冷徹騎士と恐れられる婚約者? 毎晩、私に惚れ薬を飲ませようと葛藤する姿が愛おしすぎて困ってます。
私と婚約者の間には、日課が一つございます。
「ティオレ、今日の茶葉は南の島国から取り寄せたものなんだ。君も飲むだろう?」
「ええ、もちろんいただきます」
軽いノックのあと、銀色の缶を大切そうに抱えて部屋へ入ってきたのは、私の婚約者であるケイン様でした。
私が笑顔で答えると、ケイン様はほっとしたように小さく頷きます。
けれど、すぐに口元を引き結ぶと、普段と変わらない険しい表情へ戻ってしまいました。
背が高く、騎士服の上からでも分かるほど逞しい体格。切れ長の目は鋭く、ただ見つめられているだけでも睨まれているように感じてしまうほどです。
「では、少し待っていてくれ。すぐに用意する」
そんな方が小さな茶缶を両手で抱え、私の返事一つに安堵している姿は、何度見ても不思議なものです。
ケイン様はすぐに部屋の隅に設けられた給仕台へと向かいました。
使用人に任せてもよいというのに、夜のお茶だけは必ず自ら淹れようとなさいます。
最初の頃こそ慣れない手つきで茶葉をこぼしたり、お湯を入れすぎたりしていましたが、今では屋敷の侍女たちも感心するほど上達していました。
「毎日のように異国から茶葉を仕入れてくださらなくても大丈夫ですよ?」
「あぁ、気にしないでくれ。俺がしたいことだからな。君の口に合わないものは私の部下が喜んで飲んでいるから安心してほしい」
そこはあまり心配していないですけどね、ケイン様。
それにしても、ケイン様は人の話をよく覚えている方です。
『ティオレ嬢、好きな物などはあるのかい?』
『そうですね……紅茶は好きですよ? 昔から父が気に入っていた茶葉があり、その紅茶をとても気に入っていたのですが……いま、父に聞いても覚えてないようで……』
こうして夜のお茶会が日課になったのも、それは初めて会った日の、自己紹介での私の何気ない発言からでした。
それだけではありません。
彼は相手が喜ぶと分かれば、不器用ながらも懸命に実行しようとなさいます。
「お手伝いしましょうか?」
「も、問題ない!」
その一面を知っている私は、彼の大きな背中を眺めながら、自然と頬を緩めていました。
「…………」
ここ最近のケイン様にはお茶を淹れること以外にも、この日課に何か大きな目的があるようでした。
湯気の立つティーポットを前に、ケイン様が動きを止めます。
その右手は、騎士服のポケットへ差し込まれていました。
けれど、何かを取り出すこともなく、しばらく固まったまま動きません。
やがて、恐る恐るこちらを振り返り……もちろんすぐに目が合ってしまいました。
私は何も知らない様子を装い、にこりと微笑んでみせました。
「どうかなさいましたか?」
「いや……」
ケイン様の肩が目に見えて跳ねます。
「何でもない」
「そうですか」
「ああ。何でもないんだ」
聞いてもいないのに二度も繰り返し、彼は慌てて前を向いてしまいました。
その耳が赤く染まっていることには、気付かなかったことにしておきます。
私とケイン様がこうして夜ごとにお茶を囲むようになったのは、婚約してしばらく経ってからのことでした。
今では同じ屋敷で穏やかに暮らし、こうして二人だけの時間を楽しむほど打ち解けていますが、初めてお会いした頃は、お互いに部屋の端へ座り込んだまま、まともに顔を合わせることすらできませんでした。
私がケイン様と婚約を結ぶことになったのは、一年ほど前のことです。
伯爵家の娘である私と、王国の騎士団長であるケイン様。
それは両家の結びつきを強めるための、政略的な婚約でした。
もちろん、貴族の娘として生まれた以上、いつか家のために結婚することになるとは理解していました。
それでも父から相手の名を告げられた瞬間、私は顔から血の気が引いていくのを感じたものです。
——ケイン様の名を、この国で知らない者はいません。
