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第1章「萌芽」(8)

 南方のフェン・ロー地方は王都から馬で約半月ばかりの距離に位置し、気侯は暑すぎず年間を通して穏やかだった。

 更に南へ近付くと次第に熱砂アルケサスの影響が顕著になっていき、農業に適さない土地になる為、このフェン・ロー地方までが南方では人口の多い地域だ。

 基幹街道から、南東に一本走る街道沿いにロカという小さな街がある。街や街道の周囲には緑の畑がどこまでも広がり、小川があり、林があり、丘があり、まさにのどかな、という表現が相応しい土地だった。

 街の人口は二百人ほどで、どちらかと言えば村に近い規模だ。一帯はヴェルナー侯爵家が所領していた。

 街には一軒だけ診療所がある。こうした街道沿いの街にしか医師はいない為、街の住人だけではなく近隣の住民達も数多く訪れていた。

「四ヶ月――順調だね」

 初老の医者は目を細めて頷き、穏やかな口調でそう告げた。

 診療所の診察室で、窓際に置かれた机の前に医者と、十八、九歳ほどの若い娘が一人座っている。

「良かった」

 若い娘は緊張が解けて零れるように微笑み、腹部をそっと撫でた。

「ただ不安定な時期が完全に過ぎたわけではないから、あとひと月は慎重にするように」

「はい」

 こくりと頷いた娘の頬には喜びが差し、明るい茶色の瞳からも透けて見える。

 去年の十二月、たった五ヶ月前には、彼女は自分が新しい命を授かる事ができるとは思ってもいなかった。彼女の愛した相手は、自分の存在を消してしまおうとしていたからだ。

 それが今、生活は楽ではないけれども静かな、穏やかな暮らしがあり、そしてあと半年もすればもう一人、家族が増える。

 彼が新しい家族を得られる事が何より嬉しかった。

「体調がよければ次は再来週来なさい。何かあったらいつでもいいよ」

 診断書に所見を書き込みながらそう言い、それから筆をおいて娘を真剣に見つめた。

「あの森の側からこの街まで来るんじゃ大変だろう。周りにも民家は無いし、九月くらいから街で過ごしたらどうかね。家は旦那に任せればいいし、一緒に街に移ったっていいだろう」

 医師は二人の家族がこの近くにはいない事を知っていて、頼れる者が必要だろうと心配してそう言った。娘が住んでいる辺りは街からは徒歩で二刻はかかり、だからと言って振動の激しい馬や乗合馬車などは勧められない。

「ありがとうございます」

 礼を言い、ただ娘は亜麻色の髪を結った頭を振った。

 彼は街に暮らす事ができない。そういう約束があって、今がある。

 背筋をすっと伸ばして、にっこりと笑って見せる。

「でも私、彼を絶対に一人にしないって、決めてるんです」

 そう言って、少し大げさな事を言ったと思ったのか、恥ずかしそうに頬を赤くした。

「大丈夫です、二人でやっていけます。彼も助けてくれてますから」

「ならいいが――充分気を付けるようにな」

「はい」

 頷くと、膝の上に置いていた鞄を肩に掛けて立ち上がった。

「ハインツさん」

 老医師は娘を呼び止め、付け加えた。

「何かあったら連絡しなさい。家まで往診に行くからね」

「はい。ありがとうございます」

 娘は頭を下げ、待合室に出た。

 待合室は幼い子供から老人まで、あらゆる年代の患者で混みあっている。壁際の置時計を見ると、もうすぐ十刻になるところだった。

 診療所を出て通りを街門へと、少し急ぎ足で向かう。今日は彼は領事館へ行っていて、お互い終わった後街門で待ち合わせをしていた。

 小さい街ですぐに街門に近付く。門の前の広場に、驢馬を引いている青年が立っているのを見つけ、娘は声を上げて手を振った。

「イリヤ――お待たせ」

「ラナエ」

 イリヤはラナエに駆け寄るとぎゅっと抱き締めた。金と緑、二つの色の瞳がラナエの顔を覗き込む。

「どうだった? 診療所まで迎えに行けば良かったかと思ってたところだ」

「順調ですって」

医師(せんせい)はどっちか言ってた?」

「まだ判らないわよ、生まれてからじゃないと」

 ラナエは可笑しそうに笑い、イリヤの手を握った。

「領事館の報告は終わり?」

「ああ。まあいつもどおり、当たり障りの無い内容だけどね」

 イリヤ達はこの土地に暮らす事を許される代わりに、毎月一度、領事館へ状況を報告する義務を負っていた。イリヤの出生や王都で何があったか、領事館の役人が知っている訳ではなく、報告するのはいたって普通の日常生活についてだ。

 街で暮らす事は認められていない。王都へも一切、足を踏み入れてはならないと、それは厳命だった。

 だがそれを面倒だとは思わなかった。

 ただそれだけの制限だけで許された事の方が、ずっと大きく、恵まれている。

 そして何より傍らにはラナエがいて――、これ以上望むものは無いと思っていたら、子供まで生まれてくれる。

「さてと、帰ろうか。ゆっくり歩いて、途中で持って来たお弁当を食べよう。ちょうどネーレの丘の丁香花が見ごろだよ」

 イリヤはラナエの背中を優しく押し、それから手を握って歩き出した。

「驢馬に乗る?」

「大丈夫よ。ゆっくり歩くのは楽しいし」

 起伏の無い真っ直ぐな街道は、周囲が広々と開けて心地良く、今の時期は花があちこちで咲いていて、そこを二人で歩くのは楽しかった。

「そうだね」

 外門を出ると、ちょうど爽やかな風が二人の周りを吹き過ぎた。

 風が二人の前方へと草木を渡っていくのを眺めながら、イリヤとラナエは我が家へと足を向けた。





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