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視界が揺れる。

めまいの様な感覚で部屋の景色が回って、自分が殴られたということが分かった。

──痛くはない。どこかでこれは夢だという認識がある。


あんなに優しかった彼が、どうしてこんな風になってしまったのか。

いつからか、なにがきっかけなのか。

誰が悪いのか。

わからない。

そんなことを、今更分かっても仕方がない。

体を丸めて、ただ、この暴力が過ぎ去るのを待つしかできない。

 

殴られた顔を押さえた指の隙間から血が流れて、腕を伝って床に落ちる。その血がゆっくりと床に広がっていく。


そこで、映画のように場面が切り替わった。

外階段の横にある郵便ボックス。郵便物を取り出す、いかにも文系の大学生と言う風体の若い男が振り返ってこちらを見る。いや、睨むと言った方が正しい冷たい目。そしてフッと目を逸らすと、そのまま何も言わずに外階段を上っていく。

──あれは、202号室の大学生?


場面が切り替わる。

お隣の女性。こちらを見る事もせず、逃げるかのように自分の部屋に入っていく。昔は気さくに世間話をしていたのに、最近は目も合わせてくれない。

──これは、あの老婆だ。顔立ちは間違いなく彼女なのに、今より10歳以上若く見える。


場面が切り替わる。

201号室のサラリーマンが彼と挨拶を交わして笑う。私の方は、見ようともしない。まるで私がいないかのよう。

──私?私って誰だ?俺は・・・


スマホを取り上げられた。

もう逃げられない。

逃げてもし捕まればどんな目にあわされるか分からない。

彼がコンビニに行っている間に壁を叩いて大きな音を出す事しかできない。


だから。

だから、お願い。通報して。気付いて。


──壁を叩く音が聞こえる。これは、夢?現実?


どうして?

毎日こんなに大きな音で壁を叩いているのに、どうして通報してくれないの?

助けて。

本当は皆、気付いているくせに。

私が、こんな目に合ってるって知ってるくせに。

どうして。


──音が、うるさい。うるさい。鳴りやまない。


帰ってきた彼がまた私を殴る。

朦朧とした意識の中血まみれの手で、壁を叩く。


お願いだから、通報して。


壁に、手形の血の痕がついた。



30年近く生きてきて初めて、自分の意思で俺は目を覚ました。夢を強制的にシャットダウンして自力で瞼をこじ開けたのだ。そんなことが人間に出来るのだということに驚きながら、体を起こす。布団の中とはいえこの1月の気温の中、汗でTシャツが肌に張り付いている。


目が覚める直前、俺は現実であの音を聞いていた。壁をてのひらで叩く音は、最低でも10回は続いていたはずだ。


──これは、夢だ。

幽霊からのメッセージでも、実際に起きた事の再現映像でもない。樹さんの話と、自分の考察と、この部屋で起きた事件の情報、そして夜中の音。それらを材料に俺自身が作り出した妄想が映像となり夢として再生されただけ。それ以上でもそれ以下でもない。


そうだ、これは俺が頭の中で作った事だ。こんな風に無意識に話を作った上で脳内で映像化まで出来るなんて、俺にはやはり小説家としての才能があるのかもしれない。


そんなことを考えながら息を整えていると、今度は壁の向こうから低い声が聞こえてきた。タイミングがタイミングだけに、俺は座ったまま飛び上がる。101号室と102号室を隔てる壁、いつもと同じ場所だ。


男の低い声。少なくとも、101号室の女性の声ではない。会話ではない。相手の声は聞こえない。ぼそぼそと一定のリズムで、何かを言っている。


歌・・・?


恐る恐る、壁に耳を当てて聞いてみる。


お経だった。


恐らく、101号室の女性が部屋で何らかの音源でお経を流しているのだ。


体の力が抜けて、俺はその場に座り込んだ。


──そうか、そうだよな。

壁を叩く音。もしそれに意思があるのであれば、その音を聞かせたい相手は部屋の中の人間じゃない。壁の向こう側にいる人だ。

もし仮にこの部屋に殺された女性の幽霊がいるのなら、その幽霊は最初から俺の事なんかどうでも良かったのだ。生前顔も見た事もない無関係の俺に用事なんかない。あるのは、別の相手だ。だから俺は呑気にここで暮らしていられたんだ。


おとなりさんはあの音について、一度も俺のせいだとは言わなかった。分かっていたのだろう。あの音を出しているのは誰なのか。どういう意図なのか。


そう言えば最近は、おとなりさんも、杉原さんもまったく姿を見せなくなった。202号室から時折聞こえていた生活音も、外階段を上り下りする音も、聞こえなくなった。


──彼らは無事なのだろうか。



それから一睡も出来ないまま、空が白んでいくのをカーテン越しに見ていた。朝の6時。ふと、コーヒーが飲みたいと思う。いつもならこんな贅沢はしないがこんな時くらいは良いだろうと、俺は徒歩3分程の場所にあるコンビニに向かった。薄明の街にコンビニの灯りが馴染む。ガラス張りの扉からは店内の様子が見えた。イートインコーナーにスーツ姿の男が背中をまるめて座っている。


それは、201号室の杉原さんだった。テーブルにはコンビニコーヒーのカップが置いてある。それを前に、彼はスマホをいじる事も本を読む事もなく、テーブルの1点を見つめている。うつろな濁った目、青黒いカサカサの肌、ひび割れた白い唇、薄汚れたワイシャツ、皺だらけのスーツ。ぼさぼさの髪は、数週間前よりも一目見て分かるほどに毛量が減っている。ガラス越しにここまで届くはずのないすえた匂いがした気がした。


死相、という言葉が頭に浮かぶ。


今度こそ。

今度こそ、本当に、心底ゾッとした。

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