第十一章(再開と別れ)
俺は重鉛を埋め込まれたような身体を緩慢に起こし、肺の最深部に澱んでいた熱い空気を、薄氷を割るような静けさの中で吐き出した。
呼吸を繰り返すたびに、内臓を素手で掴まれるような鈍い痛みが輪郭を強め、どうしようもない空虚さと重さだけが、澱のように胸の奥底へと沈殿していく。確かに酸素は肺へと取り込まれているはずなのに、溺れている時のような、あるいは空気そのものが希薄になってしまったかのような、薄ら寒い違和感が、ずっと消えずに俺の意識を支配していた。
枕元の時計に目を向けると、発光ダイオードの淡い光が、まだ夜が明けるには程遠い「三時」という数字を無機質に告げていた。
また、この深い夜の底に、一人きり置き去りにされてしまったらしい。
眠れない、というよりは、もはや眠るという行為にどんな意味を見出せばいいのか、その答えがわからなくなっていた。重い瞼を閉じるたびに、網膜の裏側には彼女との記憶が、呪いのように、あるいはあまりに鮮やかな残像として繰り返し上映される。それを何度も見せられるくらいなら、いっそこのまま、冷え切った暗闇の中で意識を研ぎ澄ませている方が、まだ自分を保っていられるような気がした。
身体中が、悲鳴を上げている。
それは特定の臓器が発するものではなく、全身の細胞一つひとつが、終わりの気配に怯えて震えているような、そんなじんわりとした鈍い痛みだった。
もう、立ち上がりたくない。
いっそこのままベッドの海に沈み込み、思考も、痛みも、愛おしい思い出さえもすべてが溶けて、何もせずに、ただ時間という概念だけが俺を通り過ぎてくれればいいのにと、心から願ってしまう。
それでも、指先は本能的に救いを求めるように、すぐ傍に脱ぎ捨てられていた服を掴み、緩慢な動作で袖に腕を通した。そこに確固たる意志があるわけではない。ただ、そうすることがあらかじめ決められたプログラムであるかのように、俺の肉体は精神を置き去りにして、勝手に「日常」を模倣し始めていた。
最低限の準備を整え、月光に照らされた机の上に置かれていた、昨日までの俺をどこへでも運んでくれたPASMOと、中身の空っぽな鞄を手に取る。
その瞬間、ほんの一瞬だけ、薄い膜を隔てたような躊躇いが指先に引っかかった。
けれど、それさえも今の俺にとっては、夜風に吹かれれば消えてしまうほどに微かな抵抗でしかなかった。
俺は思考を放棄したまま、重い扉を開け、静まり返った家を後にした。
外の世界は、まだ深い藍色の闇に包まれていた。
ナトリウム灯の頼りない光だけが、霧がかった道をオレンジ色にぼんやりと縁取り、視界に入る範囲には、生きている人間の気配はおろか、いつもなら路地裏に潜んでいるはずの野良猫の気配すら、どこにも感じられなかった。
突き刺さるような冷たい風が頬をかすめ、肌を削いでいく。
それは「寒い」という形容を超えて、剥き出しの神経に直接触れられるような鋭い感触だったが、不思議とそれを不快だとは思わなかった。痛みを感じるための感度すら、もうこの世界のどこかに置き忘れてきてしまったのかもしれない。
俺はただの空っぽな器として、意思を持たない振り子のように、足だけを交互に前へと進めていく。
―自分がどこへ向かおうとしているのか。
そんな問いに対する答えは、脳で考えるまでもなく、俺の奥底が最初から指し示していた。
気づけば俺は、磁石に引き寄せられる砂鉄のように、ユリの家へと続く坂道を登っていた。
インターホンを押すことはしなかった。
押したところで、返事が返ってくるはずがないと、最初からわかっていたからだ。
ポケットに手を入れる。
指先に触れたのは、ひんやりと冷えた金属の感触だった。
ゆっくりと取り出した合鍵を、しばらくの間、俺はただ見つめていた。
ユリがくれたものだ。
あのときの、少しだけ照れたような笑顔が、ぼんやりと頭の中に浮かぶ。
