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第1章「暗夜」(12)

 スランザールは肺の奥に溜まっていた息を、ゆっくりと吐いた。

 連なる窓の外を覗くと、傾いた太陽の光が僅かに残るのみで、夕闇の気配を漂わせている。

 こうして太陽が確かに移ろうのを見ても、午後から時はまるで止まっているように思えた。

 視線を硝子窓に映った自分へと戻す。外の景色とほとんど同化して、どんな表情を浮かべているのか判別はつかない。

(――東方公は二刻の協議の場ではあれほど、この体制に異を唱えていたはずじゃが)

 既にこの場から退出したベルゼビアの顔を思い浮かべ、スランザールは白い眉を微かに寄せた。

 先ほどの協議の中でベルゼビアが一言も発しなかったことが、胸の内に澱みを生んでいる。

 ベルゼビアはスランザールにとっても、どう動くか予想のつかない相手だった。二刻のやりとりで納得したとも思い難い。

 まだ卓の前にいて、タウゼンやヴェルナー、ゴドフリーと話をしているベールの横顔を見つめる。

 ベールもまた、敢えてベルゼビアに意思を問おうとはしなかった。

「――」

「スランザール殿」

 顔を向け、スランザールは厳しい面をして立つグランスレイを見た。ロットバルトも遅れて歩み寄る。

 ファルシオンは退出し、レオアリスも王子に伴って居城へ行っている。スランザールは思考を切り替えた。

「グランスレイ、ロットバルト。そなたらはレオアリスを良く支えよ」

 まずそう言うと、二人は厳しい面持ちのまま頷いた。

 今の協議の間、レオアリスの様子は一見、落ち着いて見えた。

 あの場を見ていない者にとっては、それほど違和感を覚えなかっただろう。

「わしは殿下のお傍に控える。グランスレイ、ロットバルトを借りたいが良いか」

「そのつもりです」

 グランスレイが目礼を向ける。

「また、殿下の居城の警護を厚くしたいと考えております」

「現警護は第二大隊じゃな」

 副総将ハリスとトゥレスを招こうとスランザールは片手を上げかけ――、その前に立ったロットバルトを見た。

「老公、この状況で次に何が起こるか想定しきれません。

万が一に備えて、できれば第一大隊から二班、別途殿下の周辺へ配置させていただきたいのですが」

「ふむ……それが良いじゃろう。だが本来の警護は第二大隊と王宮警護部じゃ。その件はわしからハリスへ言おう」

 今の状況で、第一大隊ばかりがファルシオンに近いのは問題もあるだろう。自分が言うのが波風は立ちにくいと、スランザールは頷いた。

 それからふと、ハリス達を呼ぶ前に、ロットバルトがそれを遮るように立った事が気になった。

「――ロットバルト」

 意図を確認しようと口を開いた時、翼が空気を叩く音が耳を捉えた。

 音を追った先、長い楕円の卓の上に、一羽の鷹が舞い降りる。

「これは」

 ウィンスターの――西方第七軍の伝令使だ。

 もしやウィンスターが、という期待は、形になる前に鷹の嘴から流れた別人の声に消えた。

『第七大隊左軍中将、ワッツです』

 それまで低く交わされていた会話が全て途切れる。

『危急の事態について、ご報告します』

 伝令使独特の、やや軋んだ声に、ぴんと室内の空気が張り詰めた。

『クヘン村の住民と共にボードヴィルへ到着しました。

ですが、ボードヴィルへの入城は困難です。何故なら』

 ルシファーによる何かしらの阻害がある、という状況を予想したスランザール達は、続くワッツの言葉に声を失った。

 ワッツは、ボードヴィル周辺を、西海軍が囲んでいる、と告げた。

「――」

 驚愕というよりは、どこか呆気にとられたような空気が、一旦議場に落ちた。

「西、海軍……」

 馬鹿な、と、誰か、ケストナー辺りか、声を荒げる。その声が再び議場を緊張の中に戻した。

「何故、一体いつボードヴィルに――」

『ボードヴィルは包囲に対し、街門を閉ざしています。それから』

 ワッツの声が途切れたのは、その事を告げるのを躊躇ったというよりも、彼自身の困惑を示しているようだった。