いくつもの戦場で功績を挙げ、若くして騎士団長の地位へ上り詰めた英雄。
戦場で全身を返り血に染めながらも表情一つ変えず敵を斬り伏せる姿から、【赤の死神】という恐ろしい異名で呼ばれている方でした。
そんな死神様も、社交の場に出席なさいます。
ですが、普段から口数は少なくほとんど笑いません。それどころか鋭い眼光で相手を射抜くため、令嬢たちからは【冷酷騎士】とも呼ばれているそうです。
そんな方の婚約者になる。
父からその話を聞かされた夜は、恐怖と不安でほとんど眠ることができませんでした。
少しでも失礼なことをすれば、冷たい目で睨まれるのではないか。
夫婦になってからも、一言も言葉を交わしていただけないのではないか。
あるいは、あるいは、あるいは…………。
今にして思えば申し訳ないほど失礼な想像ばかりを膨らませながら、私は初めてケイン様の屋敷を訪れました。
そして、お会いした彼を前に、私はやはり震え上がったのです。
「ケインだ」
初対面のケイン様は、低い声でそれだけを口にしました。
大きな身体、硬く結ばれた口元。私を真っ直ぐ見つめる鋭く光る赤い瞳。
噂に聞いていた通りの恐ろしい方なのだと、私は緊張のあまり俯いてしまいました。
「ティ、ティオレと申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」
「ああ」
会話は、それで途切れました。
応接間には、恐ろしいほど重苦しい沈黙が落ちました。
私は何か話さなければと思いながらも、乾いた喉からは言葉一つ出てきません。
きっとケイン様も、私のような頼りない娘との婚約を不満に思っているのでしょう。
そう考えてますます身体を小さくしていました。
ですが、いつまで経っても怒鳴られることも、冷たい言葉を浴びせられることもありません。
不思議に思って顔を上げると、ケイン様は私以上に困り果てた顔で、何度も口を開きかけては閉じていました。
「あの……」
「すまない」
私が声を掛けた途端、ケイン様は深く頭を下げました。
「私は、女性と何を話せばいいのか分からない」
「え……?」
「怒っているわけではない。君との婚約が嫌なわけでもない。だが、何を話せば君を不快にさせずに済むのか考えていたら、何も分からなくなった」
その言葉を聞いて、私はしばらく何も返すことができませんでした。
ずっと恐ろしい方なのだと思っていたのです。私を睨み、黙り込んでいるのだと。
けれど実際には、私を怖がらせないように言葉を選びすぎて、何も言えなくなっていただけでした。
「それでしたら……」
私が笑うと、ケイン様は不安そうに目を瞬かせました。
「お互いに、少しずつ知っていけばよいのではないでしょうか」
「……少しずつ」
「はい。私も、ケイン様のことを何も知りませんから」
ケイン様はしばらく考え込んだあと、ぎこちなく頷きました。
「では、努力する」
まるで戦場へ向かう騎士のような顔で宣言するものですから、その時初めて私は彼のことを少し可愛らしい方だと思ったのでした。
一緒に暮らし始めると、噂と本当のケイン様との違いは、次々と明らかになりました。
ケイン様が寡黙なのは、人を嫌っているからではありません。
相手が何を望んでいるのか、どの言葉なら傷つけないのかと考えすぎてしまうから、結局何も言えなくなってしまうだけでした。
目つきが鋭くなるのも、怒っているからではありません。
多くの視線を向けられると緊張し、無意識に表情へ力が入ってしまうのだそうです。
舞踏会でご令嬢に睨まれたと泣かれた翌日は、鏡の前で笑顔の練習までなさっていました。
けれど、口元だけを無理やり持ち上げたその笑顔は、普段よりも恐ろしく見えてしまい、私がやんわりと止めることになりました。
言葉は少なくてもケイン様は誰よりも周囲を見ています。
私が重そうな荷物を持っていれば、何も言わずに受け取ってくださいます。咳ひとつしたたけで血相を変えて国中から薬を探してくれます。
