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第五章(夢じゃなくて夢)

朝の空気は、思ったよりも冷たかった。

目が覚めた瞬間、俺は少しだけ息を止めた。胸の奥に、まだあの丘の音が残っている気がしたからだ。低くて、重たいチェロの音。夢だったはずなのに、現実よりもはっきりと耳に残っている。

時計を見る。七時を少し過ぎたところだった。

「……夢か」

小さくつぶやく。

でも、そう言い切るには少しだけ無理があった。

昨夜、丘でユリは確かに言った。

「明日、私の家に来て」

夢の中の約束なんて、普通は覚えていないものだ。でも俺は、その言葉だけをはっきり覚えていた。むしろ忘れられないと言った方が近い。胸の奥が、少しざわつく。俺は布団から起き上がり、制服に袖を通した。鏡を見ると、いつもの自分がそこにいる。寝癖のついた髪と、少し眠そうな顔。夢の丘に立っていた「僕」とは違う、現実の俺だった。

「……まあいいか」

小さく息を吐く。

学校へ行けば、いつもの日常が始まる。夏樹がくだらない話をして、ひびきがそれに呆れて、クラスはいつも通り騒がしい。ユリだって、ただの転校生としてそこにいるだけだ。

夢のことなんて、きっと関係ない。そう思って家を出た。

外の空は、雲ひとつない青だった。夜の星なんてどこにもない。あの丘の空とはまるで違う、現実の空だった。

学校までの道を歩きながら、俺は何度かポケットの中のスマホを触った。特に理由はない。ただ、何かを確かめたいような気持ちがあった。でも画面を開いても、特別な通知なんて何もない。当たり前だ。夢の中の約束が、スマホに届くわけがない。

校門が見えてくる。

ちょうどそのとき、後ろから声がした。

「おーい、渚!」

振り向くと、夏樹が手を振っていた。

「朝からぼーっとしてんじゃねーよ」

俺は少し笑う。

「別に」

「いや、してたって。さっきから三回くらい名前呼んだぞ」

「まじか」

夏樹は俺の顔をじっと見て、ニヤッと笑った。

「さては考え事だな」

「違う」

「じゃあ恋だ」

「違うって」

夏樹は楽しそうに肩をすくめた。

「まあいいや。そういえばさ」

少し声を潜める。

「昨日の転校生、覚えてる?」

俺の足が、ほんの一瞬だけ止まった。

「……ユリ?」

「そうそう」

夏樹は頷く。

「今日さ、昼休み一緒に飯食うことになったんだよ」

「へえ」

「ひびきと友達らしいんだよな」

校舎の入り口が近づいてくる。

夏樹は何気ない顔で言った。

「渚も来いよ」

俺は少しだけ考えてから、肩をすくめた。

「別にいいけど」

教室に入ると、すでに何人かのクラスメイトが来ていた。朝のざわざわした空気。窓の外では、部活の声が遠くから聞こえてくる。

いつも通りの学校だった。

でも、ひとつだけ違った。

窓際の席に、ユリが座っていた。

昨日と同じ、静かな表情。

でも俺と目が合った瞬間、彼女はほんの少しだけ微笑んだ。

その笑顔を見たとき、胸の奥で何かが引っかかった。

夢の中のユリと、同じ笑い方だった。

昼休み。俺と夏樹は、ひびきの席の近くに集まっていた。食堂へいって、四人でテーブルを囲むように座る。

ひびきがユリに笑いかける。

「ねえユリ、日本の学校どう?」

ユリは少し考えてから言った。

「……懐かしい感じ」

「前も日本いたんだっけ?」

「うん、小さい頃」

そう言って、ユリはちらっと俺を見た。

ほんの一瞬だったけど、確かに視線が合った。

夏樹がパンをかじりながら言う。

「そういえばさ、ユリってどこ住んでるの?」

ユリは少しだけ迷ったような顔をしてからユリは答えた。

「丘の近く」

「えぇ?!丘?なにそれ(笑)」

とひびきが言う。

しかし、その言葉を聞いた瞬間、俺の心臓が強く鳴った。

丘。

昨夜の夢が、頭の中によみがえる。

音符みたいな星。

低く響くチェロの音。

ユリの声。

―明日、私の家に来て。

ユリは俺を見たまま、小さく言った。

「なぎちゃん」

その呼び方に、夏樹が目を丸くする。

「え、渚のこと知ってんの?」

ユリは少し笑った。

「うん」

それから、静かに言った。

「今日、来てくれる?」

教室のざわめきが、遠くなる。

夢と現実の境界が、少しだけ揺れた気がした。

俺はしばらく黙っていたけど、やがて小さく息を吐いた。

「……分かった」

そう答えると、ユリは安心したように微笑んだ。

その笑顔は、昨日の夢の中で見たものと同じだった。

昼休みの残り時間は、ほとんど覚えていない。夏希が何か面白い話をしていた気もするし、ひびきがそれにツッコミを入れていた気もする。でも俺の頭の中には、ずっと同じ言葉だけが残っていた。

