甘き露
ああ、良い香りだ。
信太は思わず唾を飲み込んだ。
飲んではいけない。そんなものは常識だ。けれど今、耐えきれないほどの焦燥感に襲われていた。
今すぐこの水を飲まなくては。
肌を焦がすような日差しも肌にへばりつくような熱風も、少し山に入ればなくなった。四方から聞こえる蝉の声も、川のせせらぎや風に揺れる木々の囁きのおかげで苛立つような暑さを感じずに済んでいた。
両親に連れられ、例年のように夏休みは田舎の祖母の家で過ごす。それは小さな子供の時から中学生となった今も同じだ。違うことと言えば、僕はもう虫を追いかけまわして楽しむほど子供でもなく、地域の子供たちと屈託なく走り回れるほどの無邪気さも失っていた。
家から持ってきた宿題を熟す僕を監視するように小刻みに音を立てる扇風機が首を振っていた。正座をすれば腿と脹脛の間に汗をかき、座布団に座れば布地が脛に張りつく。直に畳に胡坐をかけばぺたぺたとい草の欠片がまとわりついた。
何をしても苛々する。
クーラーすらないこの古い家のせいだ、と心の中で悪態をついた。それを口に出さないのは普段ここの家で一人で暮らす祖母に悪いとはわかっているからだ。
祖母をこの田舎に残していっている父は祖母に負い目がある。だからこそ長期休みにはこうしてまるまるこの古民家で過ごしているのだ。
きっと立派な家なのだろう。信太はじとりと部屋の中に目をやった。
いくつも並ぶ襖は古いが何か日本画が書かれており、剥がれかけながら金箔が太陽に微かに輝いた。開いた襖の間からはいくつもの畳が続いており、先の大広間はかなり多くの人間を呼ぶことができるキャパシティーがある。
手入れが行き届いていない庭は雑草が好き勝手生えているが、いくつもの立派な木が植えられ、豊かな枝葉が地面に影を落としていた。
広さや立派さは、普段過ごしているアパートとは段違いだ。けれどここに来て2週間、信太は小ぢんまりとしたアパートが恋しくなっていた。
「信太―!」
「なにー!」
どこかの部屋から父の声がして、反射的に答える。父はいつも声が大きい。きっと父がこんな広すぎる家で育ったからだろう。
「父さんと母さんはばあちゃんと叔父さんちに行ってくるけど、信太も来るかー!」
「いいー! 宿題してるー!」
「わかったー!」
しばらくすると玄関の扉がカラカラと閉められる音がした。
母は未だに信太のことを遊びや買い物に誘うが、父は思春期男子の心を慮ってか無理強いはしない。そういうところは結構好きだった。
小刻みに頭を揺らす扇風機の電源を足の指で押して切る。扇風機の音も、人の声も聞こえないシンとした家は、うるさすぎる蝉の声をシャットアウトしているようだった。
信太は立ち上がり台所から麦茶のペットボトルを一つ掴む。玄関に置きっぱなしだった麦わら帽子をかぶり玄関の扉に手を掛けた。当然のように鍵がかけられていない。むしろかけると祖母から怒られるのだ。
「みんなからやましいことがあると思われるだろ」
その田舎特有の意味の解らない理屈が大嫌いだった。
信太は祖母の孫だが、ここの地域の大人たちは「みんなの孫」のように扱う。ただの他人だというのに、その不躾な距離感がとても信太には受け入れがたかった。
伯父の家はこの家から歩いて30分ほどだが、家の前に駐車されていた軽トラがなくなっているため、それに乗っていっただろうことは分かった。しばらく時間がかかりそうだと思いながら、伯父の家とは逆方向へと向かった。
この田舎の町は、360度山に囲まれている。その中でも南の山は祖母の家から歩いて10分ほどであったため、小学生の時は夜明け前から父と山に分け入ってカブトムシなどを探したものだ。
今では虫取りなどはしないが、祖母の家から山の入り口まで、民家はなく、見張られるような不快感を感じないで済む。それに信太はその山の静けさと川の音が好きだった。川と言っても入って遊べるような川ではない。山の湧き水や雨水が細く流れるだけの小川で、山道を横切っていたとしても小さな丸太1本でできた橋で十分なくらいだ。
山の中に踏み入れると、一瞬にして温度が3度ほど下がっているような気がしたが、きっと気のせいではないだろう。
蒸し暑かった空気は涼やかな風に変わり、刺すような日差しは枝葉の間から零れ落ちる光の粒に変わる。麦わら帽子を脱ぐと流れ落ちる汗が急速に冷やされるように感じた。
ザクザクとスニーカーで山道を歩いていく。ジャワジャワと蝉が四方から泣き喚く。先ほどまで鬱陶しく感じていたのに、涼しい山中ではまるで夏を彩る舞台装置のようだった。
どこかで動物が雑草の間を駆け抜けていく音がした。
