カラスくんの日常
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ぼくはカラスくんという。ぼくのことを「カラスくん、カラスくん」と呼ぶおばさんがいるから、ぼくはその名をいただいて――じつはけっこう気に入っている。そう。ぼくはカラスくんだ。
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おばさんはぼくのために毎日エサを用意してくれる。ご近所さん的にはよくないことなのだ。カラスはいろいろな意味で人間生活において迷惑がられる存在なのだ。そのへんぼくは知っているから、甘えすぎないようにしている。だけどときどき思うのだ。頂戴するエサはぼくもスズメくんたちもさして変わらないのに、どうしてぼくたちカラスだけが嫌われるのかなぁ、って。それはね、たぶん、きっと、ぼくたちカラスは真っ黒で無愛想だからなんだ。
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ぼくに「カラスくん」の名をくれたおばさんの家の前を、朝になると、ぼくはいつもとことこ歩いている。パジャマのまま家から出てきたおばさんといつも目が合う。おばさんは右手を顔の横で振りながら、「やっほー」と笑ってみせる。――おばさんという呼び方はじつはとても失礼なのかもしれない。おばさんはきれいなヒトだし、とても若々しくてみずみずしいのだから。だから以降の呼び方はとりあえず「奥さん」とする、うん、そのほうがしっくりくる。
朝ごはんがほしい。
ごはんが欲しいな、ごはん欲しいな。
などといかにも卑しいばかりの邪念を抱いていると、今日も白いお皿に鳥のエサを入れてもらうことができた。さすがだ奥さん、ぼくはあなたを心の底から愛しています。――そんなだから、ほんとうは奥さんの肩に飛び乗ったりしたくもなるのだけれど、しかしながらぼくは賢く謙虚なカラスなので、そんな空気の読めない真似はしない。奥さんがご近所さんから変な目で見られてしまっては困るし、悲しいからだ。
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その日も奥さんはお勤めに出るべく、朝、ガレージの戸をがらがらがららと開けたのである。ぼくはその光景をあくび交じりに見ていたのだけれど、そしたらだ、ガレージの中からなにやら黒い影がひゅっと飛び出してきた。
ぼくはどひゃっと驚いた。奥さんはきっともっと驚いた。ぼくは奥さんを守るべくぴょんぴょん跳ねた。奥さんの前で「敵……?」に向かって両翼を広げた。
「えーっ」
奥さんがそんなふうに声を上げた。ぼくもニンゲンだったら同じようなリアクションをとっただろう。
ガレージの中から飛び出してきたのは、キタキツネだったのだ。
「えーっ、いつ、いつぅ? いつ入っちゃったのぉ?」
奥さんがそんなふうに目を丸くするいっぽうで――ぼくも目を丸くした。ぼくにだって縄張りくらいはあって、その中に奥さんちがあるからいつもお邪魔しているわけだけれど、近隣でキタキツネを目撃したことなんてなかった。珍しいこともあるものだ。
それにしても、そうか、もう初夏か。
にもかかわらず、奴さんはあんなにあったかそうなしっぽをしているのか。
勉強になった。
ぼくはまた一つ賢くなったわけである。
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奥さんからホースで水を浴びせられていた。もちろんちょろちょろとではあるのだけれど、冷たい――気持ち良くもある。でも、あまりにしつこいと――ぼくは翼を広げながらひゃあぁと逃げ惑う、ひゃあぁ、ひゃあぁっ。
奥さんがふいに、「カラスくんには友だちはいないの?」と訊ねてきた。ぎくりとはならなかったし、両肩ががっくりと落ちたわけでもない。ただ、黙っていても、黙っているからこそ伝わってしまっているであろう事実は、少し悲しいことかもしれないなとは思った。
「お嫁さんを探す時期だって聞くよ?」
そうかもしれないけれど――。
「ひとりぼっちなの?」
まあ、そうなのかもしれないけれど――。
「きっとカラスくんは優しすぎるんだね」
その意見はよくわからないのだけれど――。
――痩せたキタキツネが庭に入ってきたのである。
屈んでいた奥さんは「ひゃあっ」と声を上げ、後ろに両手をついた。ぼくはその使命感から奥さんを守らなければと思い、キタキツネの前に立ちふさがった。めいっぱい翼を広げ、やかましいくらいに「かぁぁ、かあかぁ」と鳴く。
――待ってよぅ。
キタキツネがそんなふうに言った、弱気に満ちながらも一応オスの声だ、ぼくはなんてったって気高く利口なカラスくんだ。よって異種であろうと動物の言葉を理解することなんてわけないのである。
「ぼくはカラスくんだ。おまえは誰だい?」
「名前なんてないよ」
「泣いているのかい?」
「泣きたくもなるよぅ……」
キタキツネがぽろぽろと泣きだした。
「どうしてぼくはこんなところでひとりぼっちなの? おとうさんもおかあさんもいないし、きょうだいだっていないし。ひとりぼっちはさみしいよぅ……」
もしかしたら、しくしく泣くキタキツネのその思いを、奥さんは感じ取ったのかもしれない。だけど、キタキツネは、頭を撫でようとするだけでもダメだ。だからぼくは両翼を広げて今度は奥さんに抗議するのだ。
「わかってるよ、カラスくん。ありがとうね」
