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第九章(入院と現実)

久しぶりに、目覚ましの電子音で目が覚めた。

あのあと、気がついたときにはもう二日が過ぎていたらしい。

俺たちは丘の上で発見され、そのまま救急車で病院へ運ばれたと聞いた。

詳しいことは、正直あまり覚えていない。

断片的に、白い天井の光や、消毒液の匂いが記憶に残っているだけだ。

そんなこんなで、目を覚ましたときにはもう日曜日だった。

医者にいくつか質問をされ、検査を受けて、その日のうちに退院した。

俺たちはそれぞれの家へ帰された。

そして、今日は月曜日だった。

電子音が小さな部屋の中に響く。

何度も聞いてきたはずの音なのに、今日はどこか懐かしく感じた。

俺はゆっくり体を起こした。

窓の外は朝だった。

柔らかい光が、カーテンの隙間から部屋の中へ差し込んでいる。

しばらくの間、その光をぼんやり見つめていた。

夢は見なかった。

ここ数日、毎晩のように丘の夢を見ていたのに、昨日の夜はなぜか何も覚えていない。

深く眠っていたような、妙に静かな夜だった気がする。

その代わり、胸の奥にはまだ、あの丘の空気が残っている気がした。

草の匂い。

風の音。

遠くで鳴る、低い弦の音。

あの音。

俺は小さく息を吐いた。

「……学校か」

声に出してみると、不思議と現実味が増した。

机の上に置いてある鞄。

制服。

教科書。

全部、ずっとそこにあったはずなのに、今日は少しだけ距離があるように感じた。

俺はゆっくり制服に袖を通す。

鏡を見る。

顔色はあまりよくない。

目の下にも、少し影が残っている。

でも、前よりはましだった。

「まあ……大丈夫か」

そうつぶやいて、俺は家を出た。

久しぶりの学校は、思っていたよりも普通だった。

校門をくぐると、いつものざわざわした空気が耳に入る。

部活の朝練の掛け声。

友達同士の笑い声。

自転車のブレーキがきしむ音。

世界は、俺がいない間も何事もなかったみたいに動いていた。

当たり前のことだけど。

それでも、少しだけ不思議な気持ちになった。

昇降口で靴を履き替える。

そのときだった。

「おい」

後ろから声がした。

聞き慣れた声だった。

振り向く。

夏樹だった。

短い髪。

少し不機嫌そうな顔。

腕を組んで、じっとこっちを見ている。

「……久しぶりだな」

俺は苦笑した。

「うん」

夏樹は数秒、黙ったまま俺を見ていた。

それから一歩近づく。

「お前さ」

低い声だった。

「なんで何も言わなかったんだよ」

怒っているというより、どこか焦っているような声だった。

俺は少しだけ視線を逸らす。

「……何のこと?」

「とぼけんな」

夏樹はすぐに言った。

「病院だろ」

胸の奥が少しだけ重くなる。

やっぱり、知っていたのか。

「誰から聞いたの?」

「ユリ」

俺は小さく息を吐いた。

たぶんそうだろうと思っていた。

「心配してたんだぞ」

夏樹が言う。

「クラスのやつらも」

「ユリもお前も、急に来なくなるし」

俺は苦笑した。

「ごめん」

「謝るな」

夏樹は少し強い声で言った。

「そういうのはさ」

少しだけ言葉を探してから続ける。

「ちゃんと言えよ」

俺は何も言えなかった。

夏樹は昔からそうだ。

怒っているように見えて、

実はただ、心配しているだけだった。

「……で」

夏樹は少しだけ表情を変えた。

「大丈夫なのか」

その言葉は、思っていたよりずっと優しかった。

俺は少し考えてから答える。

「まあ」

「前よりは」

完全な嘘ではない。

でも、本当でもない。

夏樹は小さくうなずいた。

「そっか」

それから、急にニヤッと笑う。

「じゃあ今日暇?」

「は?」

「学校終わったら」

「みんなで出かけるぞ」

俺は思わず目を丸くした。