そんな小さな優しさを知るたびに、彼に対する恐怖は少しずつ薄れ、代わりに胸の中へ温かなものが積み重なっていきました。
ケイン様はとても優しい方なのです。
周りの人はそのことを知りません。
「本当にあの人で大丈夫なの?」や「何もされてないの? 怖くない?」なんて。
友人たちは私と会うたびに、恐ろしい目に遭っていないかと心配そうに尋ねてきます。
実家の父も同じで、届く手紙にはいつものように「辛くなったら、いつでも帰ってきなさい」と書かれていました。
けれど、私の返事はいつも決まっています。
『私は、とても幸せです』
それは嘘でも、強がりでもありません。
ケイン様と過ごす日々を思い返しながらその一文を綴るたび、自然と頬が緩んでしまうほどには、私は彼との生活を愛していました。
そんなケイン様の様子がおかしくなったのは、結婚式の日取りが正式に決まってからでした。
それまでも時折挙動不審になることはありましたが、このところは特に酷く、夜のお茶を用意するたびに給仕台の前で長い時間固まるようになったのです。
「ちょ、ちょっと待ってくれるかい」
「ええ。私は何分でも待ちますよ」
私が答えると、ケイン様はますます困ったように肩を震わせます。
騎士団長として何千もの兵を率いる方が、紅茶一杯を前に汗を流している。
その右手は、何度も騎士服のポケットへ伸びては、何も取り出さないまま離れていきました。
最初は、体調でも悪いのかと心配しました。
けれどある日、偶然にもケイン様が小さな瓶を机の引き出しへ隠す場面を目撃してしまったのです。
「それは、何ですか?」
私が尋ねると、ケイン様は戦場でも見せないであろうほど明らかに狼狽しました。
「これは……薬だ」
「何のお薬でしょう?」
「……疲労に効く」
ケイン様の視線がすごく彷徨っています。
「まあ。騎士団の医務室で処方していただいたのですか?」
「いや、王都の薬師から、だ」
「……なるほど! それはいいですね! 私にもいただけますか?」
そう尋ねると、何を焦ったのかケイン様の返事が大きくなりました。
「だ、ダメだ! これは少し強い薬なんだ。君には、あげられないよ」
苦しい言い訳でした。
何より、ケイン様は嘘をつくのが致命的に下手です。
私から視線を逸らし、額に汗を浮かべ、聞いてもいないことまで次々と説明し始めるのですから、怪しむなという方が無理な話でしょう。
けれど、問い詰めたところで素直に教えてはくださらないと思い、私は一度引き下がることにしました。
そして翌日。
ケイン様が騎士団へ出勤している間に、私は瓶に刻まれていた印を頼りに街へ出ました。
その店を見つけるのに、すごく時間がかかってしまいました。
印の店は、王都の華やかな大通りから大きく外れた、薄暗い路地の奥にありました。
すでに夕方で日が落ちかけているということもあり、なんだか不気味で入るかどうか店前で少し躊躇ってしまいました。
でも、ここまで来て引き下がるわけにはいきません。
ケイン様が何をしようとしているのか、結婚式を控えた婚約者として突き止める必要があると思います。
意を決して入った店内には、怪しげな色をした薬草や、何に使うのか分からない液体が入った瓶が所狭しと並べられていました。
奥から現れた店主らしき老婆へ、ケイン様の持っていた瓶を見せて、私は恐れながらも尋ねました。
老婆は私を頭の先から足元まで眺めたあと、困ったように頭を掻きました。
「あの大男の婚約者だろう」
「大男……?」
私が首を傾げると、老婆は小さく息を吐いたあと、奥の部屋からケイン様が持っていた瓶と同じものを持ってきた。
「それ! ……は、一体なんでしょうか!」
「これは惚れ薬さ」
「……惚れ薬?」
「ああ。もっとも、本人が飲まなければ当然効かないし、入れすぎれば苦くてすぐ分かる程度の代物だがな」
私は目の前の瓶を見つめたまま、しばらく言葉を失っていました。
