第八章(あの丘の秘密)
丘に着いたとき、風が少し強くなっていた。
背の低い草がざわざわと音を立てながら揺れ、その波が丘の斜面をゆっくりと広がっていく。草の先が光を受けて白くきらめき、遠くから見ると水面のさざ波みたいだった。
俺は少し立ち止まって、丘の上を見渡した。
懐かしい場所だった。
小さな丘。
子どものころ、三人で何度も来た場所。
遠くには町の屋根が並び、その向こうに細い道路が一本まっすぐ伸びている。車の音はほとんど聞こえない。ただ風と草の音だけが、丘の上をゆっくり流れていた。
にこが周りを見渡しながら言った。
「懐かしいね」
その声は軽かったけれど、どこか遠い記憶を探しているような響きがあった。
俺はゆっくりとうなずく。
「……ああ」
確かに覚えている。
ここで鬼ごっこをしたことも、草の上に寝転んで雲を見ていたことも、全部。
だけど――
なぜか今日は、同じ場所のはずなのに少し違う気がした。
風の匂いも、空の広さも、昔と同じはずなのに、どこか静かすぎる。
ユリが丘の真ん中の方をじっと見つめているのに気づいた。
「ここ」
小さくつぶやく。
「夢と同じ場所」
俺はその方向を見る。
丘の中央。
そこだけ、少しだけ草が短くなっている。
ただの偶然かもしれない。
でも、胸の奥で何かが引っかかる。
夢の中で、俺たちはいつもそこに立っていた。
風の通り方も、
空の広さも、
そして、立っている場所まで。
すべて、妙に一致している気がした。
にこが少し笑う。
「まあ、そりゃ同じでしょ」
「夢の元になってる場所なんだから」
冗談みたいに言ったその言葉を聞いたときだった。
ふっと、世界の音が小さくなった気がした。
さっきまで聞こえていた風の音が、急に遠くへ引いていく。
草のざわめきも、どこか遠くで鳴っているみたいだった。
俺は眉をひそめる。
「……?」
何かがおかしい。
そう思った瞬間だった。
体の力が、すっと抜けた。
急に足元が軽くなる。
膝から力が消えていく。
まるで、どこかから睡眠ガスでも流れてきたみたいに、突然意識が沈んでいく。
普通の眠気とは違う。
もっと急で、もっと強引だった。
「ちょ、待っ……」
にこの声が聞こえる。
でも、体が動かない。
足に力が入らない。
立っていられない。
視界がゆっくり揺れる。
空が傾く。
ユリが俺の名前を呼んだ。
「なぎちゃん……」
その声も、少しずつ遠ざかっていく。
風の音も、
草の音も、
すべてが水の底に沈んでいくみたいだった。
そして――
意識が落ちた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
暗闇の中を、ゆっくり浮かび上がってくるような感覚だった。
誰かが肩を揺らしている。
「なぎ!」
にこの声だった。
俺は重たいまぶたを無理やり持ち上げる。
視界がぼやけている。
青い空がにじんで見える。
丘の上だった。
草の匂いがする。
風が、ゆっくり頬をなでていく。
「大丈夫?」
にこが心配そうな顔で俺をのぞきこんでいた。
俺はうまく声が出ず、ゆっくり体を起こす。
頭がまだ重い。
何が起きたのか、思い出せない。
そのとき、隣でユリが小さく動いた。
「……ん」
ユリも目を覚ましたらしい。
二人でぼんやり丘を見渡す。
何か大事なことがあった気がする。
でも、それが思い出せない。
そのときだった。
「……ユリ」
小さな声が聞こえた。
俺は反射的に顔を上げる。
ユリも同時に振り向いた。
でも、丘には誰もいない。
風が草を揺らしているだけだった。
「……え?」
ユリがつぶやく。
もう一度、声がする。
「ユリ」
今度ははっきり聞こえた。
俺は息をのんだ。
声の主は見えない。
それなのに、確かに聞こえている。
ユリの口が震える。
「お母さん……?」
俺は固まった。
ユリの母さんは――
もう、この世にいない。
「え……?」
思わず声が漏れる。
でも、俺にも聞こえていた。
確かに。
「……ほんとだ」
「聞こえる」
俺は周りを見回す。
丘の上には、俺たち三人しかいない。
それなのに。
「ユリ」
その声は、またユリの名前を呼んだ。
ユリの目から涙がこぼれる。
「会いたかった……」
その瞬間、にこが叫んだ。
「ねえ!」
「誰と話してるの!?」
俺ははっとして、にこを見る。
にこの顔は青ざめていた。
「なぎ!!」
「ユリ!!」
必死に呼んでいる。
でも、なぜか声が遠い。
まるで、俺たちだけ別の場所にいるみたいだった。
風の音がゆっくり強くなる。
草がざわざわと揺れる。
その音の中で、ユリの母さんの声がまた響く。
「ユリ」
にこが叫ぶ。
「なぎ!!」
「ユリ!!」
その瞬間、体がびくっと動いた。
ユリが大きく息を吸う。
俺もはっとして目を開けた。
目の前に、にこの顔がある。
「誰と話してたの!?」
風が丘を通り抜ける。
草が大きく揺れる。
俺とユリは顔を見合わせた。
そして、同時に気づく。
あの声は―
にこには聞こえていなかった。