―丘の近く。

それと、あの夢。

チャイムが鳴る。

午後の授業が始まり、黒板にチョークの音が走る。先生の声はいつも通り淡々としていた。ノートを取る手は動いているのに、頭の中はどこか別の場所にいるみたいだった。

窓の外の空は、昼よりも少しだけ柔らかい色になっていた。

俺は何度か視線を横に向けた。ユリは窓際の席で、静かに前を向いている。ときどきペンを動かして、ノートに何かを書いていた。

夢の中のユリは、もっと幼かった。

それなのに、なぜか同じ人だと分かる。

不思議な感覚だった。

授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。

教室の空気が一気にゆるむ。椅子を引く音、鞄のチャックを閉める音、友達同士の声が一斉に広がる。

「渚!」

後ろから肩を叩かれた。振り向くと、夏樹が立っていた。

「今日どうすんの?」

「何が」

「何がって……ユリん家行くんだろ?」

俺は少しだけ黙った。

「……まあ」

夏樹はにやっと笑う。

「お、青春じゃん」

「違うって」

「いや絶対なんかあるだろ」

「ない」

「ほんとかよ」

ひびきも近づいてきて、呆れた顔をした。

「なつ、うるさい」

「だって気になるじゃん」

ひびきはユリの方をちらっと見て、それから俺に言った。

「ユリ、ちょっと体弱いからさ」

「……そうなの?」

「うん。だからあんまり遅くならないであげて」

その言葉に、胸の奥が少しだけ重くなった。

俺は小さくうなずいた。

「分かった」

そのときだった。

「なぎちゃん」

振り向くと、ユリが教室の入り口の近くに立っていた。すでに鞄を肩にかけている。

「行こ?」

それだけ言って、軽く笑う。

俺は席を立った。

「じゃあな」

夏樹が手を振る。

「おう、頑張れよ」

「何を」

「知らん」

教室を出ると、廊下には夕方の光が差し込んでいた。窓の外の空は少しずつ色を変えていて、昼とは違う静かな青になっている。

ユリは俺の少し前を歩いていた。

俺たちは丘を横目に見ながら、そのまま住宅街の奥へ歩いていった。

しばらく歩くと、ユリが立ち止まった。

「ここ」

目の前には、小さな二階建ての家があった。白い壁で、庭にはまだ新しい自転車が置いてある。引っ越してきたばかりなのか、どこか生活の匂いが薄かった。

ユリは玄関の鍵を開けて、振り返った。

「どうぞ」

家の中は静かだった。

靴を脱いで上がると、リビングからほんの少しだけ夕焼けの光が入っている。家具は多くなくて、広い空間が少しだけ寂しく見えた。

「親は?」

俺が聞くと、ユリは肩をすくめた。

「仕事」

それから少し笑う。

「海外の」

なるほど、と俺は小さくうなずいた。

ユリはテーブルの向こう側の椅子に座り、俺にも向かいの席を勧めた。

「座って」

俺は椅子を引いて座る。

少しだけ沈黙があった。

窓の外では、風が木を揺らしている。

ユリはテーブルの上に両手を置いて、ゆっくり口を開いた。

「ねえ、なぎちゃん」

「ん?」

「夢、見た?」

その言葉に、俺の心臓が少し跳ねた。

「……見た」

ユリは小さくうなずいた。

「やっぱり」

俺は腕を組む。

「ユリも?」

「うん」

ユリは少しだけ遠くを見るような目をした。

「丘の夢」

「星が音符みたいに並んでる」

「低い音がする丘」

俺は黙った。

完全に同じ夢だった。

しばらく沈黙が流れる。

窓の外の空は、もうほとんど夜の色になっていた。

「なんでだろうね」

ユリがぽつりと言う。

「同じ夢」

「同じ丘」

「同じ空」

俺は息を吐いた。

「分からない」

正直な答えだった。

でも、ユリは首を振らなかった。

むしろ少し嬉しそうに笑った。

「でもね」

ユリはゆっくり言う。

「私、嫌じゃない」

俺は顔を上げた。

ユリは窓の外の空を見ている。

「だって」

「夢の中だと、ちゃんと小さい頃のなぎちゃんに会えるから」

その言葉を聞いて、胸の奥が少し痛くなった。

ユリは俺の方を見る。

「なぎちゃん」

「ん?」

「あと半年なんだよね」

俺は少しだけ黙った。

それから、小さくうなずいた。

「……うん」

ユリは、少しだけ考えるような顔をした。

それから、ふっと笑った。

「じゃあさ」

「一緒に作らない?」

「何を」

ユリは立ち上がって、棚からノートを一冊持ってきた。

それをテーブルの真ん中に置く。

表紙は真っ白だった。

ユリはペンを持って、最初のページを開く。

「死ぬまでにやりたいこと」

そう書いた。

それから、俺の方を見る。

「リスト」

俺は思わず笑った。

「急だな」

「いいじゃん」

ユリも笑う。

「どうせならさ」

「ちゃんと生きようよ」

その言葉は、驚くほど軽い調子だった。

でも、どこか本気だった。

ユリはペンを俺の前に差し出した。

「一個目、なぎちゃん書いて」

俺は少し迷ってから、ペンを取った。

白いページを見る。

「死ぬまでにやりたいこと」

その文字の下に、俺はゆっくり書いた。

一つ目。

丘で星を見る。

ユリがそれを見て、くすっと笑った。

「それ、夢でいつもやってる」

「でも現実でやってない」

ユリは少し考えてから、二つ目を書いた。

夜中に丘に二人で行く

それから顔を上げる。

「ね」

「なんか楽しくなってきた」

俺はそのノートを見ながら、小さく息を吐いた。

窓の外の空には、もう星が出始めていた。

夢の丘の空とは違う、現実の星。

でも、どこか似ている気がした。

リストを書き終わったあと。

ユリが時計を見る。

「もうこんな時間」

外はもう暗い。

俺も窓の外を見る。

帰ろうと思えば帰れる時間だ。

でも、なんとなく席を立てなかった。

するとユリが少し迷うように言う。

「ねえ」

「今日、泊まっていく?」

俺は驚いて顔を上げる。

「え」

ユリは少し慌てて続ける。

「いや、その、変な意味じゃなくて」

「親いないし」

「部屋余ってるし」

「それに……」

ユリは少しだけ笑った。

「夢の続き、見たいから」

その言葉を聞いて、俺は少しだけ考える。

夢。

あの丘。

低いチェロの音。

もし本当に、あの場所にまた行けるなら。

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