ等の西方軍は三千名強。

 また、『勿忘草(ミオスティリヤ)』の王太子旗を掲げた、ボードヴィルの存在と、反応。

 懸念材料は多い。


「ボードヴィルについては、今後の情報を待つしかありません。それから老公はまだ、王妃殿下と話をされています。すぐに結論と言う訳にはいかないでしょうが、明日、遅くとも明後日には明確な判断が求められるでしょう」

「……そうか」


 これからの方針について、既にファルシオンの名を以って決められたものではあるが、王妃の意見と支えは不可欠だ。

 レオアリスの視線が天蓋から流れる薄い布の向こうに、幼い姿を透かし見る。


「殿下の御様子は?」


 ロットバルトの問いかけに対し、レオアリスは一瞬、ロットバルトの姿を探したように見えた。

 すぐに視線は、何事もなく正面にいるロットバルトの上に置かれた。


「良く眠っておいでだ」


 レオアリスの肩越しにファルシオンの眠る寝台を見て、ロットバルトは腕を組んだ。


「貴方も眠った方がいい」


 扉の脇に控えているハンプトンを振り返る。ハンプトンが頷き、隣室へと出ていく。


「俺は大丈夫だ、まだ」

「眠れる時に眠っておくべきです」


 レオアリスはもう一度、ロットバルトを見た。


「眠れる時に、か。……まるで――」


 途中で口を閉ざし、視線を逸らす。

 灯りを落とした室内では、瞳に現われる表情は隠される。


「いつも俺はお前と、こんな夜に、こんな話をしてるような気がするな」

「――」

「仕方がないか」


 やや俯いたまま、口元は微かな笑みの形に動いた。そのまま寝台の左手にある広い硝子戸へと足を向ける。


「少し、外の空気を吸ってくる。すぐ戻る」


 一度、硝子戸の前で立ち止まる。

 硝子戸の硬く艶やかな表面へ手を当てる。微かに硝子が震える音を立てた。


「でも大抵、何とかなったよな――?」


 応える言葉を探す前に、まるでそれを聞く事を避けるように、レオアリスは硝子戸を薄く開き外へ出た。







 レオアリスは寝室の露台から、白い階段の続く庭園に降りた。

 月の光に輝く庭園は、緑の色が濃く、夜の中で深い陰影を纏って美しい。

 青々とした芝は足音を吸い取り、軍服の背に纏う長布も一足ごとに夜に揺れつつ、音を立てなかった。


 静かな夜だ。

 静かで平穏に、見える。


 王妃達が北の館に戻らなかった事に、レオアリスもほっとしている。

 明日ファルシオンは、少しは安心して目覚められるだろうか。

 スランザールと大公ベール、そして王妃と王女エアリディアル。幼い王子を支える手は数多くあるはずだが、それでも不安定に揺れる小舟の上に立つような感覚は薄れなかった。

 たった一つのものがない――それだけで。


 世界はこんなにも、不安定だっただろうか。




 これほどに。




 レオアリスは立ち止まり、天空にかかる月を見上げた。

 欠け始めの月の光が煌々と降り注ぐ。

 自分の館にいるよりもずっと空に近いせいだろうか、月は目の奥を焼くように眩しかった。


 白い光に霞む瞳を戻す。

 眩暈がぐるりと世界を揺らす。


 自分がどこにいるのか、一瞬、判らなかった。



「――」


 白く揺らぐ世界の中で、まるで道標のように噴水が目に入り、レオアリスは少し先にあるそれへと芝を踏み、近付いた。

 噴水の周りには、芝に代わって淡い色彩の花崗岩が幾つもの円を描いて敷き詰められている。

 噴水には今は流れる水も無く、白亜の石は乾いていた。

 それは五ヶ月前、イリヤが侵入しファルシオンを攫った、媒体になったものだ。水はその時から止められていた。


 レオアリスは噴水の水の無い台座へ手を伸ばした。

 あの夜、この手は、ファルシオンに届かなかった。

 磨かれた石に触れかけた指が、不意に縮まる。


「……っ」


 奥歯を噛み締め、微かに震える手を鳩尾に当てる。


 痛い。


 呼吸を抑え、噛み締めた歯の間から吐き出す。




 痛い。



 痛い。



 眩暈が、世界を揺らす。


 レオアリスは顔を上げ、揺らぐ世界を見た。


 硝子細工のようだと思った。




「何で俺は、ここにいるんだ――」










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