第二章(またあの夢で)
深い眠りの底へと沈んでいくとき、世界はいつも少し歪む。
まるで静かな湖の底へ沈んでいくみたいに、現実の輪郭がゆっくりとぼやけていく。
さっきまで確かだった部屋の天井や壁の形が、いつのまにか遠くへ溶けていく。
音も同じだった。
時計の針の音。
窓の外の風。
遠くの車の走る音。
それらすべてが、少しずつ遠ざかっていく。
そして、代わりに聞こえてくる音がある。
それは決まって、ピアノの音だった。
けれど普通のピアノじゃない。
どこか調律の狂ったピアノみたいな、少し歪んだ音。
カン……
……コロン……
遠くの鍵盤が、誰にも触れられていないのに勝手に鳴るみたいに響く。
その音は、綺麗な旋律ではない。
むしろ少し不安定で、どこか不協和音に近い。
それでも不思議と耳を離れない。
むしろ、その音を聞いた瞬間、僕はいつも確信する。
ああ、まただ。
また僕は、あの場所へ行くんだ。
鍵盤の音はゆっくりと重なり、旋律にもならない旋律を作りながら、現実の境界を溶かしていく。
意識の端が夜の闇へ溶けていく。
身体は現実の重力から少しずつ解き放たれ、軽くなっていく。
そして僕は―
また「あの場所」へ辿り着く。
夜の丘だった。
静かな丘。
冷たい風が、草原を撫でるように吹いている。
さらさらと草が揺れる音が、波みたいに丘を渡っていく。
空気は澄んでいて、冷たい。
息を吸うと、胸の奥まで夜の空気が入り込む。
遠くの街の灯りが、小さく瞬いている。
丘の上から見るその光は、まるで夜の海に浮かぶ船の灯りのようだった。
静かで、遠くて、そしてどこか懐かしい。
この場所は初めて来たはずなのに、なぜか昔から知っている気がする。
そして―
空。
そこには、あの星空があった。
丸い光。
それを繋ぐ細い線。
音符。
夜空いっぱいに広がる巨大な楽譜。
無数の星たちが旋律を描くように並び、見えない五線譜の上で静かに輝いている。
まるで宇宙そのものが、ひとつの音楽になったみたいだった。
ただの星空ではない。
空そのものが、音楽だった。
けれど今日は、いつもと少し違っていた。
星の並びが変わっている。
以前よりも複雑だった。
音符が増えている。
線も増えている。
前に見たときより、ずっと長い旋律になっている。
まるで誰かが、この星空の楽譜に新しい曲を書き足したみたいだった。
風が吹く。
その音は、どこかヴィオラの低い響きに似ている。
丘全体が巨大な楽器の共鳴箱みたいに静かに震えていた。
そのときだった。
「遅いよ、なぎちゃん」
背後から声がした。
振り返る。
そこにいたのは、あの女の子だった。
でも―
少し違う。
昨日見たときよりも、ほんの少し背が高くなっている。
髪も少し長くなっていた。
夜風に揺れる髪が、月の光を受けて淡く輝いている。
小学生だったはずの面影が、今はもう中学生くらいの姿へ変わっていた。
少女と大人の狭間。
まだ子どもなのに、どこか大人びている。
時間の流れの中で一瞬だけ現れる、壊れやすくて綺麗な年頃。
まるで誰かが「成長」という時間を途中で切り取って、この夢の中に置いたみたいだった。
僕は戸惑いながら言った。
「……だれ?」
女の子は目を丸くした。
「え?」
そして少し困ったように笑う。
「なぎちゃん、ひどい」
その声は優しかった。
でも少しだけ寂しそうでもあった。
「夜が明けちゃうから、はやくこっちきて」
彼女は丘のベンチに座りながら手を振る。
「もしかして、忘れたの?」
「毎日ここで、こうして星の楽譜を読んでいたじゃない」
僕はゆっくり歩いた。
足元の草が揺れる。
風が頬をなでる。
ベンチの隣に座ると、彼女は自然な動きで僕の肩に頭を預けてきた。
その重み。
柔らかい感触。
髪から漂う香り。
冬の夜の星屑みたいな、冷たくて甘い匂いだった。