「急だな」

「いいだろ」

夏樹は肩をすくめる。

「久しぶりなんだから」

そのとき、後ろから声がした。

「おはよー、体調大丈夫?」

振り向くと、案の定にこだった。

大きく手を振りながら、こっちへ走ってくる。

「なぎ!!」

俺は少し笑った。

「おはよう」

にこは俺の前に止まり、じっと顔を見た。

まじまじと観察するみたいに。

「痩せた?」

「第一声それ?」

「だって!」

にこは腕を組む。

「心配したんだからね」

俺は少し照れくさくなる。

「ごめん。でも、お前も倒れて運ばれただろ?」

「お互い様だろ」

「えー?!」

にこは不満そうな声を出したが、すぐにふっと笑った。

「でもよかった」

「学校来れて」

その言葉は、思っていたより胸に響いた。

俺は小さくうなずいた。

そのときだった。

「おはよう」

後ろから、静かな声がした。

振り向く。

ユリだった。

風に髪が少し揺れている。

いつもの穏やかな表情。

でも、その目はどこか遠くを見ているようにも感じた。

「なぎちゃん」

俺は少し笑う。

「おはよう」

ユリはゆっくり近づいてくる。

「久しぶりだね」

「うん」

少しだけ沈黙が流れた。

その沈黙を破ったのは、夏樹だった。

「はい決まり」

「放課後出かける」

「強制参加」

にこが笑う。

「どこ行くの?」

「海」

夏樹は即答した。

「夏だから」

俺は少し驚いた。

「海?」

「嫌か?」

俺は首を振る。

「いや」

「いいと思う」

ユリも小さく笑った。

「はじめてだね」

「みんなで出かけるの」

その言葉に、なぜか少しだけ引っかかるものを感じた。

はじめて。

本当にそうだっただろうか。

一瞬だけ、丘の上の光景が頭をよぎる。

草の揺れる音。

風。

そして――

あの低い音。

「……なぎ?」

にこの声で我に返る。

「ぼーっとしてる」

「あ、悪い」

夏樹はもう歩き出している。

「決まりな」

「サボるなよ」

にこが言う。

「サボったら家まで行く」

俺は苦笑した。

「怖いな」

ユリは小さく笑った。

その笑顔を見て、俺は少し安心した。

夢の丘のこと。

夜の音。

あの声。

全部、どこか遠い出来事みたいだった。

でも。

胸の奥では、まだあの低い音が鳴っている気がする。

ドン。

ドン。

ゆっくりとしたリズム。

まるで、どこか遠くで心臓が打っているみたいな音。

俺は窓の外を見た。

夏の空が広がっている。

その青さは、丘の空とは少し違っていた。

でも、それでもいいと思った。

今日は、久しぶりに、みんなで出かける日だ。

もしかしたら。

こんな普通の日が、

一番大事なのかもしれない。

放課後の空気は、朝とはまるで違っていた。

教室の窓から入ってくる風はぬるくて、机の上に残ったチョークの粉をゆっくりと舞い上げている。

昼の熱がまだ校舎の中に残っているせいか、どこか重たい空気だった。

俺は黒板をぼんやり眺めていた。

先生の声は聞こえているはずなのに、内容はほとんど頭に入ってこない。

ノートを開いてはいるものの、ペンはほとんど動いていなかった。

理由は、自分でもよくわからない。

久しぶりに学校へ来たからなのか。

それとも、丘で起きた出来事のせいなのか。

ただ、ずっと胸の奥で何かが鳴っている気がしていた。

低い音。

丘で聞いた、あの音。

ドン。

ドン。

遠くで、大きなものがゆっくり動いているような、そんな鈍い響きだった。

「なぎ」

声がして顔を上げる。

気がつくと、教室の中はすでに騒がしくなっていた。

椅子を引く音、机を閉じる音、友達同士の笑い声。

いつの間にか授業が終わっていたらしい。

声をかけてきたのは夏樹だった。

「終わったぞ」

「……あ」

俺は慌てて鞄を閉じる。

「ぼーっとしてんな」

夏樹が少し笑う。

「悪い」

立ち上がると、教室の窓の外には午後の光が広がっていた。

