第8話 0.05秒で頭を回せ
春という女は、見た目の通りだった。
垂れ目に柔らかな唇。おっとりした雰囲気と、男の視線を自然に吸い寄せる豊満な身体。
首元には、月明かりのように光る小さなシルバーペンダント。
彼女がふっと微笑むだけで、先ほどまで無関心だった男の態度は変わった。
ゆっくりと身体の向きを春の方へと傾ける。
「今日、暑いですね。さっぱりしたもの食べたいな」
「果物とか?ご馳走するよ」
「えー?ほんとに?嬉しい」
──その瞬間だった。
春が笑っただけで、男の視界から世界が消えた。残されたのは春ただ一人。
ポケットからスマホを取り出し、当然のように連絡先の画面を開きはじめる。
ルナの胸を冷たい汗が伝った。
秒針の音がやけに大きく響いてくる。
(……0.05秒で頭を回せ。
どうする?同じことを言ったのに、なぜこうも違う?)
春が酒を作る仕草は、手際がいい。
それだけでなく、グラスを傾ける一挙一動までもが美しかった。
ルナは俯いたまま呟く。
「……持ってるカードが違うのに、同じ戦い方をした。だから失敗した」
「差別化戦略……」
(同じ土俵に立ったら、強い人に勝てない。なら別の土俵を作る)
見た目じゃ勝てない。
女性的なアプローチも効かない。
残ったのは——この偏差値72の頭。
ルナは顔を上げた。
「……あるじゃん。私が逆転できる武器」
再び、男に声をかける。
通常なら、すでに春に心を奪われた客へ二度目のアプローチをすれば、逆ギレされるのが常だ。
その様子を見ながら、店長は愉快そうに口角を上げた。
「一度フラれた客に再度声をかけるなんてな……さて、どうするよ、月子ちゃん」




