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引っ越しから10日ほどが経った。真夜中の音は、おそらく相変わらずだ。おそらくというのは、最近では朝まで一度も起きない日もあるほどになっており、音がしているか否か判断できない事が増えてきたからだ。最初の数日は音がするまでは気になって寝付けず、音が始まれば身を固くし、3時近くなってやっと寝付く、という生活だったのに、慣れとは恐ろしいものだ。
さて、朝の9時ころ、俺は家を出ようと玄関の扉を開けた。
気付いたのだ。近所のスーパーの割引品は、夕方ではなく朝に掘り出し物があるという事に。おまけに今日は日曜日。目玉商品も多いがライバルも多い。いざ出陣、とばかりにエコバッグをポケットに入れて勢いよく玄関のドアを開けると、そこに人がいた。立っていたのではない。うちのドアの前を丁度通り過ぎる所だったのだ。
その人は、恐らく俺よりも少し年上、30代半ばくらいの男性だった。幽霊か強盗にでも出くわしたかのように、彼は比喩でもなんでもなく飛び上がった。多分、10センチほど。その後、俺の顔を見て、少しだけホッとした表情をする。俺もまたびっくりした。彼の方が幽霊かと思う程にやつれ果てていたのだ。
「驚かせてすみません。あの、俺、この部屋に越してきた桜井です。上の部屋の方ですか。」
そう聞くと、彼は頷いた。
「ちょっと待っててください。」
俺はシューズクローゼットの上に置きっぱなしにしていた粗品のタオルを手に取り、彼に渡す。
「どうも、201の杉原です。」
その男性は軽く頭を下げた。微かに油が酸化したような匂いがする。もしかしたら、杉村だったかもしれないが、まぁどっちでもいい。
「あの202号室、この上の部屋の方は。あいさつに伺っても出てもらえなくて。」
俺の問いに、杉原さんはカサカサとした抑揚のない声で答えた。
「ああ、そいつはもう出てこないと思う。引きこもり。」
──引きこもり?
俺は内心で首を傾げた。一人暮らしで引きこもりなんて可能なんだろうか。食料はどうするんだろう。ウーバーか、アマゾンか。いや、この構造なら2人暮らしも出来る。母親か誰かと住んでいるのだろうか。でもそれなら、「そいつ」という言い方もおかしな気がする。それに樹さんも202号室は大学生が一人暮らしをしていると言っていた。
そんなことを考えている数秒の間に、杉原さんはもうすでに俺に背中を向け、階段を上り始めていた。革靴が鉄の階段を叩くカンカンという音が響く。
彼のスーツには皺が寄り、髪は明らかにワックスではない何かで束になっている。夜勤明けか。あるいは、ブラック企業というやつだろうか。お酒の匂いはしなかった。朝まで飲んでいた、という雰囲気でもない。
樹さんから201号室の住人は男前であるとの前情報を得ていたが、彼の見た目はイケメンかフツメンか、との議論の次元にはもはやいなかった。健常者か病人か、あるいは生者か死者か、というフェーズになっている。
その背中を見送りながら、俺は決意を新たにしていた。就職するという事は、今の彼のようになる可能性があるということだ。そうなれば小説どころではない。だからこの1年、何としても結果を出さなければならない。その為なら深夜の音くらい屁でもないのだ、と。
◇
引っ越しから3週間ほどが過ぎた。
真夜中の音は、日が経つにつれて大きくなっているような気がする。回数も増えており、最初の頃は1回から3回でワンセットだったのが、最近では6回ほど続けて音がする。それ以外には変わった事はなく、至って平和だ。幽霊が姿を表すなんてことも一切ない。
ただ、毎回毎回丑三つ時に大きな音がするのも困りものだ。一時は気にせず朝まで寝られる日もあったのに、最近ではどうしても音に起こされてしまう。
勤め人ではないのだから、その時間帯に外出してしまい、昼間に寝るという事も考えた。カラオケ、ネットカフェ、朝まで営業している飲食店。都会には何でもある。しかし、無いのは俺の金だ。どんなに施設があったところで、金が無ければ居場所はない。結局俺はこの部屋で、音を聞いているしかなかった。
そしてある日、こんな考えが浮かんだ。
俺からすれば、この音は心霊現象以外の何者でもない。しかし他の部屋の住人、特にお隣さんから見たら、どうだろう。
俺の入居前からあの音がしていたのなら構わないが、もし俺が住み始めたその日からあの音がしているとしたら、他の住民からすれば音の犯人は間違いなく俺だ。「あの無職は何をしているんだ」と思われているのではないだろうか。いや、俺が無職なことを彼らが知る由はないが、とにかく犯人扱いされては冗談じゃない。音だけの幽霊なんかよりも、近隣トラブルの方がずっと現実的で恐ろしい。しかしわざわざ部屋まで押しかけてチャイムを鳴らし「深夜の騒音は俺じゃないっすよ。」などと言うのも変だ。頭がおかしいと思われる可能性もある。
そんなことを考える事数日。チャンスが巡ってきた。スーパーから帰ってきた俺は、ちょうど101号室に入ろうとしているお隣さんを見つけたのだ。
俺は歩く速度を速め、彼女に近づき、さりげなさを装って話しかけた。これではまるで意中の女子に話しかける男子中学生だ。
「あの、このアパート、毎晩壁を叩く音がしませんか。結構うるさいですよね、俺も困って」
「いるんですけど、そちらの部屋にも聞こえていますか」までが俺の予定していた台詞だった。しかし「困って」まで発音した所で、俺の声は彼女の罵声にかき消された。
「そんな事言われても、あたしのせいじゃないよっっ。」
このか細い老婆のどこからそんな声が出ているのか、と思う程野太い声で怒鳴られたのだ。俺はのけ反った。彼女はそんな俺に一切構わず、更にまくし立てる。
「嫌なら出ていけば良いじゃない。あなたは出て行けば良いだけなんだから。こっちはね。」
そこまで言って、彼女は我にかえったようだ。自分の発言に驚いたような、言ってしまった内容を後悔しているような、怒鳴ってしまった事を気まずく思っているような、そんな複雑な表情を一瞬見せて、そのまま俺に背を向ける。そして何も言わず、逃げる様に部屋に入っていった。バタンと音を立ててしまった扉を、俺は茫然と見つめる。
もしこれが昔の漫画なら、俺の頭の上には疑問符が複数個描かれているだろう。何が起きたのか全く分からなかった。一体何が逆鱗に触れたのだろう。
もしかしたら俺があの音の犯人は彼女だと思い込んで文句を言ったように思われたのだろうか。もちろんそれは間違っている。丑三つ時に壁を叩く老婆など幽霊よりも怖いが、そんなことはありえないと分かっている。彼女の事をみじんも疑ってはいない。むしろ逆だ。「毎日俺の部屋から煩い音が聞こえますよね。でも俺じゃないんですよ。」という事を伝えたかっただけだ。さりげなさを装ったのが失敗だったのか。人間関係とは難しいものだ。
──引っ越せばいい、か。
俺はため息を吐く。
──引っ越すなんて選択肢がとれる人間は、最初から事故物件になんか住みませんよ。
101号室のドアを恨めし気に見ながら、心の中で言った。