距離が近すぎる。
初めて会ったはずなのに。
でも、不思議と嫌じゃない。
むしろ――
懐かしい。
胸の奥に、温かい感覚が広がる。
そして、その瞬間だった。
僕の頭の奥で、何かが弾けた。
映像が流れ込んでくる。
濁流みたいに。
止まらない。
それは、僕の知らない「僕たち」の記憶だった。
放課後の音楽室。
窓の外では雨が降っている。
雨粒が窓ガラスを叩き、細い線を作りながら流れ落ちていく。
教室には僕と彼女しかいない。
彼女はピアノの前に座っている。
指先がゆっくりと鍵盤の上を滑る。
静かな旋律。
優しくて、少し切ない音。
雨の音と混ざり合いながら、教室の空気を満たしていく。
僕は窓際の椅子に座り、外の雨を眺めている。
「なぎちゃん、ちゃんと聴いてる?」
彼女が笑う。
僕は振り返る。
「聴いてるよ」
「嘘」
「本当だって」
彼女はくすっと笑う。
その笑い声が、雨音の中に溶けていった。
場面が変わる。
並木道。
雨。
僕たちは一本の傘に入って歩いている。
肩が少し濡れている。
アスファルトに落ちた雨粒が、小さな円を作って広がっていく。
彼女が言う。
「将来さ」
「うん?」
「またあの丘に行こうね」
僕は笑った。
「いいよ」
「約束だからね」
彼女は嬉しそうに頷いた。
また景色が変わる。
図書室。
夕焼け。
窓から差し込むオレンジ色の光が、本棚を静かに染めている。
誰もいない図書室。
彼女は机に突っ伏して眠っている。
長い髪が机の上に広がっていた。
僕はその横で本を読んでいる。
ページをめくる音だけが静かな空間に響く。
とても穏やかな時間。
まるでこの時間だけ、世界が止まっているみたいだった。
そして、あの丘。
夜空の楽譜。
僕たちは並んで座っている。
「この星の並び」
彼女が指をさす。
「僕たちの曲だね」
僕が言う。
彼女が笑う。
星が静かに瞬く。
夜風が優しく吹く。
その瞬間が、世界で一番大切な時間みたいに感じた。
記憶が途切れた。
僕は息を呑んだ。
そんな記憶、僕にはない。
でも――
心は覚えている。
胸の奥が強く痛んだ。
夢の中の彼女が、静かに僕を見つめている。
透き通るような瞳。
その中には、星よりも明るい光があった。
でも同時に、どこか消えそうな儚さもあった。
僕は怖くなった。
もし手を伸ばしたら、この子は朝の霧みたいに消えてしまうんじゃないか。
そんな気がした。
僕は震える声で聞く。
「……なんて言ったんだ?」
彼女は少しだけ寂しそうに笑った。
そして空を指差す。
「『将来さ、またここに来ようね』って」
「たとえ道が分かれても、空を見上げれば、そこには必ずこの楽譜があるからって」
胸が痛んだ。
鋭いナイフみたいに。
記憶にはない。
それでも、心は覚えている。
僕は言った。
「君は……ユリなのか?」
彼女は答えなかった。
ただ体が少しずつ崩れていく。
砂時計の砂みたいに。
夜の闇へ溶けていく。
「忘れないでね」
彼女の声が遠くなる。
「空は、どこにいても繋がっているの」
「たとえ片方が見えなくなってしまっても」
「もう片方が見上げていれば、それは会っているのと同じだよ」
風が強く吹く。
星が揺れる。
彼女の姿が消えかけている。
僕は手を伸ばした。
「待って!」
でも、掴めたのは冷たい夜気だけだった。
その時、彼女の頬に涙が一筋伝った。
その涙は小さな星になり、夜空の楽譜の中へ溶けていった。
―またここで会おうね。
気がつくと、僕は暗闇の中に一人だった。
俺は飛び起きた。
時計を見る。
午前二時。
静まり返った部屋の中で、心臓だけが激しく鼓動していた。
夢だった。
でも、ただの夢じゃない気がした。
胸の奥がまだ痛い。
俺はゆっくり目を閉じる。
そしてまた眠りへ落ちていく。
まるで、あの丘へ戻ることを願うみたいに。