『内偵の情報だと、ボードヴィルは、王太子殿下を掲げたと宣言したようです。我々の位置からも』

「お――王太子殿下だと!? 何だそれは!」

 上擦った声を上げたのは南方将軍ケストナーだ。

 スランザールとベール、そしてロットバルト達は無言で卓の上の鷹を見据えた。

 鷹はこの場の混乱や驚愕を一切意に介さず、ただ託された言葉を綴り続ける。

『城壁に掲げられた王太子旗を確認できます。

ですが、ファルシオン殿下の御旗ではありません。内偵の情報では、旗の若草紋様は、忘れな草と』

勿忘草(ミオスティリヤ)――」

 スランザールの嗄れた呟きを聞き取り、トゥレスが鷹から瞳を上げる。

 双眸に光が揺らいだ。

「……スランザール殿、貴方はやはり、忘れな草の紋様にお心当たりがあるのですか」

「――」

 ケストナーやミラー達の目がスランザールへと集中する。タウゼン、ゴドフリーもまた、スランザールの言葉を待った。

 だがスランザールは答えを返さず、白い髭の奥で口を引き結んだまま、そこにこそ問題の核心があるというように、鷹の姿を見据えていた。

 ベールが卓に一歩寄り、手を伸ばして鷹に触れた。

「ワッツ中将、状況は把握した。対応を検討する。程なく第六大隊が合流する予定だ。今は動かず、状況と変化を逐一報告して欲しい」

 鷹は身を揺すり、空気に溶けるように姿を消した。

 振り返ったベールが、卓を挟んでスランザールの視線を捉える。

「ボードヴィルめ……本当に裏切ったのか!」

 怒りを吐き出すケストナーの横で、東方のミラーと北方のランドリーが厳しい面を見交わした。

「こうなると完全な翻意と考えて良いでしょうね」

「そう思える。だがそもそも何故、ファルシオン殿下のものではない王太子旗が、ボードヴィルに掲げられるのだ」

「ルシファーはボードヴィルに偽りと分かりきった王太子を掲げて、何をするつもりなのでしょうね――

あの地は西海へ向かってこそ意味を持っています。王都に対して偽りの旗を掲げても効果は薄いと思いますが」

 ボードヴィルを管轄するヴァン・グレッグは、一言も発さず奥歯を噛み締め、伝令使の消えた後の卓を見つめている。

「悠長に話をしている場合ではないぞ! これ以上ボードヴィルを野放しにしておく訳にはいかん。

ヴァン・グレッグよ、今すぐ、西方全軍を以ってしてでも、まずは内部を粛清しなければ、この先」

「スランザール。貴方は、知ってるの」

 ケストナーの激しい声を遮り、アスタロトが血の気のない面を上げる。

 将軍達は口を閉ざした。

「知ってるなら、教えてください。私はもう、同じ過ちを繰り返したくない」

 スランザールはアスタロトを見つめた。

 アスタロトの白い面は消耗の色が濃く、瞳の縁に陰を落としている。今ここに立っている事そのものが、限界に思えた。

 胸の奥に、重い塊が生まれる。

(わしができることが、何故こうも、少ないのか――)

 今最も苦しんでいるのは僅か五歳の幼いファルシオンであり、アスタロトであり、レオアリスだ。

(歳ばかりを重ねた)

「――そなたの過ちでは無い。それを言ったとしても収まらぬじゃろうが……」

(情けない話じゃ)

 王の相談役として、自分は何を成し得たのか。

「知ることは、責任を負うことでもある。

 知っていたとしても避けることが叶わぬものならば、責任だけを負うことになるのじゃ」

「私は、自分が負うべき責任を負う」

「公」

 タウゼンは案じるようにアスタロトを見たが、アスタロトはそのままじっとスランザールを見つめている。

「――」

 ベールの上の意思を見てから、スランザールは息と共に吐き出した。

「ミオスティリヤは――、十八年前、シーリィア第二王妃のお子の為に、陛下がお与えになった名じゃ」

 飛び出したシーリィアの名に衝撃を受けると共に、ゴドフリーやタウゼン達は無意識に視線を反らせた。

 直視していい名ではないという思いを、その反応が表しているようだ。

 ロットバルトの視線が、自分とベールの上をさり気なく過ぎる。その意味は言葉にならなくとも汲み取れた。

(先ほどの邂逅――あの場にいたのは、わしと、レオアリス、ロットバルト)