朝よりも強い日差しが、校庭を白く照らしている。

廊下へ出ると、すぐににこが待っていた。

壁にもたれながら、腕をぶんぶん振っている。

「おそーい!」

俺を見るなり、大きな声を出した。

「なぎ遅刻!」

「授業終わったばっかだろ」

「気持ちの問題!」

にこはなぜか誇らしげな顔をした。

その横で、ユリが小さく笑っている。

「海、楽しみだね」

静かな声だった。

その言葉に、にこはすぐ反応する。

「ね!」

「海ってさ、砂浜あるよね?」

「当たり前だろ」

夏樹が呆れた顔をする。

「じゃあさ、貝殻拾おうよ!」

「小学生かよ」

「いいじゃん!」

にこはまったく気にしていない様子だった。

四人で昇降口へ向かう。

靴を履き替え、外へ出ると、夏の光が一気に広がった。

空は深い青色で、雲はゆっくりと流れている。

遠くの木々から、セミの声が聞こえてきた。

夏が近づいている匂いがした。

「で、どうやって行くの?」

にこが聞く。

「電車」

夏樹が答える。

「二駅」

「近っ」

「だからちょうどいいんだろ」

駅までの道を歩き始める。

アスファルトは少し熱を持っていて、靴の底からじんわりと温度が伝わってきた。

日差しは強いが、風はまだ少しだけ涼しい。

にこはずっと喋っている。

「海ってさー」

「めちゃくちゃ広いんだよね?」

「当たり前だろ」

夏樹が笑う。

「テレビでしか見たことないんだよねー」

「それはさすがに嘘だろ」

そんなやりとりを聞きながら、俺は少し後ろを歩いていた。

そのとき、ふと気づく。

ユリが少し離れた場所を歩いていた。

俺は振り返る。

「ユリ?」

「ん?」

「大丈夫?」

ユリは少し首をかしげた。

「うん」

でも、その視線はどこか遠くを見ているようだった。

「海、楽しみ?」

俺が聞くと、ユリは少し考えてから答える。

「……うん」

そして、小さな声で付け加えた。

「なんか、懐かしい気がする」

俺は思わず足を止めた。

「懐かしい?」

「うん」

ユリは困ったように笑う。

「来たことないはずなんだけどね」

その言葉を聞いた瞬間。

胸の奥で、あの音が少しだけ強く鳴った。

ドン。

俺は空を見上げる。

青い空が広がっているだけだった。

「なぎー!」

前からにこの声が飛んできた。

「置いてくよ!」

「今行く!」

俺は歩き出した。

駅に着くと、ホームには潮の匂いが混ざった風が吹いていた。

電車がゆっくりと滑り込んでくる。

金属のきしむ音。

ドアが開く。

四人で乗り込む。

車内は思っていたより空いていた。

窓際の席に座ると、電車はすぐに動き出した。

ガタン。

ガタン。

窓の外の景色がゆっくり流れていく。

住宅街。

畑。

遠くの山。

しばらくして、景色が少しずつ変わり始めた。

空が広くなっていく。

そして――

突然、視界が開けた。

窓の向こうに、青い光が広がる。

海だった。

水平線まで続く、大きな青。

駅を出て、少し歩く。

潮の匂いが風に混ざっていた。

坂を下ると、突然視界が開ける。

青い海が広がっていた。

水平線が遠くまで続いている。

波の音が、ゆっくりと耳に届く。

ザァ……

ザァ……

砂浜には人がそれほど多くなかった。

夏休みにはまだ少し早いからだろう。

にこは真っ先に砂浜へ走っていった。

「うわー!」

靴を脱ぎながら叫ぶ。

「海だ!」

その姿を見て、夏樹が呆れたように言う。

「子どもか」

「うるさい!」

にこは振り返って笑う。

「夏樹も来いよ!」

俺はゆっくり砂浜を歩く。

砂が靴の下で柔らかく沈む。

海は静かだった。

波は規則正しく岸に寄せて、また引いていく。

ザァ……

ザァ……

ユリは少し後ろを歩いていた。

海を見つめながら、黙って歩いている。

「ユリ」

俺は声をかける。

ユリは少し驚いたように顔を上げた。

