第三章(突然の訪問と終わり)
二度目に目が覚めたとき、世界はひどく無機質だった。
窓の外は、ゆっくりと白み始めている。夜の深い群青を、誰かが薄い灰色の絵の具で上から塗りつぶしていくみたいに、朝が静かに忍び寄ってきていた。
夜の星楽譜は、もう見えない。
夢の中であれほど鮮やかに輝いていた音符たちは、今では跡形もなく消え、ただ均一な空の色だけが広がっている。
午前二時に見たあの夢の残像が、網膜の裏側に焼き付いて離れない。
丘の風。
草の匂い。
夜空に並んだ音符のような星。
そして、中学生くらいの姿をした彼女―ユリ。
夢の中で、俺の隣に座っていた彼女。
肩に触れる重み。
星屑のような香り。
すべてが、現実よりもはるかに鮮明だった。
雨の音楽室。
並木道の帰り道。
夕焼けに染まる図書室。
それらは、俺の人生には存在しないはずの記憶だ。
なのに、胸の奥ではっきりと息づいている。
偽物のはずなのに、
俺の胸を締め付けるこの痛みだけは、何よりも本物だった。
「……また、あそこに行けば」
思わずこぼれた言葉は、乾いた部屋の空気の中で小さく砕け、どこにも届かないまま消えていった。
俺はゆっくりと上半身を起こす。
シーツはまだ夢の湿り気を帯びている気がした。
手のひらで顔をこすり、枕元のスマホを見た。
画面の光が、やけに冷たく感じる。
鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、見慣れたはずの自分の顔だった。
だが、その目はどこか遠くを見ている。
まるで、
遠い国の他人の顔を借りているみたいだった。
―ピンポーン。
唐突に鳴り響いたインターホンの音が、静まり返った部屋の空気を鋭く切り裂いた。
心臓がわずかに跳ねる。
こんなに早い時間に、誰だろう。
にこにしては、合鍵を使わないのは不自然だ。
あいつならノックもせずに入ってくる。
俺は寝癖のついた髪を手ぐしで適当に整えながら、玄関へ向かった。
床板の冷たさが足裏に伝わる。
妙に現実感のある感触だった。
ドアノブを回す。
玄関の扉を開けた瞬間、朝の冷たい光が室内に流れ込んできた。
その光を背負うようにして、
一人の少女が立っていた。
「Bonjour」
その声を聞いた瞬間、
俺の心臓は、調律の狂ったピアノのように激しく跳ねた。
ユリだった。
学校で見せた少し緊張した面持ちではない。
そこにいたのは、
夢の中で俺の隣に座っていた彼女と同じ、
いたずらっぽく、
けれどどこか寂しげな笑みを浮かべた少女だった。
朝の光を受けた彼女の髪は、淡い金色に近い色で輝いている。
風が吹くたび、細い髪が光を散らす。
「est-ce que tu es Nagi?
(あなたが、なぎちゃん?)」
その言葉を聞いた瞬間、
世界が一瞬止まった気がした。
なぎちゃん。
それは、俺の本当の名前――
「渚」ではなく、
夢の中で彼女だけが呼んでいた、
あの呼び方だった。
めまいがした。
現実と夢の境界線が、足元から音を立てて崩れていく。
「……Oui. je suis Nagisa
(そうだよ。俺がなぎさだ)」
自分の声とは思えないほど震えた声で答える。
その瞬間、ユリの顔がぱっと明るくなった。
花が咲くような笑顔だった。
「Alors, on y va!(さあ、行きましょう!)」
彼女は俺の返事を待たず、
まるでここが自分の家であるかのように、
土足に近い勢いで上がり込んできた。
リビングまで歩きながら、
ちらりと俺の制服を見て、
「遅い」
と日本語で小さく笑った。
その声は、夢の中で聞いたものとまったく同じだった。
彼女の指先が俺の襟元に触れる。
乱れたネクタイを直しているらしい。
その瞬間――
ふわりと香りがした。
冬の夜の星屑みたいな、
冷たくて甘い匂い。
夢の中で感じたあの香りと、まったく同じだった。
夢が、現実を追い越していく。
俺たちはそのまま、言葉少なに家を出た。
けれど、このときの俺はまだ知らなかった。
この眩しい再会が、
俺たちの人生という楽譜に書き込まれた、
最後にして、
最も残酷な転調の始まりであることを。
学校へ向かう道すがら、
ユリは空のことばかり話していた。
つたない日本語と、流れるようなフランス語を混ぜながら。
「日本の空は、フランスより少しだけ低く感じる」
彼女はそう言って、空を見上げた。
朝の空は薄い青色で、まだ雲が少ない。
「低い?」
俺が聞き返すと、彼女は頷いた。
「うん。でもね」
少し考えるように空を見てから言った。
「低い空のほうが、あの曲を聴くにはちょうどいい」
「あの曲?」
俺が聞くと、ユリはくすっと笑った。
「内緒」
そして、俺の顔を覗き込む。
