第四章(真実の告白と音楽)
目を開けると、そこはいつもの場所だった。
夜の丘だ。
草の匂いが薄く漂っている。夜露を含んだ草が足元で静かに揺れていて、触れればきっと冷たいだろうと分かる。風は弱く、けれど止まっているわけではない。丘を撫でるように、静かに流れていた。
空には、音符みたいに星が並んでいる。
丸い光がぽつぽつと浮かび、見えない線でつながっているように見える。
まるで誰かが夜空に五線譜を書いて、その上に星を置いたみたいだった。
僕はこの空を、勝手に「音符の空」と呼んでいる。
普通の人は夢の中で空を見ても、その並びなんてすぐに忘れてしまうのかもしれない。
夢は曖昧で、目が覚めればすぐに崩れてしまうものだから。
でも僕は違う。
この丘のことも、この星の並びも、何度夢で見てもちゃんと覚えている。
夢のはずなのに、ここだけは現実よりも確かな輪郭を持っている気がする。
草の一本一本の形も、遠くの街の灯りも、空に並ぶ星の配置も。
全部、はっきり覚えている。
それなのに。
今夜は少しだけ様子が違っていた。
空気が重い。
胸の奥に、誰にも言えない秘密を沈められたみたいで、息をするのがほんの少し苦しい。
ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。
それでも胸の奥の重さは消えなかった。
まるで見えない石を心臓の上に置かれているみたいだった。
星の高さも、いつもより低い気がした。
いつもはもっと高いところで瞬いているはずの光が、今夜は少しだけ地平線の近くにある。
まるで見えない重力に引っ張られて、地面のほうへ沈もうとしているみたいだった。
そして、何より違っていたのは音だった。
この丘には、いつも音がある。
完全な静寂ではない。
草が揺れる音。
風が丘を撫でる音。
そして、その奥にある、見えない楽器の音。
前にここへ来たときは、ヴァイオリンみたいな高く透き通った音だった。
風が草を撫でると、その音が夜の空気の中へ溶けていく。
高く、軽く、どこまでも遠くへ伸びていく旋律。
静かな夜の空に浮かぶ、細い弦の震えだった。
でも今は違う。
丘全体が、低く震えている。
深くて重い音。
まるで地面の底から響いてくるみたいだった。
チェロの音だ。
低く、深く、重たい音。
その低音が、ゆっくりと丘を満たしている。
ドクン。
心臓が鳴る。
胸の奥で響いた鼓動が、丘のチェロの音とぴったり重なっていることに気づいた。
もう一度鼓動が鳴る。
ドクン。
そのリズムも、同じだった。
まるでこの場所そのものが、僕の命とつながっているみたいだった。
僕は草の上に座り、膝を抱えた。
遠くの街の灯りが丘の下で小さく瞬いている。
車のライトが細い線になって動いている。
誰かの家の窓の光が、星の代わりみたいに地上で輝いている。
静かな夜だった。
それなのに、胸の奥では低い音がずっと鳴り続けている。
チェロの弦が、ゆっくり震えている。
そのときだった。
「……音、低くなったね」
後ろから声がした。
振り向かなくても分かる。
ユリだった。
彼女はいつの間にか、僕の隣に座っていた。
夢の中の時間は不思議だ。
昨日の教室では少し緊張していた彼女が、ここではずっと前から僕の隣にいたみたいな顔をしている。
まるで最初から、ここで一緒に星を見ていたみたいに。
ユリは空を見上げたまま、小さく笑った。
夜風が彼女の髪を揺らす。
月の光を受けて、その髪が淡く光っていた。
「なぎちゃん、知ってる?」
僕は黙ったまま、空を見上げる。
星は重たそうに瞬いていた。
ユリはゆっくり言った。
「この丘の音ってね、私たちの心臓の音なんだよ」
彼女はそう言って、空を指さした。
「命がすり減るほどに、弦は緩んでいくの」
丘の低いチェロの音が、静かに続いている。
「だから音は、どんどん低くなる」
丘に響くチェロの低音は、まるで地の底から聞こえてくるみたいだった。
それは同時に、僕たちの残り時間を刻むメトロノームの音のようにも思えた。
僕は少しだけ目を閉じた。
もう隠す必要はないんだと思った。
学校の教室では言えなかった。
あの夕方の図書室でも、言葉にすることができなかった。
でも、この夢の中なら。
透明な空気と一緒に、全部吐き出せる気がした。
僕はゆっくり息を吸った。
胸が少し痛んだ。
「……僕、もうすぐ死ぬんだって」
声が少しだけ震えた。
夜の空気が冷たい。
「あと半年。今日、お医者さんに言われたんだ」
言葉が夜の空気の中へ溶けていく。
その瞬間、丘の音がさらに一段低く沈んだ気がした。
チェロの弦が、わずかに緩んだような音。
世界から少しだけ色が抜けたような感覚だった。
しばらく、何も起きなかった。
風が吹く。
草が揺れる。
星が小さく瞬く。
でも次の瞬間。
ユリが崩れ落ちるみたいに、僕に抱きついてきた。
細い腕が背中に回る。
思っていたよりも強く抱きしめられて、少し驚いた。
彼女の体は小さく震えていた。
肩が、微かに揺れている。
「なぎちゃん……会いたかった」
ユリは僕の肩に顔を埋めたまま、掠れた声で言った。
「私もね、病気なの」
僕は息を呑んだ。
夜の空気が急に冷たく感じた。
「もう治らないんだって」
その言葉は静かだった。
でも、その静けさが逆に現実味を持っていた。
ユリは涙をこぼしながら、でもどこか嬉しそうに笑った。
「だから日本に帰ってきたの」
彼女は言う。
「なぎちゃんに会うために」
その言葉を聞いたとき。
胸の奥が、強く締めつけられた。
痛いのに、どこか温かい。
ユリは涙を拭きながら、小さく言った。
「お揃いだね、私たち」
その言葉を聞いたとき。
胸の奥が痛いのに、なぜか少しだけ救われた気がした。
死に向かう足音は、あまりにも低くて、不気味だ。
チェロの音のように、ゆっくりと沈んでいく。
でも、その音の底で。
僕たちの心は確かに同じリズムで鳴っていた。
ドクン。
ドクン。
二つの鼓動が、丘の音と重なっている。
ユリが顔を上げて、僕を見る。
涙で濡れた瞳が、星の光を映していた。
「なぎちゃん、明日、私の家に来て」
彼女の体が、少しずつ透け始めていた。
夢が終わろうとしている。
朝が近い。
「話したいことがたくさんあるの」
夜の空が、少しずつ白んでいく。
星の光が弱くなる。
「約束だよ」
僕はゆっくり頷いた。
胸の奥でチェロの音が鳴っている。
「うん、約束だ」
その瞬間。
星が一斉に輝いた。
光が弾けて、夜の景色が崩れていく。
丘も、空も、草も、星も。
すべてが光の粒になって、ばらばらにほどけていった。
目を開ける。
そこには見慣れた天井があった。
白い天井。
静かな部屋。
頬を触ると、涙で濡れていた。
カーテンの隙間から、冷たい朝の光が差し込んでいる。
世界は、いつも通りの朝だった。
それでも耳を澄ますと。
あの低いチェロの音が、まだ胸の奥で鳴っている気がした。
残された時間は長くない。
半年。
百八十日。
それでも。
この短い楽譜を、最後まで弾ききろうと思った。
途中で止めるわけにはいかない。
どんなに短くても、曲は曲だ。
俺とユリだけの、半年間という短い曲。
その幕が、静かに上がろうとしていた。




