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第十章(優しい噓と最後の願い)

ユリが倒れてから、何日が過ぎたのか、正確には思い出せなかった。

一日一日が妙に長く感じられるくせに、振り返ってみると、その時間がどこへ消えてしまったのかわからない。まるで誰かが途中の時間を切り取ってしまったみたいに、記憶の中にはぽっかりとした空白だけが残っている。

学校へは一応通っていた。

朝起きて、制服を着て、いつもの電車に乗り、教室の自分の席に座る。そういう行動だけは、機械のようにいつも通り繰り返していた。

しかし、授業の内容はほとんど頭に入ってこなかった。

先生が黒板にチョークで文字を書く音や、クラスメイトたちがページをめくる小さな音は確かに聞こえているのに、それらはどこか遠くの場所で起こっている出来事のように感じられた。

自分だけが、この世界からほんの少しずれてしまったような感覚だった。

放課後になると、自然と足は病院へ向かった。

特別に決めていたわけではない。

それでも、気がつけばいつも同じ道を歩いている。

病院の自動ドアが静かに開くと、独特の消毒液の匂いが鼻の奥に広がる。

その匂いをかぐたびに、胸の奥が少しだけ重くなるのを感じた。

ユリの病室は三階の奥にあった。

白い廊下を歩きながら、俺はいつも同じことを考えてしまう。

もしもドアを開けた瞬間、ユリが普通に起き上がっていて、

「なぎちゃん、遅いよ」

なんて笑いながら言ったらどうしようか、と。

そんなことはありえないと頭ではわかっているのに、どこかでそれを期待してしまう自分がいた。

ドアを開ける。

静かな病室の中には、いつもと変わらない光景が広がっていた。

白いベッド。

窓から差し込む午後の光。

そして、眠り続けるユリの姿。

ベッドの横に置かれた機械から、小さな電子音が規則正しく響いている。

ピッ……

ピッ……

その音はとても静かで、それでいて妙に現実的だった。

ユリは目を閉じたまま、まるで深い眠りの中にいるように見える。

顔色は決して悪くない。

むしろ、普通に眠っているだけのようにも見えた。

しかし医者は言った。

「意識が戻る可能性は低い」

その言葉が、ずっと頭の奥に残り続けていた。

その日の夜、俺は久しぶりに深く眠った。

ここ数日は、眠ってもすぐに目が覚めてしまうことが多かった。夜中に何度も目が覚め、そのたびに病院の光景や、海で倒れたユリの姿が頭に浮かんでしまう。

しかしその夜は、まるで意識が底へ沈んでいくように、静かに眠りへ落ちていった。

そして――

夢を見た。

気がつくと、俺はあの丘の上に立っていた。

風がゆっくりと吹いている。

背の低い草が、ざわざわと静かな音を立てながら揺れていた。その揺れは丘の斜面をゆっくりと広がっていき、まるで見えない波が草の海を渡っているみたいだった。

遠くには町の屋根が並んでいる。

細い道路がその向こうへと続き、さらに遠くには薄く霞んだ山の影が見えた。

何度も夢で見てきた景色だった。

でも、今日はどこか違う。

空気が、ほんの少しだけ静かすぎた。

「……なぎちゃん」

その声を聞いた瞬間、胸が強く鳴った。

振り向く。

ユリが立っていた。

風に髪を揺らしながら、静かにこちらを見ている。

白いワンピースを着ていた。

その姿は、病院で見たユリとはまったく違っていた。

顔色もよく、普通に立っている。

「ユリ……」

俺は思わず名前を呼んだ。

ユリは少しだけ笑った。

「久しぶり」

その声は、いつものユリの声だった。

でも、どこか遠くから聞こえてくるような、不思議な響きが混ざっていた。

俺はゆっくりユリに近づく。

「お前……」

言葉が続かない。

頭の中にいろいろなことが浮かんでくるのに、それをうまく言葉にすることができなかった。

ユリはそんな俺の様子を見て、少し困ったように笑った。

「大丈夫だよ」

その言葉は、どこか落ち着いていた。

しかし、その直後にユリは静かに続けた。

「でもね」

ユリは丘の向こう側を見た。

遠くの空を見つめている。

夕方の光が、少しずつ丘を赤く染め始めていた。

「時間、あんまりない」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。

「どういう意味だよ」

思わず強い声が出る。

ユリは少しだけ目を伏せた。

それから、ゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。

「本当はね」

風が強く吹いた。

草が一斉に揺れる。

「なぎちゃんと再会したとき」

ユリは小さく息を吸った。

「余命、二か月だった」

その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。

「……は?」

それしか言葉が出てこない。

ユリは少しだけ苦笑した。

「言えなかった」

静かな声だった。

「言ったら、きっと」

ユリは俺を見る。

その目はとても優しかった。

「なぎちゃん、すごく悲しむから」

俺は何も言えなかった。

風が丘を吹き抜けていく。

草の音だけが続いていた。

そしてユリは、もう一度静かに言った。

「だからね」

「お願いがあるの」

ユリはそう言って、ゆっくりこちらを見つめた。

「手紙を書いたの」

俺は驚いた。

「手紙?」

ユリは小さくうなずく。

「部屋にある」

そして、少し懐かしそうに笑った。

「いつもの場所」

その言葉を聞いた瞬間、俺はすぐに思い出した。

ユリの部屋の奥。

机の横に置かれている、小さなロッカー。

鍵がかかっていて、普段は開けられない。

でも、その鍵の場所を知っているのは――

俺とユリだけだった。

小さい頃、二人で秘密基地みたいにして使っていた場所。

「そこに入れてある」

ユリは静かに言った。

「みんなに読んでほしい」

俺は何も言えず、ただうなずいた。

ユリはそれを見て、安心したように微笑んだ。

そして、少しだけ間を置いてから続けた。

「それと」

「お父さん」

「呼んでほしい」

その声はとても静かだった。

でも、その意味ははっきりしていた。

ユリは少し空を見上げた。

夕焼けが丘の上に広がっている。

「そろそろ」

小さく息を吐く。

「私」

その言葉の先は、言わなくてもわかった。

胸の奥が痛くなる。

俺は思わず言った。

「やめろよ」

声が少し震えていた。

「そんな言い方」

ユリは首を横に振った。

「大丈夫」

そして、小さく笑った。

「怖くない」

風が丘を通り抜ける。

草が大きく揺れる。

ユリは一歩だけ後ろへ下がった。

「なぎちゃん」

「今までありがとう」

その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。

ユリは最後に言った。

「また」

丘の向こうを見ながら。

「あそこで会おうね」

その瞬間、強い風が吹いた。

視界が揺れる。

ユリの姿が、少しずつ遠くなっていく。

「ユリ!」

俺は手を伸ばした。

でも、届かない。

ユリは最後にもう一度だけ笑った。

そして―

夢は終わった。

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