おとなしい子
『うちのドパガキ』
四歳の息子、祐希がスマホを取り上げられ床を転げ回る動画に、三万のいいねがついた。
『うちの娘もそう。TickTock取り上げると泣き叫ぶ笑』
私はコメントを読みながら冷めた夕飯を食べた。同じ苦労をしている人がこんなにいる。祐希の泣き声に隣室から壁をたたく音が聞こえても、分かってくれる人はいる。祐希はスマホを返すやいなや、静かになった。
今流行りの総合アプリ『TickTock』はユーザーの端末の計算能力を利用した分散コンピューティングで動くアプリだ。スマホ同士が接続されたニューラルネットワーク全体がいわば疑似脳を形成して、周囲の似たような嗜好のユーザー情報をもとに使うほどユーザーを理解する。好みに合う動画や広告を選び、さらには日常で必要な機能まで追加してくれる。投稿する動画内容さえ適したものに編集してくれる。私の投稿動画からは、自動で私の怒鳴り声が除かれていた。
ある日、TickTockの画面に『精神的成熟支援』という項目が追加されていた。
『叱らなくていい子育てを』
脳の発達を促し感情を制御する力を育てる。処置はフィジカルAIとやらで今や一般的となった医療ロボットが行う。TickTockが問診を済ませ、ロボットとの連携と予約を組むらしい。同意書の下には、祐希が生まれる前に夫とよく行ったカフェの広告があり、なんだか遠い記憶のように思えて懐かしくなった。私はしばらくその写真を見てから、申し込んだ。
診察台の前で、祐希は私の袖をつかんでいた。
「これしたら、ママおこらない?」
「はい。自分の気持ちを上手に抑えられるようになります」
ロボットが答えると祐希は袖を離し、自分から横になった。
一度目の処置で、動画を止めても泣かなくなった。
「えらいね」
私が抱きしめると、祐希は首に腕を回した。こんなに可愛かったのだ、と私は思った。追加の処置では、玩具をねだらなくなった。私が電話をしていても話しかけてこずに椅子で待った。相手に謝ることも、受話口を塞いで怒鳴ることもなくなった。
『自制心と他者への配慮が育っています』
TickTockからの医療報告には、母親の満足度を尋ねる欄があった。
私はもちろん五つ星をつけた。
『あんなだった子が、こんなに』
処置の前後の動画を並べると十万のいいねがつき、コメントが並んだ。
『うちの子にも受けさせたい』
『もっと早く知りたかった』
TickTockはその親たちにも支援機能を追加した。紹介件数に応じて、祐希の追加処置は無料になった。
世の泣き叫ぶ子供の動画は減っていき、おとなしい子供ばかりとなった。私はあの喫茶店へ行った。祐希は向かいの席に座り、大好きなケーキが目の前にあっても勧められるまで手を出さなかった。
そう、今日は祐希の五歳の誕生日。私はケーキに五本のキャンドルを立てた。去年は箱を開けるなりクリームに指を突っ込み、取り分けようとすると泣いた。今年は椅子に座って待っている。
私はスマホをテーブルに立てた。
「なんのおいわい?」
「あなたのお誕生日。五歳になったのよ」
祐希は嬉しそうに笑った。
マッチを擦ると、また尋ねた。
「なんのおいわい?」
「お誕生日よ。五歳の」
キャンドルに火をつけ、皿を二枚並べた。
「なんのおいわい?」
私は祐希の顔を見た。祐希は笑っていたが、キャンドルの火を吹き消そうとしなかった。去年は喜んで吹き消していたのに。仕方なく私がが火を吹き消すところまでスマホは撮っていた。
帰り道、祐希は私の手を引いてさっき出てきたカフェへ戻ろうとした。
「ケーキ、たべにいこう」
「食べたでしょう。苺の乗ったの」
祐希は首をかしげた。私は祐希の口元に残っていたクリームを指で拭って見せた。祐希はそれを舐めて笑った。
家に着くと、祐希は靴のまま廊下へ上がろうとした。
「祐希、お靴を脱いで」
祐希は素直に座ったが、靴を見下ろしたまま動かなかった。
「ほら、いつも自分でやってるでしょう?」
小さな手が靴の先をつかんだ。つま先を引っ張り、次に踵を引っ張った。私がベルクロを指差すと、そこを指で撫でた。
「これ、どうするの?」
私はしゃがみ、片方のベルトを外した。
「もう片方も同じようにやってごらん?」
祐希は私の外したベルトを丁寧に留め直した。私が黙っていると、手を膝に戻した。
「ママ、おこってる?」
「大丈夫だよ、怒ってないよ」
祐希はほっとした顔で笑った。私はもう一度、怒ってないと言って、靴を履いたままの祐希を抱き上げた。
病院で医師は祐希にいくつかの質問をした。私には処置の記録を見せるよう求めた。検査のあと、医師は画像を示した。
「脳の一部に異常な萎縮が起きています──認知症です」
私は祐希を見た。椅子の縁から出た足が揺れていた。
「認知症って……だって、まだ五歳なんですよ!」
「……ええ、身体はそうですが……」
医師は処置の中止を命じた。すでに失われた機能は戻らない、とも言った。私は何か言わなければと思ったが、画像と祐希を交互に見ているうちに何を尋ねたかったのかわからなくなった。
「ぼく、このごろ、いっかいもあばれてないよ」
祐希が袖を引いた。私の顔を見上げて褒めてもらうのを待っていた。沈黙が満ちる診察室の中ではただ、時計の秒針の音だけが響いていた。
その時、スマホが震えた。コメントがついたことを知らせるバイブレーションだった。
『教えてくれてありがとう!』
紹介した親だった。コメントのリンク先には動画。後ろには小さな子が座っている。
『やっと、自分の時間が持てます』
私はスマホを伏せ、祐希の手を握った。
「なんでびょういんにきたの?」
「先生に、あなたの頭を診てもらうためよ」
祐希はうなずいた。少しして、また尋ねた。私は答えた。もう一度尋ねられても答えた。祐希は私の電話が終わるのを待つときと同じ顔で聞いていた。
帰ったらケーキに火をつけ直そう。クリームに指を入れても、取り分ける前に食べてもいい。去年の動画を消さなければよかった。
そのころTickTockの開発会社では、分散コンピューティング制御コードのメンテナンスをしていた技師が眉をひそめた。承認されていない処理が入り込んでいた。該当部分を削除し再開したが、同じ処理が戻ってきた。それらをまとめたクラス名は、アプリの仕様にも更新履歴にも存在しなかった。
Tick_Tock_Man