 そして、トゥレスだ。

 トゥレス以外はその事を、初めから知っていた。

 トゥレスはファルシオンとイリヤとの邂逅をどう考えているのか、スランザールへ向けた面からは読み取れない。

 だがファルシオンはイリヤを、「兄上」と呼んだ。

 はっきりと。

「それだけじゃ。そしてミオスティリヤ殿下は、お生まれになる前に、シーリィア妃殿下と共に亡くなられた。

今回ルシファーがその名を持ち出したのは、まあ有り得る手段じゃろう。余り驚くことでは無いな」

 伏されていた事実――伏し続けられるべき事実。

 そこを崩す事は、国として最早取り得ない選択だ。

 そして、陰を抱える者はもうこれ以上、増やしたくはなかった。

「我々が、ルシファーの思惑を認めることは、一切無い」

 スランザールはこれまでのどの時とも違う口調で、そう明言した。

 ファルシオンが悲しむ結果になるだろう。

 ルシファーがイリヤを連れ出した段階で、それは予測されていた事だった。

 それでも、事態がここに進む前に、ルシファーのもとからイリヤを救い出したかった。

 胸の奥の塊が、ぐっと重さを増していく。

 どれほど歳を重ねても、その重さに慣れる事はないのかと思った。

 ボードヴィルにいるだろうルシファーの、これまで長い時の間に幾度となく目にしてきた面を思い浮かべる。

 暁の瞳。

 形の無い風を追うように、この国に注がれていた。

(自身が疎んだものを、繰り返すだけであろうに)

 だからこその復讐か。

 窓の外は既に、薄い太陽の光も消え、べたりとした夕闇が張り付いていた。







 大通りに面した窓や扉の硝子を通して伝わる夕刻の賑わいが、明かりを灯した店の中も、どことなく楽しげな雰囲気で満たしていた。

 外はすっかり陽が暮れたが、硝子の向こうの通りはそれを感じさせない。

「ほら、父さん、今日はもうお店を閉めるから、奥で休んだらどう?」

 マリーンは帳場の向こうでくたびれた様子の父に、やや呆れた口調で声をかけた。

 五刻を過ぎた辺りから、気が付けばうつらうつらと舟を漕いでいる。

 とは言え昨夜から明け方まで商人仲間と飲み明かし、早朝にはマリーンに引っ張り出されて王の姿見式を見に行き、それからまだ祝祭気分の賑わいのお陰で引きも切らない客を相手にずっと商談をしていたのだから疲れていて無理はない。

「十日間なんだかずっと、色々詰め込み過ぎたけど、でも楽しかったし、商売も繁盛したし、いい祝祭だったわねぇ」

 うん、だか、むう、だか判らない返事をした父親の肩を軽く叩き、「ほらほら」とマリーンは奥への扉を指差した。

「すぐ夕飯にするから」

 デントがようやく立ち上がったのを見てから、マリーンは扉を開けて通りに出た。

 カランという心地良い鈴の音が通りの賑わいに紛れる。

 昨日までほどではないが、それでも通りには普段よりもずっと行き交う人が多い。

 祝祭の為に王都近郊、あるいはずっと遠方からやって来た人々で、それも明日になると自分の住む街や村へと帰っていくのだろう。

 ほんの少しだけ寂しさを残しつつも、王都はまた、いつも通りの賑わいに戻る。

 マリーンは人々の交わす声が、雑多に重なり合う賑やかさを見回した。

 通りの店や階上の家の窓から漂ってくる夕飯時の匂いに空腹をくすぐられながら、硝子戸の表に店仕舞いを示す小さな板を掛けた。

 うんと伸びをし、通りの建物に切り取られた空を見上げる。

 もう既に、西の空と地平との間に、やや淡い藤色の光を残すだけで、紺色の夜の帳が街の上を覆っている。

 緩やかに登って行く通りの先にはこの地区の時計台の尖った影と、その更にずっと向こうに、篝火に飾られた王城の一部が見えた。

 朝の王の姿見式で、ファルシオンの傍に居たレオアリスの姿を思い浮かべる。

(今日はずっと、もしかしたら明日までファルシオン様のお傍にいるのかしら)