どこかいたずらっぽくて、それでいて大事なものを渡すみたいに、ほんの少しだけ真剣な顔をしていた。
「特別だからね」なんて、冗談っぽく言っていたけれど。
―本当に、特別だったんだな。
今になって、その言葉の意味が、胸の奥にじんわりと沈んでくる。
鍵を握る手に、少しだけ力が入る。
こんな形で使うことになるなんて、あのときは思ってもいなかった。
いや、きっと、あいつも思っていなかったはずだ。
それでも。
これが、今の俺に残された「繋がり」なんだと思うと、手放すことができなかった。
ゆっくりと、鍵穴に差し込む。
わずかに手が震えて、うまく入らない。
一度深く息を吐いてから、もう一度差し込む。
今度は、すっと入った。
そのまま、静かに回す。
カチッ、と小さな音がした。
ほんのわずかな音なのに、それがやけに大きく響いた気がした。
まるで、この静まり返った世界に、自分が踏み込んでしまったことを知らせる合図みたいに。
ゆっくりと、扉を押す。
重たい音を立てることもなく、扉はあっけなく開いた。
その先には、暗闇が広がっている。
一瞬だけ、足が止まる。
ここから先に進んだら、もう何も元には戻らない気がした。
それでも。
俺は、そのまま足を踏み入れた。
何の躊躇もないわけじゃない。
ただ、それ以上に、進まなきゃいけない理由の方が大きかった。
扉を閉める音が、やけに静かに響いた。
足を踏み出すたびに、床がきしむ音だけがやけに大きく響く。それが、ここに自分以外の誰かがいないことを、はっきりと証明しているみたいで、少しだけ胸が締め付けられた。
俺は迷わず、ユリの部屋へ向かう。
でもドアを開けた瞬間、空気が変わった気がした。見慣れたはずの部屋。変わっていないはずの景色。そうだったはずなのに、そこにかつてはあったユリの太陽のような暖かさは忽然と姿を消していた。
そこで俺はもう一度ユリがもういなくなることを改めて実感した。
それでも、ユリの手紙を読むために俺はいつもの場所から手紙を取り出した。指先はわずかに震え、今にも手紙を落としそうだった。しかし、目を逸らすことはできなかった。
封を切って、手紙をそっと開く。
その瞬間から、もう後戻りはできなかった。
『なぎちゃんへ
この手紙を読んでる頃には、たぶん私はもういないと思います。
こういう書き方、ずるいよね。ごめん。
ちゃんと直接言えればよかったんだけど、どうしても無理でした。
私ね、余命宣告を受けたあと、最初に思い浮かんだのがなぎのことでした。
もう一回会いたいって思った。
それだけは、どうしても諦められなかった。
だから日本に戻ってきました。
学校でなぎを見つけたとき、ほんとにびっくりした。
偶然すぎて、ちょっと笑いそうになったくらい。
あのとき、目が合ったでしょ。
覚えてくれてるって思って、すごく嬉しかった。
……違ったけどね。
でも、それでもよかった。
あのあとで、今のなぎを知れて。
ちゃんと前を向いてて、優しくて、少し無理してるところもあって。
そういう全部を見れて、私は本当に帰ってきてよかったって思えた。
だから、後悔はないです。
ひとつだけ、お願いがあります。
ちゃんと、生きてください。
難しいのはわかってる。
たぶん、すぐには無理だと思う。
でも、それでもいいから。
なぎがどこかで、少しでも笑えるように生きてくれたら、それでいい。
無理に忘れなくていいし、無理に強くならなくていい。
ただ、生きていてほしい。
それが、私の一番の願いです。
あとね、できればでいいんだけど。
最後まで笑っていてくれたら嬉しいです。
泣いてもいいけど、そのあとでいいから。
だって、また会えるでしょ。
そう思ってる方が、ちょっとだけ楽だから。
なぎちゃんのことが大好きでした。
ありがとう。
ユリ』
文字を追うごとに、ユリの声が頭の中で重なっていく。
少し軽くて、でもどこか優しい、あの声。俺が大好きだったユリの声。
内容を理解するたびに、呼吸が浅くなっていく。
