10
ある日、マリーは朝眠たそうに起きてきた。
聞けば勉強を教えてくれている上級生から、本を借りたらしい。
その本がとても面白くて、夜遅くまで起きていたようだ。
あまり生活態度が悪くなるなら、その男は警戒対象だ。
「歴史を学ぶのにいいと、物語を借りて読んでいました」
マリーが示した本は、ボクも読んだことがある。
一学年春期で学ぶ歴史を知るのに、ちょうどいい本だ。
ボクが注意してから、マリーは言葉遣いに気をつけてくれている。
ただ所作は、リリアの報告によると注意が必要みたいだ。
「アルス様が教えて下さって、面白くて途中でやめられませんでした」
確かにマリーが好きそうな物語だ。
妹の好みを把握し出している男に、ちょっと警戒心が湧く。
あと兄として、ちょっと妬ける。
マリーが男子学生を絶賛するのが気に入らない。
「マリー、今日は冒険者ギルドと商業ギルドへ素材売却しに行くからね」
「はーい」
マリーは良い子の返事をしたけれど、たぶん上の空だ。
あとから忘れているパターンだ。
帰る頃合いに玄関で待ち構えないと、約束を忘れられそうだ。
学園から帰ってきたマリーは、やはり約束をすっぱり忘れていた。
忘れたというより、初めて聞いたという顔だ。
朝は眠気でちゃんと聞いていなかったのだろう。
「ドラゴン素材が欲しいって、連絡があった。行くよ」
仕方がないので出かける用件を伝えると、制服のまま馬車に戻ってくれた。
冒険者ギルドで素材売却後、商業ギルドへ。
商業ギルドの方が、国外との大きな取引などもある。
今日はドラゴン素材なので、特に高額取引だ。
「今回は臓器と血液以外に、肉の希望があったのですが」
「あ、そちらは長兄の結婚式のための食材です。売却予定はございません」
ドラゴンの肉は、試しに食べてみると、とても美味しい肉だった。
両親がロイ兄の結婚式用にと、張り切っていた。
再び手に入れる方法がない肉なので、大切に使う予定だ。
「いや、しかし、大量にあるのなら」
「他の祝い事や、妹のときにもドラゴンの肉は使う予定ですから」
「もう一体のドラゴンも」
「肉の販売はしないと申し上げたはずですよ」
笑顔の圧をかけると、ようやく商業ギルド長は引いてくれた。
事前に売らないと話してある素材だ。あわよくばと思ってのことだろう。
でも、きっぱり断らないとしつこく言われる。
あと多分、一度受けるとズルズルと譲歩させられる。
売買についての書類を交わし、マリーから素材を引き渡して、取引は終了。
出されたお茶を飲みながら、少しだけ世間話をする。
こうした情報収集が必要なのだと、最近になってようやくわかってきた。
「マリアルーシェ様は、Sクラスと伺いました。頼もしいですね」
「はい。自慢の妹です」
そういえば、マリーの入学後は初めて商業ギルドに顔を出した。
前回は入学前だったので、マリーがSクラスとは知らなかったみたいだ。
「同じクラスには、第二王子殿下とご婚約者もいらっしゃると聞いております。いやあ、入学早々に第二王子殿下の庇護を受けられ、以後も親しくなさっていると聞きます。ますます頼もしい」
第二王子殿下の、庇護。
以後も親しく。
ボクは深く呼吸をしてから、マリーに目を向ける。
「そうなのかい。聞いていなかったね」
ちょっとマリーってば、報告・連絡・相談はきちんとしようって言ったよね。
学園生活でトラブルも考えられるから、きちんとしてねって言ったよね。
ボクの笑顔に、圧が加わっていたのだろう。マリーが慌てた顔になった。
ということは、どうやら事実らしい。
「庇護、というわけではありませんが」
「風紀委員の学生からマリー様が絡まれていたのを、第二王子殿下が対応されたと聞いておりますぞ。その後は愛称呼びを許され、互いに親しくなさっていると」
帰宅後マリーとリリアを問い詰めた。
なんと勉強会には、カイルリード殿下も参加しているらしい。
ちょっとマリー、ちゃんと報告!
ボクが少し怒ってみせると、マリーはきちんと説明してくれた。
アルス様はセリオス公爵家の嫡男で、カイルリード殿下の幼なじみだそうだ。
彼の解毒の指輪は、カイルリード殿下が王家のものを渡した。
それが壊れ、交流会の場で毒にやられた。
交流会の事件のあと、別室にアルス様とその従者、カイルリード殿下と共に行き、解毒の指輪作成に協力したそうだ。
ナナイ先生に作って貰ったという。
おーい、ナナイ先生。聞いてないですよ!