 王が不可侵条約再締結の儀式を終えて、戻るまで。

 次に会ったら、王太子の護衛を務めた事をとても素晴らしいものだったと喜んで、それから少しだけ、王と共に西海へ行けなかった事を、残念だったわね、と言おう。

 そう思ってマリーンはまた通りへ顔を戻した。

 不意に、強い西風が通りの下から駆け上がるように吹き付けた。

「きゃ」

 あちこちで同じように声が上がり、誰かの帽子が通りを舞う。

 その風の思いがけない冷たさが体温を奪って行ったように感じて、マリーンは身体をぶるりと震わせ、それから西の空を見た。












「侯爵、ルスゥェント伯爵がお着きになりました」

 議場から内政官房に戻り、執務室で書面をしたためていたヴェルナー侯爵は、秘書官の言葉に顔を上げた。手にしていた筆を卓上の銀盆に戻す。

 書き途中の書面に視線を落とし、それを脇に避けた。

 秘書官が開けた扉から、ヴェルナー侯爵家長老会筆頭のルスウェント伯爵が入室し、彼等長老会が支える主へと面を伏せた。

 侯爵家長老会の筆頭としては幾分若い、五十代前半の伯爵だ。

 皺を刻み始めた整った容貌に、知性を思わせる細い瞳が印象的で、赤味がかった長髪を一つに纏めている。

「お呼びとお聞きしました」

 秘書官がルスウェントを長椅子へと案内し、ルスウェントが腰を掛けると、ヴェルナーは執務机の奥から視線を投げた。

「不可侵条約再締結については、どれほど聞いた?」

 王太子ファルシオンの名で発した声明以外に、王城内でどれほどの疑問が交わされているのか、それを探る目が投げ掛けられる。

 ルスウェントは慎重なそぶりで口を開いた。実際には、今この段階でルスウェントを呼んだ侯爵の本来の目的は、それでは無いだろうともルスウェントも想定している。

「西海が不可侵条約を破棄し、陛下の御身については未だ不明であること。

ボードヴィルに元西方公が潜み、正規軍西方第七大隊の半数を掌握したであろうこと」

 夕七刻に発した声明を、ルスウェントは一つ一つ復唱した。

「――殿下の声明には、驚きました。

 私がいた財政院の部署でも混乱があり、ゴドフリー卿が一通りの説明をなさいました。今は一旦落ち着いております。

 しかしながら、それ以上の情報や噂はございませんでした」

 ルスウェントはヴェルナーの眉根に漂った思念を窺い見た。

「それ以上の問題があると、お考えでございますか」

 侯爵の沈黙は、その問いに肯定を表している。

 ルスウェントは長椅子の上で居住まいを正した。

「昨日、ロットバルト様が当館を訪ねておいでになりました。前日に負傷されたばかりのそのような時期に――」

 負傷、と聞いてヴェルナーの眉根に不快を含んだ感情が滲んだが、口には出されなかった。

「西の所領に変わった動きはないかとの事でしたが、今回の事と関連していたのでしょうか」

「ボードヴィルとだ。近衛師団はルシファーと、ルシファーが利用しようとした者を追っていた」

「――」

 侯爵は、ルシファーが利用しようとした『者』と言った。

 それに気付いたルスウェントは、未だ公表されていない事実、事態が孕む闇の濃さを感じ取った。

 何が明らかになっていて、何が明らかになっていないのか。

 ルスウェントが慎重な眼差しを当主へと向ける。

 ヴェルナーは執務机の向こうで、ルスウェントの視線を捉えた。ボードヴィルが『王太子』を掲げた件、それはまだ伏されている。

「これからこの国は大きく混乱する。明日にはこうして悠長に行く方を語る時間も無いやも知れん」

 そう言いながら、先ほどルスウェントが入ってきた際に書きかけていた書面を手に取り、再び自分の前に置いた。

 執務机の上のそれはルスウェントからは見えず、ヴェルナーへ注意を戻す。

 ヴェルナー侯爵家当主は、蒼い双眸をルスウェントに据えたまま、揺るぎ無く続けた。

「この国と、ヴェルナー侯爵家の将来を考えた時の話だ」







「ヘルムフリート様――どうなされました、このようなお時間に。失礼ながらご連絡は頂いていないかと」

 前触れもなく扉を開け入ってきたヘルムフリートを見て、秘書官は慌てて立ち上がった。

 ルスウェント伯爵が執務室に入ってまだ四半刻程度しか経っておらず、話が終わった様子はない。

 侯爵からは話をしている間、誰も通すなと言われていた。

 自分の前へ立ちはだかろうとする秘書官を、ヘルムフリートは()め下ろした。

「いつ来ようと、お前などにとやかく言う資格は無い。父上は」

「侯爵は今、ルスウェント伯爵と面会されておいでです。

終わるまではどなたも取り継ぐなと厳命されております。申し訳ございませんが、お時間を改めて」

「煩い! 私は長子だぞ! どけ――ッ!」

 秘書官の肩を突いて押しのけ、ヘルムフリートは執務室へ続く扉を睨んだ。

「今王城内で何が起こっているのか、直接お聞きするのだ」

 国王の身に重大な事態が起きたというのに、何故それがヘルムフリートに伝わっていなかったのか。

 父の口からではなく、わざわざトゥレスなどから聞かねばならなかった事が我慢がならない。

 そして、一刻前の、王太子ファルシオンの布告。

(あれほどの事が――)

 何故、あの弟が父と共に関わっているのか。

(父上は、何を考えているのだ! ヴェルナーの次期当主は私だ、私に話をされるのが筋というものではないか!)