知らなかったこと。
気づけなかったこと。
すべてが繋がって、ひとつの意味を持ってしまう。
最後まで読み終え、俺はしばらく動けなかった。
何も考えられなかった。
ただただ、大粒の涙がポロポロと頬を流れ落ちてゆく。
「……っ」
声が出ない。
喉が詰まって、呼吸がうまくできない。
視界が歪む。
手紙の文字がぼやけて、読めなくなる。
それでも、手放すことはできなかった。
喉の奥から、嗚咽のような声が漏れる。
誰もいない部屋に響いて、どこにも届かないはずなのに、それでも止めることができなかった。
頭の中で繰り返されるユリの言葉が、何度も頭の中に響く。
「ちゃんと最後まで生きてね」
「笑って見送ってほしい」
「またどうせ会えるんだから」
……簡単に言うなよ。
気がついたら俺は、そう呟いていた。
そんなの、できるわけがない。
ユリがいない世界でどうやって笑っていけばいいんだよ。
でも、あいつが本気でそう願っていたことを俺は知ってる。最後まで、俺のことを考えて。俺に、生きてほしいって。俺はうずくまるように下を向いて、深呼吸をした。止まらない涙。変わらない現実。暗闇のような世界。でも、その中で、ひとつだけはっきりしたことがあった。
―ここで終わらせたら、ダメだ。
気づけば、俺は走り出していた。部屋を飛び出し、家を出て、夜の空気の中へ。冷たい風が身体を打つ。息が切れる。それでも、止まらなかった。向かう先は決まっていた。
あの丘。
あの日、ユリと一緒に立った場所。
坂を登る。
足が重い。
何度もよろけそうになる。
それでも、前に進む。
やがて視界が開けた。
丘の上。
あの日、あの夢となにも変わってないかのように綺麗な夜空が広がっている。
隣にいるはずの存在が、どこにもいないのに。
俺の世界は確実に変わっているのに。
なんで、ユリなんだ、なんで。
俺はそんなことを心の中で叫びながら、立ち止まり、空を見上げた。
星が、滲んで見える。
涙のせいか、それとも別の何かなのか、自分でもわからなかった。
「……ユリ」
名前を呼ぶだけで、胸が締め付けられる。
「……俺さ」
言葉がうまく続かない。
それでも、途切れながら声にする。
「ほんとは全部、終わらせようって思ってた」
風が吹く。
言葉が夜に溶けていく。
「お前がいない人生は、太陽のない地球と同じで意味がないと思ってた」
それは、嘘じゃなかった。
「でもさ……」
少しだけ、笑う。
泣いているのに、変な感じだった。
「お前、ずるいよ」
「先に逝くお前が最後まで、俺に生きろって言うんだもんな」
深く息を吸う。
「無理だと、思った。っていうか、無理じゃね?俺はそんな強くないし、もうすぐ終わる命なんだ。生きてても意味がないと思う。」
「でも、それでも、ユリの最後の願いだから。弱音吐くかもしれないけど。」
言葉にする。はっきりと。
「ちゃんと生きる」
「笑えるかはわかんねえけど」
「それでも、生きる」
拳を握る。
「お前がそう言うんだったら」
空に向かって、叫んだ。
「ユリ!!」
声が夜に響く。
「俺も愛してる!!」
それは、確かな感情だった。嘘じゃない、本当の言葉だった。
風が吹いた。
その一瞬だけ、どこかでユリが笑ったような気がした。
そして俺はしばらく、そこに立ち尽くしていた。
空を見上げながら。
涙は止まらなかったけれど。
それでも。
ユリのおかげで、少しだけ前を向けた気がした。
鏡の前で制服に袖を通している間も、意識のほとんどはまだあの丘に置き去りのままで、指先が布に触れている感覚すら、どこか現実じゃないみたいに遠く感じていた。
風の音も、星の光も、ユリの声も、全部が胸の奥に残ったまま消えなくて、静かな朝の空気の中で、それだけがやけに浮いている。
ネクタイを結ぶ指は、気づけば少しだけ震えていた。
鏡に映る自分の顔はひどく腫れていて、目も赤くて、正直あまり見たくない顔だった。
それでも、目は逸らさなかった。
