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入居をしてから1か月が経とうとしていた。

その日は樹さんがお昼過ぎにビールを持って、俺の部屋を訪ねてきた。


「早くないですか。」

と言うと

「日が暮れておばけが出たらどうすんだ。」

と真顔で返された。


樹さんは、背が高く筋肉質で日焼けをしており、ちょっとしたチンピラなら睨んだだけでも怯ませることが出来そうな外見をしている。しかし優しく穏やかな性格なのを知っているので、俺は安心して

「でかい図体して何に怯えているんですか。」

などと軽口を叩けるのだ。


「実は春奈の話なんだけど。」

リビングの床に座りビールを一口飲むと、樹さんは口を開いた。春奈ちゃんというのは樹さんの娘で、今年大学の4年生だ。樹さんが20代前半の頃に生まれた子供で、それはそれは溺愛している。年齢で言えば、俺は樹さんよりも春奈ちゃんの方が近い事になる。


「あいつのアパートの隣の部屋で人が死んだんだ。」

ため息をついて樹さんが言う。

俺はビールの缶に口を付けたまま、樹さんの方を見た。

「死んだのは隣の部屋の爺さんで、布団の中で死んで死後1週間くらいだったらしい。冬だしな、節約なのか知らんがエアコンも付いていなかったから、腐敗はほとんど進んでいなかったらしい。春奈もまったく気づかなかったと言っていた。」

「病死ですか。」

「多分そうだろうって。もともと具合も悪かったらしいし、年も年で80過ぎだったみたいだからな。」

なるほど、と俺はうなずく。それなら事故物件の中ではかなりマイルドな案件だろう。こっちはスーパーハードだ。

「特殊清掃も無かったから、そもそも事故物件ですらないしな。」

おつまみのチーズに手を伸ばしながら、樹さんが言う。

「え、そうなんですか。」

俺は驚いて聞き返した。

「そらそうだろう。誰だっていつかは死ぬんだ。病死したくらいで事故物件になってたら、世の中事故物件だらけだぞ。でも春奈が嫌がってな。まぁそりゃそうだよな。隣で人が死んでるんだから。で、どうしても嫌だ、引っ越すって言って聞かないもんだから、昨日引っ越しをしたわけよ。」

荷物運びで疲れた筋肉をアピールするかのように樹さんは肩を回した。

「え、でも春奈ちゃん今4年生ですよね。」

俺が言わんとしている事は伝わったようで、樹さんは頷く。

「そう、だからあと3か月我慢すればどうせ卒業で会社の近くに引っ越すことは決まっているわけ。だからそのくらい我慢しろって言ったよ?でも聞かねぇんだわ。で、かみさんも可哀想だからウィークリーマンションでも借りてあげようって。過保護過ぎだろ?」

過保護って意味じゃ樹さんだって負けませんよ、とは思うが、もちろん口には出さない。

「で、引っ越したと?」

「そう。大学の近くにちょうどマンスリーの賃貸があったから。」

高くついたよ、と樹さんは苦笑いした。


なるほど、と俺は思う。

「で、俺の事を思い出して様子を見に来てくれたんですね。」

樹さんが照れたように笑った。

その優しさに感謝しながら、夜中の音の事は黙っていることを決めた。そんなことを言ったら、樹さんがパニックになってしまうかもしれないと思ったからだ。


「まぁ、賃貸経営ってのもリスクだわな。事故物件だけじゃなく、自然災害やら周囲の治安の悪化やら、自分でコントロールできないリスクが多すぎる。ぶっちゃけ俺も叔父さんのまねして賃貸経営しようかな、なんて思ってたけど、辞めて地道に働く事にするわ。」

樹さんがぼやくように言う。

確かにそうだな、と俺も思う。不労所得なんて言えば聞こえは良いが、その裏にどれだけのリスクがあるのかは想像に難くない。この部屋にしても、そうだろう。本来なら10万近い家賃が取れそうなのに、今俺に1万円で貸す羽目になっているのだ。


「叔父さんも気の毒ですね。」

「だよなぁ。この前までは『他にも2つ賃貸持ってるし、店も持ってるから、老後は安泰だ。50代でfireするぞ』なんつってたけど、最近は無理そうだってぼやいてたよ。」

樹さんが缶に残っていたビールを飲み干す。冷蔵庫からもう一本持ってきますか?と目で聞くと、もういらないと手で合図をされた。

「それだけ色々持っててもやっぱりfireって難しいんですねぇ。あれ、ていうか、叔父さん今60前ってことですか。若くないですか。」

樹さんは40代半ばのはずだ。

「叔父さんは母親の弟なんだけど、年が離れているんだ。俺と15歳も変わらないから、昔からおじさんというより従兄弟のお兄さんって感じだったな。甘やかされた末っ子長男だったけど、商才っつーの?それはあったみたいで、店だのなんだの出してて。ああ、俺が雇われ店長だったのも、叔父さんの店だったんだよ。で、色々手出した中の一つがこのアパートってわけ。」

「なるほど。それでもfireできそうにないって、世知辛いですねぇ。」

俺がしみじみ言うと、樹さんが笑った。


それから暫く世間話をして、樹さんは当初の宣言通り日が暮れる前には帰って行った。


──奥さんが過保護だなんて言ってたけど、樹さんも春奈ちゃんのことが心配ですぐに転居先を探したんだろうな。


あたふたと娘さんを心配する樹さんを想像して、残ってぬるくなったビールを飲みながら、俺は小さく笑った。


──でも、それもそうか。その部屋だけじゃない。隣の部屋だって気分はよくないし、引っ越したくもなるわな。


そう思った時、俺はふと考えた。


このアパートの住人はどうして引っ越さないんだろう。事故物件ですらない春奈ちゃんの部屋とは違い、ここは怨念Maxのスーパーハード事故物件なのに。


俺だって、金さえあればわざわざこんなところに好き好んで住んだりしない。ここの住人は皆一人暮らしで1LDKに住めるような経済状況の人達だ。金銭的に引っ越しが出来ないなんてことがあるだろうか。まして毎晩の怪しい音。もし俺に金があったら、その日のうちに財布だけ持って逃げだしていたかもしれない。


いや、物事を決めるのは金だけじゃない。人にはそれぞれ事情があるのだから、他の住人にも俺のような究極の選択があるのかもしれない。学校や仕事の都合だってある。特にお隣さんは叔父さんと知り合いだと言っていた。そのしがらみもあるのかもしれない。


そこで、俺はふとある事を思い出した。


樹さんは叔父さんが60前だと言っていた。叔父さんが小1の時にお隣さんが中1だったのなら、彼女は叔父さんよりも6歳年上だ。それなら今現在彼女は65歳以下と言う事になる。樹さんの年からして叔父さんは70歳過ぎだと思っていた。だから70代後半に見える彼女の容姿にも何の違和感も持っていなかったが──。


──あの老婆が65歳以下?

それはにわかには信じがたい。実は別人だったりするのだろうか。あるいは、人をあそこまで衰えさせるような何かがあったんだろうか。


なんだか、嫌なものが血流にのって全身にゆっくりと回る感覚がした。


俺は空になったビールの缶を握りしめたまま、しばらく動く事が出来なかった。

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