聖銀の賄賂は無駄だった。
でもその聖銀は、きっちり役立ったみたいだ。
「学園内や王族貴族関係で何かあったら、今後は必ず報告をするように」
ボクの厳命に、マリーとリリアは、コクコクと頷いた。
まったく困った妹だ。
「報告・連絡・相談が何事にも大事だと言ったのは、マリーだよ」
たぶんマリーは覚えていないのだろうけれど。
案の定、マリーは少し不思議そうな顔をした。
うん。やっぱり覚えていないらしい。
不思議な言葉の数々は、無意識に口から出ていたものみたいだ。
「今後はきちんと、学園での出来事は報告します!」
マリーがそう言うので、許してあげた。
休日にマリーが冒険者活動を満喫した、次の日の夕食の席だった。
「勉強会の皆様と、今日から昼食をご一緒することになりました」
マリーとリリアから、そんな報告を受けた。
勉強会のメンバーは、まず上級生のアルス様。
クラスメイトではカイルリード殿下と、アルス様の従者のスタンリー君。
そのスタンリー君が、例のレイモン侯爵家の息子に絡まれていた。
「レイモン侯爵家のご子息は、大規模魔獣発生のことが気まずいのか、私を避けておられます」
うん。大規模魔獣発生が気まずいからじゃなく、たぶん身体強化で吹っ飛ばされたからだと思うけどね。
マリーに言う気はない。
そのためマリーは、彼の前でわざとスタンリー君と親しくしていることを示し、昼食を一緒にと誘ったそうだ。
すると、アルス様とカイルリード殿下も一緒のテーブルに招かれた、と。
「昼食も一緒に、か。その従者の子が心配とはいえ、兄としては、妹に変な噂が立たないかが心配になるね」
「殿下と噂になることは避けたいので、細心の注意を払っているつもりですが」
マリーなりに、殿下と噂が立たないようには気をつけているらしい。
頭のいい子だから、そういうことはわかっていると思うけれど。
まるで殿下だけに気をつけているみたいだ。他の人は大丈夫なのかな。
「そのアルス様の方は、どんな方なのかな」
マリーは彼への評価が高いので、この機会に聞いてみた。
「アルス様はとても良い方です! 頭もいいし、性格もいいです」
ベタ褒めだった。
あのマリーが、家族以外の男をベタ褒めしている。
え、これって大丈夫? まさかマリー、惚れちゃったとか?
「ずいぶん好評価だね。それだけいい男性なら、うちに婿入りの話とか、出来ないものかな」
ボクがそう水を向けると、マリーは眉根を寄せた。
そんな顔も、うちの妹は可愛い。
「アルス様は、セリオス公爵家のご嫡男です。婿入りは無理ですよ」
それが、とても不服そうな口調で。
そんな言葉を口にさせたボクを、少し睨んでいるみたいなマリー。
え、待って。マリー、まさか本当にアルス様とやらに惚れてる?
いや、たぶん自覚は薄い。
というよりも、彼が嫡男であることが残念と感じた心の動きに、自分で驚いているみたいにも見える。
たぶんこれ、マリーの初恋だ。
妹が、恋する乙女になっている。
マリーもそんな年齢になったんだなあ。寂しいなあ。
「セリオス公爵家、か。なるほど」
これは相手の男性を、調べなければならない。
下手な男なら、マリーを任せられない。
彼には事情がありそうだ。
公爵家の嫡男なのに、毒を盛られて、家が対処をしないという事情は何なのか。
嫡男なのに、家に守ってもらえていないのなら。
もしかすると彼は、セリオス公爵家を出る方がいい立場なのかも知れない。
だったら婿入りの可能性はある。
こんなときはレオに聞いてみるべきだ。
レオとは、ときどき呼び出されて食事を奢ってもらうことがある。
そうした場を作り、ボクと親しいことを示しているようだ。
いつでも訪ねてきていいとも言われたので、出向いてみよう。
そう考えて、サーリウム公爵家を訪ねるための手土産を買いに、街へ出た。
レオは意外と甘い物が好きだから、以前マリーが大量買いをしていた焼き菓子の店がいいだろう。
彼の好みに合わせて直接見つくろうため、菓子店へ入ろうとしたときだった。
「何しやがる!」
いきなり背後で声が聞こえた。
振り返れば、男性が倒れている。
そういえば、背中に何かが当たったような気がした。
これはたぶん、背後からこの男がぶつかってきたのだろう。
そして例のごとく身体強化をしていたので、相手が勝手に転んだ。
周囲の視線がボクに向くけれど、ボクが悪いわけではない。
背中を向けていたボクに、何しやがるはないだろう。
そう思っていたら。
「あなたが彼にぶつかったのでしょう」
涼やかな空気が流れた気がした。
彼女がいた。ハルバド伯爵家のエオナ嬢だ。
ロイ兄の婚約者だった人の妹だ。
ボクは学生のときに戻ったみたいで、思わず固まった。
彼女はまだボクに気がついていない。
「あなたが彼の背中にぶつかって転んだのよ。彼が何かをしたわけじゃないわ」
無表情の、冷たく響く声の指摘が、あの頃の再現だ。
彼女の証言に周囲が、なんだあっちが悪いのかという雰囲気になる。
男は悪態をついて、早々に立ち去った。
「ありがとう」
ボクは素直に礼を口にする。
「どういたしまして。見て見ぬふりは気持ち悪いから口を出しただけで……」
彼女の言葉が止まり、ボクを見て驚いた顔になった。
ようやく相手がボクであることに気がついて、彼女の口がポカンと開いた。
レイモン侯爵家令息の吹っ飛ばされ事件、書籍版にはございません。
なぜならマリー視点だから。
マリーは気づいていないままだから。
合わせて読んだら面白い。そうなっていたらいいなという構成で、この話を作っております。
次回更新は3月17日予定です。