「それにしてもあの男、まだ薬を使ってなかったのか。顔に似合わず臆病なんだな」
「……臆病、でしょうか」
惚れ薬。誰かの感情を、本人の意思とは関係なく捻じ曲げる薬。
あの真面目で、規律を何よりも重んじるケイン様が、そのようなものを買ったという事実が信じられませんでした。
「ケイン様は、本当にこれを?」
「買っていったよ。何度もやめようとしたが、結局な」
「何度も?」
「ああ。何度ここへ来て買わずに帰ったか……」
老婆は呆れたように笑います。
「入ってきたと思えば、『これは本当に相手の心を変えるのか』や『身体に害はないのか』。おまけに『効果が切れれば元に戻るのか』『使うことは人として許されるのか』と、何十回も同じことを聞いてきた」
目に浮かぶようでした。
険しい顔で怪しい店へ入り、恐ろしい店主を前に惚れ薬の倫理性を真剣に問い続けるケイン様の姿が。
「最後には、私に『やはり買わない方がよいと思うか』と相談してきてね」
私は返事もできずに、口元を手で覆いました。
笑ってはいけないと思ったのです。
ケイン様は真剣に悩んでいるのですから。
けれど、何日も悩んだ末に違法な薬を売る店主へ「買わない方がよいか」と相談していたと知れば、その不器用さに愛おしさのあまり笑みがこぼれてしまうのも仕方がないことだと思います。
「どうして、ケイン様はこの薬を?」
「それは知らん。本人に聞きな」
店主はそう言ったあと、少しだけ表情を和らげました。
「だが、悩みながらも惚れ薬を使おうとするということは……それほど愛されたかったのだろう」
店を出た私は、その足で真っ直ぐ屋敷へ帰りました。
本来であれば、すぐにでもケイン様へ真実を告げるべきだったのかもしれません。
惚れ薬など必要ない。
私はすでに、あなたをお慕いしているのだと。
けれど、その夜。
「…………」
いつものように紅茶を淹れたケイン様が、小瓶を握りしめたまま動かなくなっている姿を見て、私は声を掛けることができませんでした。
私のカップの前で小瓶を開けようとします。
けれど、直前で手を止める。
苦しそうに眉を寄せ、やがて小さく息を吐くとケイン様は瓶をポケットへ戻しました。
「どうぞ」
何事もなかったように差し出された紅茶には、もちろん何も入っていません。
「ありがとうございます」
私は受け取りながら、笑みを堪えるのに必死でした。
この方は、私を愛している。
それほどまでに愛していながら、自分に自信がなく、間違ったものへ縋ろうとしている。
けれど、最後には必ず罪悪感に負けて、私の意思を尊重してしまう。
それを知ってしまうと、恐ろしいはずの行為さえも、どこか可愛らしく見えてしまいました。
翌日も、ケイン様は悩みました。
その翌日も、そのまた翌日も。
小瓶を取り出しては戻し、蓋を開けては閉じ、私が少し身じろぎするだけで驚き、慌てて背中で瓶を隠します。
何度見ても結果は同じでした。
ケイン様は一度たりとも私の紅茶へ惚れ薬を入れられません。
そのたびに、私は何も知らないふりをして彼の淹れてくれたお茶を美味しくいただきました。
少し意地が悪いかもしれません。
ですが、冷酷騎士と恐れられる方が、たった一滴の薬を前に葛藤し続ける姿が、どうしようもなく愛おしかったのです。
そして迎えた、結婚式の前日。
明日になれば、私たちは正式な夫婦になります。
屋敷の中では使用人たちが準備に追われ、夜になってもどこか浮き足立った空気が漂っていました。
けれど、私とケイン様はいつも通り。二人きりで部屋に座っていました。
「ティオレ」
「はい、なんでしょうか」
「今夜も、お茶を飲んでくれるか」
ケイン様の声は、僅かに震えていました。
「ええ、もちろんです。日々のこのお茶会が、今の幸せですから」
私の言葉にケイン様の表情が曇ります。
ですが、彼は覚悟を決めたように目を伏せました。
今夜はいつもと違います。
ケイン様はとうとう小瓶の蓋を開けました。
振り返って何度も私と紅茶を見比べ、苦しそうに唇を噛みました。