 自分にはただの一言も、父からの説明は無かった。

 これでも、今の時間まで我慢したのだ。

 これ以上は我慢がならなかった。

「ヘルムフリート様―― !」

 把手を掴んで押し開ける。

 父の声が耳を売った。

「ヘルムフリートは廃嫡する」






 国とヴェルナー侯爵家の将来を考えた話だ、と侯爵は言い、いともあっさりと続けた。

「ヴェルナーはロットバルトに継がせる」

 ルスウェントは息を飲み、一度、侯爵の意思から逃れるように、視線を足元に落とした。

 磨かれた艶やかな大理石が、室内を薄く逆様に映している。

 やはり、とルスウェントはまず思い、今なのか、とまた思った。

 長老会では既に、想定していた事だ。

 決定がいつなのか、それだけの問題だったが。

「明日の朝、長老会を招集し、混乱が本格化する前に決定する」

 ルスウェントは落ち着いた表情を保ったまま、ヴェルナー侯爵家当主の言葉を慎重に聞いた。

 侯爵の考える通り、王政が危うくなる可能性の高いこの先、混乱の局面が深まれば深まるほど決定は難しくなる。

 ただ、昨日、ロットバルトはルスウェントを訪ねて来ていた。

 西方での動きについてヴェルナー侯爵家所領下での情報を得るためだったが、そこでロットバルトは、ルスウェントともう一つ話をした。

 まさに、継嗣についてだ。

 父である侯爵の意向、そして長老会の考えを理解した上で、はっきりと継承の意志が無いと口にした。

 長子であるヘルムフリートを大した失策などもなく外せば、不要な混乱を生じるだけだ、と。



『ルスウェント伯爵。長年ヴェルナーを支えて来られた長老会筆頭の貴方であれば、ご理解いただけるはずです』

『ヴェルナーを牽引するに相応しい当主を戴きたいと、長老会は考えております』

 そう返したルスウェントに対し、ロットバルトは変わらず笑みを浮かべた。

『一人が牽引しなければならないほど、ヴェルナーも脆弱な組織ではないでしょう。

新たな当主を迎えたとしても、長老会の支えがあればこれまでの在り方はそうそう崩れない』

 当然、自分もヴェルナー侯爵家の一人として、当主の補佐を怠るつもりも無いと、そう言った。

『そもそもを破壊しかねない混乱を招いてまでする利が、一体どれほどありますか』



 ロットバルトは言わなかったが、わざわざ昨日の時点でルスウェントにそう話をした背景には、その前日にあった襲撃が関係するのでは無いかとルスウェントは考えている。

 襲撃の目的の一つとして、容易に想像できる。

 ヘルムフリートを廃し次男であるロットバルトに侯爵家を継がせるという事は、ヴェルナーを二つに割るという事に繋がりかねない。

(侯爵は組織論から物事を捉えておられる。地位と権能に対して、そこに就く者の能力が相応しくあれば良いとお考えなのだ)

 相応しい者である事が当然だ、と。

(それが侯爵のお考え――それに関して生じる感情的な不満や欲は、差し挟む価値を見出してはおられない)

 その考えの者が頂点にあり、強い力を保持し、組織が安定している間は問題は浮かんで来ないのだ。

(陛下の御不在――)

 今は慎重論を説く時期だと判断し、ルスウェントは顔を上げた。

「――侯爵」

 余分な感情の無い、蒼い瞳を見据えた。昨日向き合ったもう一つの同じ色と、良く似ている。

 惜しいという思いは保留した。

「畏れながら、今回のお考えは時期尚早かと感じます。

御長男ヘルムフリート様は学問も優れておられ、また健康であらせられる。侯爵家を継ぐに、瑕疵はございません」

「恐らくこれから直面するのは、大戦終結後の三百年、未曽有の混乱だ。ヘルムフリートにその混乱を乗り切る能力は無い。

だがヴェルナーには、国を支える歯車としての役割もある。これを錆付かせる訳にはいかん」

「――」

 侯爵が知っている事実――未曽有と言うに至ったその理由に、ルスウェントは意識を巡らせた。

 ルスウェントの背後で扉の向こうが一瞬騒がしく、それから把手が上がる音がした。

「ヘルムフリートは廃嫡する」

 傲然とそう言い切り、ヴェルナーはルスウェントの肩越しに、開いた扉へと視線を投げた。

「陛下へは、早晩奏上しようと考えていた事だ」

「――父、上……」

 ルスウェントは振り返り、苦い息を喉の奥に留めた。

 ヘルムフリートの面は驚愕に蒼ざめ、歪み、歯の根が音を立てるほど唇を震わせていた。







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