素直にお礼を言われると、照れてしまうというものだ。
「北国だって言っても、このあたりじゃキツネなんてめったに見かけないものね。寂しかったんだね、キツネくん」
ぼくと同じでニンゲンの言葉がわかるらしい。キタキツネ――キツネくんはお行儀良くおすわりをしたまま、いっそう泣く。「たださみしいだけなんです……」と言って、ぽろぽろ泣く。
ぼくは思ったんだ。
ぼくたち一羽と一匹と一人は、きっとうまくやっていけるだろう、って。
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ある日のこと――。
奥さんちを――正確には奥さんの旦那さまの家なのだけれど、いきなりヒトの出入りが激しくなって、黒い服を着たヒトばかりが忙しなく出入りするようになって、ぼくは物知りだから、それがお葬式なんだってわかった。ぼくはもっとちゃんといろいろ知っているから、以前から具合が悪かった奥さんの旦那さまが亡くなったのだろうと悟った。旦那さまは優しいヒトだった。カラスはそう簡単にニンゲンに心を許したりしない。けれど、頭髪の薄い、眼鏡をかけた中年極まりない、なにより優しげな彼となら仲良くなれるような気がしていた。だから残念でしょうがなかった。
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奥さんは真っ黒なスカートスーツ――喪服姿――奇しくも全身ぼくと同じ色。ぼくからすればもう夜だし、家に帰って寝る時間なのだけれど、奥さんがあまりに悲しそうで、実際、「カラスくん、カラスくん」とぼくの名をしきりに呼ぶものだから、今晩は彼女の気が済むまで一緒にいてあげようと決めた。
――するとだ、そのうち、申し訳なさそうな足取りで、おずおずとした感じで、キツネくんが登場した。今夜も芝生の上でお行儀良くおすわりして、ちらちらと上目遣いでお伺いを立てるような視線を奥さんに向ける。
「きみたち、ありがとうね」
奥さんはそう言うと、明るく笑った。心からの言葉に思えたから背筋がこそばゆくなった、キツネくんもそうだろう。
「旦那さま、死んじゃった」
奥さんはまた笑った。
でも、月明かりにあって、目尻から涙が伝うのが見えたものだから言葉もない。
ぼくは「旦那さんと一緒の時間は楽しかったですか?」と訊きたかった。キツネくんもきっとそうだ。ぼくと目を合わせると、一つ大きくうなずいたから。
「楽しかったよ。サイコーだった」
驚いた。
思いが通じたんだ、届いたんだ。
「赤ちゃんの頃に患った病気の後遺症なんだってさ。そんなこともあるんだなぁ……」
奥さんは力なく笑う。
笑う、笑う、悲しげに情けなく笑う。
だけどそのうち、夜空を見上げて「うわーん!」と泣き声を上げたかと思うと、芝生に突っ伏して、芝生を右の拳でばしばし叩いて、きっと心の底からの嗚咽を漏らし始めた。
ぼくはまだ冷静だった。奥さんの話を聞いてよくわかった。それは悲しい。悲しいことだ。キツネくんのほうに目をやる。キツネくんも理解している。だから、彼も泣き出しそうな顔をしているのだ。
キツネくんは抱きついて慰めてあげたいに違いない――でも、彼の「性質上」、それはできない。カラスのぼくには奥さんを抱き締めてあげるだけの大きさがない。翼を大きく広げたところで、たかが知れてる。
ごめんね、奥さん。
でも、明日からも、ぼくもキツネくんも、一緒にいるから――。
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キツネくんは最近、子どもに追いかけ回されるようになったらしい。それだけ聞くとあるいは微笑ましい話に聞こえなくもないけれど、キツネくんの場合、周囲のニンゲンの目にあまりに留まってしまうと困るのだ。彼の「特性上」、いよいよ蔑まれかねない。キツネくんはニンゲンのことが嫌いじゃないから、遠ざけられるとよけいに悲しいはずだ。キツネくん、ほんとうにいい奴なのだ。
泣くことが増えてしまった、キツネくん。多くのヒトに知られてしまったから、なにも悪いことなんてしていないのに殺されてしまったらどうしようと怯えているらしい。原則、キツネは駆除できないんだよと物知りのぼくが教えてやっても、「怖い怖い」と言って身を震わすばかり。キツネくん、かわいそうだ。どうやれば彼の不安を取り除いてやれるのだろう。
キツネくんは賢いから、ほんとうはきちんと、自分の立場も、そしてニンゲンの立場も理解している。その上で「カラスくんは空を飛ぶことができていいなぁ」などと言うものだから、ぼくとしてはなおのことやりきれない。
「キツネくん、ぼくは毛がふさふさなきみのほうがカッコいいと思うよ」
「そんなことないよ、カラスくん。翼があるきみのほうがずっと素敵だよ」
奥さんが庭に出てきて――ぼくたちは今日も一羽と一匹と一人になる。
「なになになにぃ? おばさんに隠れて内緒話ぃ?」
奥さんが言うのを聞いて、ぼくもキツネくんもくすっと笑った。
いつまで続くかわからない関係だから、ぼくはいまをたいせつにしたい。「そうだよね」と問いかけると、優しくて涙もろいキツネくんは、今日もぽろぽろと泣き出した。
なにが正しくなにが間違いなのか、そこまではぼくにだってわからない。だけど、なんらかのかたちで仲良くできる関係がそこに生まれれば、それでいいと思うんだ。
ぼくの名前は、カラスくん。
カラスくんは、今日も元気です。