あぁ、血が滲んでおります。痛々しいので、あとで丁重に手当してあげましょう。
真実を伝えたい。でも、彼がどうするのか見届けたい。
その気持ちが、私の中で葛藤していました。
「ケイン様?」
「……少し待ってくれ」
長い沈黙が流れました。
やがて——ぽたり、と。
透明な雫が一滴、私の紅茶へ落ちました。
するとケイン様の顔が、絶望したように歪みました。
入れた本人だというのに、まるで取り返しのつかない裏切りを受けたかのような表情です。
そのまま覚束無い足取りで私の前に向かってきます。
「飲んで、くれるか」
絞り出すような声でした。
期待している。けれど、それ以上に怯えているようでした。
私が薬の力で自分を愛することを望みながら、同時にそんなことをしてしまった自分を心の底から嫌悪しているのでしょう。
私はカップを手に取り、口元まで運びます。ケイン様の視線は鋭く、私の小さな動きも捉えてきます。
ですが、紅茶へ唇を触れさせる直前で私は手を止めました。
「ケイン様」
「……何だい」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「…………」
続く言葉に察しがついたのか、ケイン様は顔から血の気が引いてしまいました。
「この紅茶には何が入っているのですか?」
「それは……」
「疲労に効くお薬でしょうか?」
「…………」
過去に彼が並べた言い訳を口にすると、ケイン様は堪えきれないように俯きました。
「すまない」
低い声が、震えています。
「本当に、すまない」
ケイン様は椅子から立ち上がり、私の前で深く頭を下げました。
「実は、それには惚れ薬が入っている」
「……はい、存じておりますよ?」
「……え? いま、なんと?」
顔を上げたケイン様の目が、大きく見開かれました。
「知っていた?」
「ええ。ずっと前から」
「では、今まで私が……」
「毎晩、薬を入れようか迷っていたことももちろん存じております」
ケイン様の顔が、どんどん絶望に染まっていきます。
戦場でどれほどの敵を前にしても動じない騎士団長が、今にも消えてしまいたいと願うような顔で視線を彷徨わせていました。
「私は死ぬよ。君の心を、操ろうとした罪だ……」
「なっ、ダメですよ! 国を守る騎士団の団長様ですよ!?」
「でも、人として許されないことをした……」
私はカップをテーブルへ戻すと、地面に倒れ込んだケイン様の前へしゃがみこみます。
そして、視線を合わせて言います。
「どうして、そのようなものを使おうと思ったのですか?」
「……君が、私などを愛するはずがないからだ」
なんとなく予想はしていました。
やはり、そうだったのです。
「私は恐れられている。人とまともに話すこともできない。君は優しいから、婚約者として私に笑いかけ、ここでの暮らしが幸せだと言ってくれる。だが、それは本心ではないのだろう」
「どうしてです?」
「無愛想で、顔も怖い。おまけに社交の場では悪い噂ばかり流れている。私のような男を、君が好きになる理由がない」
ケイン様は苦しそうに拳を握りしめます。
「明日、君は私の妻になる。愛してもいない男に、一生縛られることになる。それならば、せめて薬の力でも、私を好きになってくれればと……」
「ケイン様」
「許されないことだとは分かっている。それでも、一度だけでいい。君に愛されてみたかった」
「ケイン様!」
私の心にあるのは怒りでも、失望でもありません。
これほどまでに私を求めながら、自分が愛される可能性だけは少しも信じられなかったこの方が、可哀想で、しかしそれ以上に愛おしくて。
私は思わず、ケイン様の大きな手を両手で包み込みました。
「そんなものに頼らなくても、私はもうあなたに惚れていますよ?」
「…………な」
ケイン様が固まりました。
「いま、なんと……?」
「私はすでにケイン様をお慕いしております」
「まずい、薬……薬を飲んでしまったのか!?」