ほどほどに涼んだら帰ろう、と歩き回っていると急激に喉が渇いた。特に慌てることもなく持ってきていた麦茶のふたを開ける。たっぷりと入った麦茶はわずかに零れて腕を伝った。ぐびぐびとそれを飲むと、一気に半分はなくなっただろう。けれど不思議なことに、満足感がなかった。たった今飲んだというのに、既にまた水を飲みたいと思っていた。帰り道に飲みたくなるかも、とペース配分を考えたが、山中で熱中症になる方がはるかに困る、とペットボトルを煽った。
からになったペットボトルのふたをして、今すぐ帰ろうと決めた。まだ来て数十分も経っていないが、水分がなくなった以上、長居するのは危険だ。学校でも散々注意されている。むしろ喉が渇いた、と思ったころには既に遅いのだという。そう感じる前に水を飲め、と。
平地の暑さにはうんざりしていたが、背に腹を変えられない、信太は踵を返した。
先ほどペットボトルの麦茶一本を飲み干したというのに、喉が渇いた。
歩けば歩くほど、喉が渇いたという気持ちが増していく。舌が顎に張りつき、気が付けば犬のように口呼吸をしていた。
喉が渇いた。喉が渇いた。喉が渇いた。
なんでもいいから何か飲みたい、と。
ふと、どこからか甘い香りがした。
山の中では凡そ嗅ぐことのない匂いだ。だが飴や香水のような人為的な匂いでもない。
漂うような甘い香り。
信太は気が付けばその甘い香りがする方へと向かっていた。
直前まで、一刻も早く祖母の家へ帰り、お茶を飲んだり扇風機で身体を冷やすべきだと思っていたのに、今信太の頭の中には甘い香りのする方へ行くことしか浮かばなかった。
その甘いものを飲みたいと。
小川のせせらぎが急にクリアに聞こえた。信太が立ち止まった場所は少し開けた場所で、岩は青々と苔むしていて、仄かに湿っている。足元の土も濡れていて、すぐ側には小さな泉のようなものがあった。
水溜まりのようにすら見えるその小さな泉を覗き込むと、底からゆらゆらと立ち上るように水がコンコンと湧き出ていた。同時に気づく。
信太が追ってきた甘い香りの正体はこれだ。
そうわかってしまうと抑えがたい衝動が湧き上がってきた。
今すぐにでもこの水が飲みたい。
甘くて冷たいこの水が飲みたい。
頭ではわかっている。どれだけ綺麗そうに見えたとしても、管理されていない水は決して飲んではいけない。その水がいくら透明であろうと、人の目には見えない細菌や虫、バクテリアが無数に存在しているのだ。山の水など飲もうものなら、腹を壊す、最悪死んでしまってもおかしくない。山に出入りするようになった小学生のときから、父に耳に胼胝ができるほど注意されてきたことの一つだ。
わかっている。理解している。覚えている。
だがその教えすら薄らぐほどに、信太はこの湧き水が飲みたかった。
その両手で掬って飲んだらどれほど潤うことだろう。這いつくばり直接口をつけて飲めばどれほど満たされることだろう。
躊躇すればするほど、喉が渇き焦燥感は募る。
目の前にとてつもなくおいしそうに見える水があるのに、それを飲んではいけないというジレンマ。
わかっている。正解は今すぐここを立ち去り、一刻も早く祖母の家へ戻ることだ。
だがわかりきった答えさえ、今はどうでも良く思えてしまった。
「……一口くらい大丈夫だろ」
その独り言は明確な自分への言い訳だった。
一口くらい大丈夫。
しゃがみこんで両手を泉に浸すと、指先から凍り付かせるように冷たかった。
そこからは無我夢中だった。ほとんど何も覚えていない。
気が付けば信太は泉の傍にしゃがみこんでいて、たぷたぷと音を立てそうなほど、腹の中に水が溜まっていた。
腕もシャツもびしょ濡れで、我を忘れて泉の水を飲んでいたということは分かった。
喉の渇きは、収まった。
あたりを見渡せばあれほど照っていた太陽は沈みかけ、木々の隙間から橙色の光が落ち、鬱蒼とした足元から夜が迫っていた。
面食らって遮二無二走り出す。迷い込むように初めて来た道であったが、あっさりと山を下りることができ、全力で走れば遠くに猫の目のような軽トラの明かりが二つ見えた。
とっくに家に帰っていた両親たちは、日が暮れかけても戻ってこない信太のことを心配して探しに行こうとしていたらしい。
もっと早く帰ってこい、どこか行くなら書置き位残しておけと、結局父から軽く怒られただけであった。
「どこ行ってたんだ」
「そこの山。前に虫取りとかしてたとこ」
「ふうん。涼んでたのか」
きしきしと音を立てる廊下を歩きながら、部屋へと向かう。奥の部屋から蚊取り線香とみそ汁の匂いがして、急に先ほどまでの出来事が夢か何かのように感じられた。
「うん、なんか小さな泉みたいなのがあった」
どこか微睡でも引き摺るようにそう父に報告すると、父が足を止めた。
「……どうしたの」
「まさかその泉、飲んでないだろうな?」
