第一章(転入と再開)
朝の光は、どこか冷たかった。
カーテンの隙間から差し込む光が、床の上に細い線を作っている。
その光は静かで、まるで部屋の空気をそっと揺らすだけのようだった。
まだ秋が始まったばかりなのに、朝の空気にはわずかに冬の気配が混じっている。
窓の外の空は青く澄んでいるのに、どこか透明すぎて、少しだけ現実感が薄い。
俺はゆっくりと目を開けた。
ぼんやりと天井を見る。
見慣れた天井。
見慣れた部屋。
見慣れた朝。
それなのに、胸の奥に説明できない違和感が残っていた。
理由はわからない。
けれど、夢の残り香のようなものが、まだ頭の奥に漂っていた。
丘の上。
冷たい夜風。
遠くに瞬く街の灯り。
そして、空。
あの空。
星が、音符のように並んでいた。
丸い光と、それをつなぐ線。
まるで誰かが、夜空に楽譜を書いたみたいだった。
夢だったはずなのに、やけに鮮明に残っている。
そのときだった。
「兄者、起きろぉ!」
突然、体に重みがかかった。
「ぐえっ」
思わず変な声が出る。
目を開けると、妹が俺の腹の上に乗っていた。
「まじで遅刻するよ」
平然とした顔で言う。
「……なんでいるの」
まだ半分眠った頭で聞く。
妹は呆れたようにため息をついた。
「昨日泊まったでしょ」
「あー……」
そこで、ようやく思い出した。
両親が離婚してから、妹は母と暮らしている。
俺は父と暮らす予定だった。
けれど父は仕事で家にいないことが多く、
結局この家は、ほとんど一人暮らしみたいなものになっていた。
妹は、ときどき母に内緒で泊まりに来る。
「朝ごはん作っといたから」
「え、まじ?」
「にこ様に感謝しなさい」
そう言って妹はベッドから降りた。
俺は体を起こし、窓の外を見る。
青い空。
ゆっくり流れる雲。
夜の星はもう見えない。
それでも、胸の奥には残っていた。
あの空。
音符のように並んだ星。
そして―
「またここで会おうね」
夢の中で交わした約束。
意味なんてわからないはずなのに、
なぜか、忘れてはいけない気がした。
走りながら感じる朝の空気は、少し冷たかった。
頬に触れる風が、季節がゆっくり変わり始めていることを教えてくる。
空は高く、どこまでも澄んでいた。
俺は無意識に空を見上げる。
夜の星は見えない。
でも、もし夜になれば、
あの空がまた現れる気がした。
そんなことを考えているうちに、校門が見えてきた。
「おーい、渚!」
後ろから声がする。
振り向くと、夏樹が手を振っていた。
寝ぐせのついた髪。
少しだらしない制服。
いつも通りの夏樹だった。
「今日もギリギリだな」
「お前もだろ」
俺が言うと、夏樹は笑った。
「俺らさ」
「ん?」
「社会人になったら絶対クビになるタイプだよな」
「まだ学生だから大丈夫」
夏樹は肩をすくめる。
「その考え方がもうダメなんだよ」
そう言いながら、二人で歩き出す。
校門をくぐると、朝の学校の音が広がっていた。
自転車のブレーキ音。
遠くの笑い声。
廊下を走る足音。
いつもの朝。
普通の朝。
でも、その普通が、なぜか少し遠く感じた。
そのとき、夏樹が言う。
「なあ」
「ん?」
「ひびきって可愛くね?」
俺は少し考える。
ひびき。
夏樹の彼女。
学校でも有名な美人で、
通称―氷の女王ひびき様。
笑顔は滅多に見せない。
男子の告白は、ことごとく撃沈。
そんな彼女が、なぜか夏樹と付き合っている。
いまだに理由はよくわからない。
俺は正直に言った。
「……なんか怖い」
夏樹が止まる。
「は?何がだよ?」
「目が」
「お前なぁ」
呆れた顔をする。
俺は苦笑した。
「ごめん」
夏樹はため息をつきながら校舎へ向かった。
教室に入ると、朝のざわめきが広がっていた。
椅子の動く音。
窓から差し込む光。
クラスメイトたちの声。
すべて、いつもの普通だった。
ひびきはすでに来ていて、窓際の席で本を読んでいる。
黒い長い髪。
整った顔立ち。
横顔は、まるで彫刻みたいに整っている。
夏樹を見ると、小さく手を振った。