逃げても、どうにもならないってわかっていたからだ。
―ちゃんと生きる。
あのとき口にした言葉が、今さらになって重くのしかかってくる。
軽く言ったつもりはなかったけど、それでも、こんなに重いものになるとは思っていなかった。
鞄を掴んで、家を出る。
学校に着くと、いつも通りのざわめきが広がっていた。
笑い声も、どうでもいい会話も、全部が普通で。
自分だけがそこから少し浮いているような感覚のまま、俺は席に座る。
「なぎじゃん!おはよー!」
横から声が飛んできた。夏樹だ。
「……おはよ」
ちゃんと声を出したつもりなのに、少し掠れた。
「ちょ、おまえ、顔やばくね?徹夜?」
軽い調子。いつも通りの夏樹。
「ま、そんなとこ」
それ以上は言わなかった。
言える気もしなかった。
夏樹も、それ以上は聞いてこなかった。
チャイムが鳴り、授業が始まる。
黒板の文字も、先生の声も、見えてはいるし聞こえてもいるのに、頭に入ってこない。
理解しようとしても、どこかで止まる。
俺の中で何も進まないまま、時間だけが過ぎていった。
気づいたときには、昼休みになっていた。
周りでは弁当を広げる音や笑い声がして、いつも通りの空気が流れている。
でも、その中に入る気になれなくて、俺は机に突っ伏したまま動かなかった。
「おい、食わねえの?」
夏樹の声。
「……あとでいい」
「おまえ、ガチで大丈夫かよ」
心配してるのか、ただの軽口なのか、よくわからない声だった。
俺は答えなかった。
そのまま、時間が過ぎていき、昼休みが終わりがじわじわと迫り着ていた。
すると不意に、校内放送が鳴った。
『二年三組、凪。至急職員室まで来てください』
教室がざわつく。
視線が集まるのがわかった。
「お、呼び出しじゃん」
夏樹が少し笑いながら言う。
「なんかしたのかー?笑」
「……してねえよ」
そう返した瞬間、胸の奥がざわついた。
このタイミングで呼ばれる理由なんて、ひとつしか思い浮かばない。
椅子を引いて立ち上がる。
視線を感じながら、教室を出た。
廊下はやけに静かだった。
歩くたびに、心臓の音が大きくなる。
職員室の前で、足が止まる。
―来たか。
そんな感覚だけが、浮かんだ。
三回扉をたたき、開ける。
「失礼します」
中に入ると、担任がすぐに気づいた。
「凪、こっち来い」
少し低い声だった。
近づくと、担任は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。
「……今朝、連絡があった」
やっぱり、と思った。
「ユリさんのお父さんが、日本に戻ってきてる。今応接室で凪を待ってる。」
呼吸が浅くなる。
「フランスから、急いで帰ってきたらしい」
胸の奥が締まる。
逃げ場がなくなる。
「お前に会いたいそうだ」
全部、繋がった。
「……俺に?」
「そうだ。行けるか?」
「行きます」
迷いはなかった。
担任は小さく頷く。
「早退にしておく。気をつけて行け」
軽く頭を下げて、職員室を出る。
そして俺はそのままユリの父さんのもとへ行く。
「なぎさくん、来てくれてありがとう。それで、ユリはどんな感じなんだ。病院はどこなんだ。なんで、急に入院になったんだ。」
ついたとたん俺は質問攻めを受け、戸惑った。しかし、俺の口は接着剤でくっついたかのように開かない。
「ユリのお父さん、ひさしぶりです。ひとまず荷物をとってきます。待っててもらえますか、?」
辛うじて出た言葉だった。
「あぁ、急にすまんな」
俺は速足で教室へ向かい、自分の荷物をかっさらうようにとって、教室を静かに出た。
ユリの父さんに外で待ち合わせをしたいという連絡をし、下駄箱へ向かい、靴を履き替えて外に出る。
昼の光が、やけに眩しかった。
でも俺たちはユリのいるほうへ走る。
息が上がる。
肺が痛む。
それでも止まらない。
―ユリのところへ。
それだけで、十分だった。