山の水を決して飲むな、と言い聞かされていた。だからその確認だろうと思ったが、一方で今まで言い聞かされてきたからこそ、なぜ今更そんな確認をするのだろうと、名状しがたい違和感を覚えた。
「……飲むわけないじゃん。腹壊しそう」
だからつい嘘を吐いた。
頭ではわかっていたのだ。あれを飲んではいけないことを。けれどどうしても耐えられなかった。今もあの甘い香りは明確に思い出せる。
「……だよな。ならいい。何が入ってるかわからないんだから」
父はどこか硬い笑顔を浮かべて足早に部屋へと向かった。いつも余裕があり、落ち着きのあるその背中が、何かに怯えているように見えた。
あの父が怯えるよう何かがあるのか、と不安に駆られる。
途端に薄暗い廊下が怖くなって、小走りで父のあとを追った。
べちゃり。
背後で何かが落ちる音がした気がした。
反射的に振り向く。
けれど背後にあるのは蛍光灯に照らされた薄暗い廊下だけだ。どこからか飛んできた蛾が蛍光灯にぶつかる。
気のせいか、と思い直して、足早に父の跡を追った。
冷や汗で乾いたはずのシャツがぐっしょりと濡れた。
気のせいだ、と言い聞かせなければならなかった。気のせいであるはずがないと知っていたからだ。
べちゃり、べちゃり、音が止まない。
「……あなた、あなたちょっと起きて」
「ん、ああ……寝てたか」
「寝てたか、じゃない! 遼太郎がいないの!」
「……遼太郎が?」
外からヒグラシが鳴くのが聞こえた。あたりは薄暗くなりつつあり、すでに子供が外で遊んでいい時間ではなかった。
随分と懐かしい夢を見た、と物思いにふける間もなく飛び起きて外へ駆け出る。
遼太郎ももう中学生だ。だが夏休みの間だけ来るこの村を、暗くなっても問題なく歩き回れるほどの土地勘はないはずだ。
「お前は村の入り口の方を見てきてくれ。もしかしたら駄菓子屋とか、どっかの店にいるかもしれないし、見かけたって話が出るかもしれない。俺は山の方を見てくる」
走る妻の背中を見送り、既にくらい影を落とした山を見上げた。
路肩に止めていた車のロックを外し、エンジンをかける。煌々とした人工的な光が暗い畑の畔を照らした。
べちゃり。
べちゃり。
音がした。
聞き慣れている音だった。けれど唯一違うのは、その音が背後ではなく、前方からすることだ。
前方から、山から何かが近づいてきている。
べちゃり
べちゃり
濡れそぼる、重たい何か。
他のどこで聞くこともない、ただ背後から数十年にわたり聞こえ続けた音。
山からそれが来る。
「父さん」
声がした。
聞き慣れた、幼い声。
「遼太郎! どこ行ってた!」
「……暑かったから、山の方に」
二つのライトに照らされて現れたのは姿を消した息子、遼太郎だった。
「道に迷ったのか? 怪我はないか?」
簡単に確認しつつ、村の入り口の方へと探しに行った妻に電話を掛ける。1コール目で妻は応答して、電話の向こうで安堵の息が聞こえた。
「母さんもすぐ戻ってくる。とりあえず家の中に入れ」
その背中に触れた時、薄暗くて気づかなかったがそのシャツがすっかり濡れてしまっていることに気が付いた。
「……どうした、川にでも落ちたのか?」
「……かもしれない。気が付いたらずぶ濡れで、あたりも暗くなってたから慌てて戻って来た」
遼太郎はバツが悪いのか、どこかふてくされたような顔をしていた。そのどこまでも子供らしい仕草に安心感を覚えた。信太の目の前に迫っていた非日常が、急激に日常へと戻っていく。
大丈夫だ。何もかも大丈夫だ。
まもなくカラカラと扉の開く音がして、妻が家の中へと飛び込んできた。遼太郎の姿を認めると名前を呼んで抱き寄せた。
一件落着だ、とため息を吐いて、きしきしとなる廊下を歩く。
そして気づいてしまった。
「遼太郎」
「なに?」
「山の水、飲んだりしてないよな?」
信太はまっすぐ遼太郎を見た。少しの瞬きもできないほど、緊張していた。
「飲んでないよ。山の水が危ないって父さんが言ってたじゃないか」
遼太郎は一度ゆっくりと瞬きをして、左下に視線を落とした。
嘘を吐くときの癖に、息子自身はまだ気づいていない。
「…………そうか、なら良い」
踵を返して母の待つ居間へと向かう。父が死んでもう数年が経とうとしていた。
父の死因は溺死だった。
きしきしと、信太の歩みに合わせて廊下が音を立てる。
もう濡れた何かが落ちる音は、信太の耳には聞こえなかった。
べちゃり
べちゃり
今はきっと、息子の耳に聞こえていることだろう。
それが何かはわからない。
その姿も、その正体も。
どうすればよかったのかもわからない。
終われない、終わらせ方もわからない。
ただ間もなく自分にも終わりが来ることに、ある種の爽快感すら覚えていた。