その瞬間だけ、表情が少し柔らかくなる。
夏樹は嬉しそうだった。
そのときだった。
教室のドアが開いた。
先生が入ってくる。
「席につけー!」
ざわめきが少し静まる。
先生は出席簿を閉じて言った。
「今日は転校生がいる」
教室が一気にざわついた。
「まじ?」
「男?女?」
「かわいい子?」
そんな声が飛び交う。
先生がドアを見る。
「入ってきてください。」
ドアが開く。
一人の女の子が入ってきた。
長い髪。
光に当たると、淡い茶色に見える瞳。
少し外国の人のような顔立ち。
でも、日本の雰囲気もある。
女の子は黒板の前に立ち、少し緊張しているようだった。
そして言った。
「ユリです」
静かな声だった。
「よろしくお願いします」
その瞬間、教室が一気に騒がしくなる。
「ハーフ?」
「かわいい」
「どこから来たの?」
そのときだった。
ひびきが立ち上がった。
そしてユリに話しかける。
フランス語だった。
教室が一瞬静かになる。
ユリの顔がぱっと明るくなる。
二人は楽しそうに会話を始めた。
しばらくして、ひびきが振り向く。
「みんなに説明するね」
クラスが注目する。
「この子はユリ」
「フランスと日本のハーフ」
「あと、私の友達」
「へー!」
「すご!」
教室がまた騒がしくなる。
俺は転入生に興味を持ちつつも、騒ぐ気にはなれず、
一人で小説を読んでいた。
そのときだった。
ふと、視線を感じる。
顔を上げる。
ユリが、俺の方を見ていた。
ほんの一瞬。
でも―
胸が強く鳴った。
ドクン、と。
理由はわからない。
今日、初めて会ったばかりなのに。
懐かしい。
そんな感覚があった。
まるで―
ずっと前から知っている人に、もう一度会ったような感覚だった。
その日の放課後。
夕方の光が図書室に差し込み、窓の外はオレンジ色に染まっていた。
クラスメイトはもうほとんど帰っていて、
俺は夏樹の補習が終わるのを、本を読みながら待っていた。
「なあ、渚」
夏樹が声をかける。
「おまえおせーよ」
「ごめんごめん。あの、今日なんだけどさ」
少し間を置いて言う。
「ユリと遊ばない?」
「……うん、なんで?」
夏樹は肩をすくめた。
「知らん。ユリが、お前と話したいらしい」
顎で教室の方を指す。
俺は少し戸惑いながら立ち上がり、夏樹と歩き始める。
「ちなみに……なんで俺?」
小さく聞く。
夏樹は笑った。
「さあな」
「でも、渚のこと気にしてるっぽかったぞ」
その言葉に、胸が少しざわついた。
教室に入ると、ユリがこちらを見ていた。
少し緊張しているような顔だった。
近くまで行くと、ユリは小さく頭を下げ、フランス語で言った。
「今日、ありがとう」
「……え?」
思わず聞き返す。
「急にどうした?」
ユリは少し困ったように笑った。
「あ、ごめん、なんでもない!」
少し間が空く。
教室には、もう夕方の静かな空気だけが残っていた。
遠くから部活の声が聞こえる。
ユリは窓の外を少し見てから、また俺を見た。
茶色の瞳。
そこに夕焼けの色が映っている。
「ねえ」
ユリが言う。
「なぎさくんって、星好き?」
突然の質問だった。
「……星?」
「うん」
俺は少し考える。
好きかと聞かれると、よくわからない。
でも―
夢の空が浮かんだ。
あの音符のように並んだ星。
俺は小さく答える。
「……嫌いじゃない」
ユリは少し驚いた顔をした。
「ほんと?」
「うん」
するとユリは、少し嬉しそうに笑った。
どこか安心したような笑顔だった。
「content que ça te plaisir(よかった。もし嫌いだったら、どうしようって思ってた)」
ユリが言う。
「え?」
フランス語は理解できるが、
なぜフランス語で返されたのかはよくわからない。
でも、不思議と聞き返せなかった。
結局その日は、学校で少し雑談をして、そのまま解散した。
帰り道、空はすっかり夕焼けに染まっていた。
夜になれば、星が出る。
もしかすると―
あの夢の空も、また現れるかもしれない。
そんなことを、ふと思った。