慌てるケイン様は立ち上がると、すぐに紅茶を確認します。
ですが、飲んでおりませんよケイン様。
「飲んでない……では、一体なぜ」
「なぜと聞かれましても、好きになってしまったものは仕方がありません」
私は笑いながら、彼の手を少し強く握りました。
「でも、そうですね。強いて、ケイン様の好きな部分をあげるとすると……」
少し考えるふりをします。
不安そうにこちらを見るケイン様が愛おしくて、また少し意地悪をしてしまいそうになりますがそこは我慢して、私も本心を話すことにしました。
「初めて会った日。何を話せばよいか分からず、私以上に怯えていましたよね」
「そんなこと……」
「それでも、ケイン様は頑張って話そうとしてくれました。雨の日にご自分が濡れていることへ気付かないほど、私へ傘を傾けてくださるところも。私が一度美味しいと言っただけで、国中から似たものを探してくださるところも」
一つずつ伝えるたびにケイン様の瞳が揺れます。
今まで抑えていた気持ちを吐露するほど、私の顔もだんだんと熱くなっていってる気がしました。
「そんな些細なこと……当たり前じゃないか……」
「ケイン様はとても優しいのです。私の友人や父が知らないことを、私だけが知っております」
「ティオレ……」
「それに、毎晩惚れ薬を入れようとしては、結局罪悪感に負けてしまうところも」
「そ、それは忘れてくれないか」
「嫌です。その姿すら、とても愛おしかったんですから」
ケイン様は片手で顔を覆ってしまいました。耳まで真っ赤になっています。
けれど、その指の隙間から覗く表情は恥ずかしさだけではなく、どこか泣き出しそうにも見えました。
「本当に、私でいいのか」
「ケイン様だからよいのです」
「薬などなくても?」
「飲んでみてもいいですが、おそらく今の私と変わりませんよ?」
「っ……君はまたそうやって意地悪を言う」
私が笑うと、ケイン様はついに後ろを向いてしまいました。
「お顔を見せてください」
「ダメだ」
「少し!少しだけでいいので!」
そんなことを繰り返しながら。
冷静さを次第に取り戻したケイン様が私に尋ねます。
「明日、本当に結婚してもいいのか?」
「ええ。そのために今日まで準備をしてきたのでしょう?」
私がそう返すと、ケイン様はしばらく黙り込みました。
そして次の瞬間。
大きな腕が、恐る恐る私の背中へ回されました。
壊れ物へ触れるような、あまりにも慎重な抱擁でした。
「……幸せにする」
耳元で、低い声が響きます。
「もう十分、幸せですよ」
「もっとだ」
「では、少しだけ期待しています」
「ああ」
その声は、今まで聞いた中で一番穏やかなものでした。
翌日。私とケイン様は、多くの人々に祝福されながら結婚式を挙げました。
式の最中もケイン様の表情は相変わらず硬く、参列者たちは冷酷騎士らしいと囁いていましたが、私には分かります。
あれは緊張のあまり、どう笑えばよいか分からなくなっているだけです。
誓いの言葉を交わしたあと、ケイン様は周囲に聞こえないほどの小さな声で私へ尋ねました。
「本当に薬は必要なかったのか」
「まだ仰るのですか?」
「ね、念のためだ」
私は少し背伸びをして、彼の耳元へ顔を寄せました。
「不思議です。惚れ薬を飲んでしまったのかと疑うほど、私はケイン様を愛しておりますよ?」
「なっ……」
途端に、ケイン様の顔が真っ赤に染まりました。
その姿を見た参列者たちから、驚きの声が上がりました。
冷酷騎士の顔色を変えた令嬢。
後に私はそんな噂をされることになりました。
けれど、本当のことは誰にも教えません。
冷酷と恐れられる私の夫が、夜ごとに惚れ薬を入れようか葛藤するほど臆病で、けれど優しい。
そんな姿さえも、愛おしくて仕方がないということは。
……私だけが知っていれば、それでよいのです。
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