「どうした?」

ユリは首を横に振る。

「……なんでもない」

でも、その表情は少しだけ不安そうだった。

「ただ」

少し迷うように言葉を続ける。

「変な感じがする」

「変?」

ユリは海を見る。

「ここ」

「どこかで来たことある気がする」

俺は砂浜を見渡す。

「来たことあったっけ?」

ユリは首を振る。

「たぶん、ない」

「でも……」

その言葉の途中で。

――ドン。

低い音が、どこかで鳴った。

胸の奥に響くような音だった。

俺は思わず海の方を見る。

波は変わらず静かに動いている。

「……聞こえた?」

ユリが言った。

「え?」

「音」

俺は少し黙る。

確かに聞こえた。

でも。

にこは普通に遊んでいる。

夏樹も特に気づいた様子はない。

「……いや」

夏樹が近づいてくる。

「どうした?」

「なんでもない」

俺は答える。

そのときだった。

――ドン。

また鳴った。

今度は、はっきりと。

低く、重い音。

まるで海の底から響いてくるみたいだった。

ユリが顔を上げる。

「また……」

「なぎちゃん」

俺はうなずく。

「聞こえる」

二人とも海を見た。

波は静かに動いている。

でも、その奥のどこかから。

確かに音がしていた。

ドン……

ドン……

ゆっくりとした間隔で続く。

まるで。

巨大な何かが、遠くで鼓動しているみたいだった。

「……なにこれ」

ユリの声が震えていた。

俺も答えられない。

「おーい!」

遠くからにこの声が聞こえる。

「何してんのー!」

「来いよー!」

でも。

その声が、やけに遠く感じた。

音がまた鳴る。

ドン。

その瞬間。

ユリの体がふらついた。

「ユリ?」

ユリは海を見たまま、立っている。

顔色が急に白くなっていた。

「なぎちゃん……」

小さくつぶやく。

「これ……」

ユリの目が揺れていた。

「丘と……」

言葉が途切れる。

「同じ……」

その瞬間だった。

ユリが、突然崩れた。

「ユリ!」

俺は慌てて腕を伸ばす。

でも間に合わない。

ユリは砂浜に倒れた。

動かない。

「おい!」

夏樹が駆け寄る。

にこも走ってくる。

「ユリ!?」

ユリは目を閉じたままだった。

呼びかけても反応がない。

「救急車!」

夏樹が叫ぶ。

俺の心臓が激しく鳴っていた。

さっきまで聞こえていた音は、もう止まっていた。

海は、ただ静かに波を返しているだけだった。

病院の廊下は、妙に静かだった。

蛍光灯の白い光が、床を冷たく照らしている。

俺たちは椅子に座ったまま、ずっと待っていた。

時間の感覚がなくなっていた。

どれくらい経ったのか、わからない。

やがて。

診察室の扉が開いた。

医者が出てくる。

白衣の男だった。

その顔は、とても真剣だった。

「ご家族の方は」

俺の母さんが立ち上がる。

「友達の親です」

医者は少し考えてから言った。

「……説明します」

俺の胸が強く締めつけられる。

医者はゆっくり言った。

「現在、意識は戻っていません」

「状態は非常に重いです」

言葉が続く。

「脳の反応がほとんど確認できません」

「このまま意識が戻らない可能性があります」

廊下が、急に遠くなった気がした。

「つまり」

医者は少し言葉を選ぶ。

「植物状態になる可能性が高いです」

誰も何も言わなかった。

にこが小さく息を吸う。

「……うそ」

その声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。

俺は何も言えなかった。

ただ。

海で聞いたあの音だけが、頭の中で何度も繰り返されていた。

ドン。

ドン。

ドン。

あの音は。

俺とユリにしか聞こえていなかった。

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