「まだ、なぎちゃんが全部思い出してないから」
その瞳は、どこか遠いものを見ていた。
俺の奥底にある「偽物の記憶」を、
静かに揺さぶるような視線だった。
結局、学校ではいつもの騒ぎが始まった。
夏樹が大声で騒ぎ、
ひびきが呆れた目でそれを見ている。
ユリは当然のように注目の的になった。
転校生。
しかもフランスから来た少女。
教室の空気は一日中ざわついていた。
その喧騒の端っこで、
俺はただ、自分の中に芽生えた違和感を押し込めていた。
放課後。
俺はユリの誘いを断り、
一人で病院へ向かった。
一週間前に受けた、定期検診の再検査。
その結果を聞くためだった。
「念のための検査だから」
何度も自分にそう言い聞かせながら、
白い廊下を歩く。
消毒液の匂いが、鼻の奥を刺す。
病院の空気はいつも同じだ。
静かで、
冷たくて、
どこか現実味がない。
診察室のドアを開ける。
中には初老の医師がいた。
モニターを見つめる顔は、
ひどく沈痛だった。
「……花岡渚さんであってますよね」
医師はゆっくりと顔を上げる。
「ここに座ってください」
その声のトーンだけで、
世界から音が消えた気がした。
椅子に座る。
冷たい感触が、ズボン越しに伝わってくる。
「精密検査の結果が出ました」
医師はモニターの画像を指した。
そこには、
俺の体の中の断面図が映っていた。
その中心に、
黒い影のようなものがある。
「落ち着いて聞いてください」
医師は少し言葉を選ぶようにして言った。
「本当に残念なのですが……膵臓癌です」
時間が止まった。
「それも、かなり進行している。末期の状態です」
言葉が、意味を持たない音になる。
「おそらく治療をしても、よくなることはないです」
膵臓癌。
末期。
頭の中を、その言葉だけが何度も反響する。
ドラマや小説の中の言葉だったはずなのに。
それが今、
俺の人生に牙を剥いている。
「……あと、どのくらい、生きられるんですか」
自分の声ではないような声が出た。
医師は少し目を伏せた。
「治療を最大限に行っても……」
沈黙。
「余命は、半年ほどでしょう」
半年。
六ヶ月。
百八十日。
窓の外を見る。
夕焼けが燃えていた。
世界が、赤く染まっている。
あまりにも綺麗で。
思わず、笑いがこぼれた。
夢の中でユリは言った。
『将来さ、またここに来ようね』
将来。
その言葉を、
俺はもう使えない。
病院を出た。
街はいつも通りだった。
人々は歩き、
自転車のベルが鳴り、
スーパーのアナウンスが流れている。
数時間前まで、
俺もその日常の中にいた。
でも今は、
透明な壁の向こう側にいる気がする。
俺はふらふらと、
家とは反対方向の丘へ歩いた。
坂道を登る。
息が苦しい。
それが病気のせいなのか、
絶望のせいなのか、
もうわからなかった。
丘の上に着く。
街の灯りが、ぽつぽつと灯り始めている。
夢で見た景色。
「……っ」
俺は地面に膝をついた。
どうして今なんだ。
やっとユリに会えたのに。
夢の中で、
あんなに綺麗な時間を見たばかりなのに。
神様がいるなら、
きっと最悪のサディストだ。
そう思えるほど、
俺は絶望の底にいた。
見上げた夜空。
まだ星は少ない。
でも俺には見えた。
音符になりかけの光たち。
俺の人生という曲は、
サビに入る前に終わるのか。
「なぎちゃん?」
背後から声がした。
振り返る。
ユリが立っていた。
夕闇の中でも、
その瞳ははっきりと俺を見ていた。
「どうしてここに?」
「なんとなく」
彼女は笑った。
「なぎちゃんがここにいそうな気がしたから」
彼女は隣に座る。
冷たい風が吹く。
「風、冷たいよ」
「いいの」
ユリは空を見る。
「私、冷たい風のほうが好き」
「星が綺麗に見えるから」
空を見上げる。
星が一つ、また一つ。
夜空の五線譜に並んでいく。
「ねえ、なぎちゃん」
彼女が俺の手を握る。
手は驚くほど冷たかった。
「あの約束、忘れてないよね?」
「……約束?」
「またここで会おうねって」
胸が痛む。
言えない。
俺はもうすぐ死ぬなんて。
「……うん」
俺は嘘をついた。
ユリは嬉しそうに笑った。
そして、
俺の肩に頭を預ける。
夜空の楽譜が回る。
俺の残り半年の時間が、
静かに砂時計から落ちていく。
空には、
新しい旋律が書き加えられていく。
それは鎮魂歌かもしれない。
それとも再会の前奏曲かもしれない。
ただ一つ確かなのは――
俺たちの夜は、
まだ始まったばかりだということだった。
「……また、明日ね、なぎちゃん」
「うん。また、明日」
明日の来ない日がいつか来ると知りながら。
俺たちは星の丘で、
守れない約束を重ねた。




