王様のナラカ
「わたしは、ここにはいられない」
そんなことを言い放った、その夜。
いつもより大分早い時間に、寝室の扉の前に馴染んだ気配を感じて、わたしの兎耳がさっきから忙しない。
けれど、カームにいろいろと曝け出した手前、なんとなく、どんな顔をして迎えればいいかわからなくて。
勝手に入ってくるだろうと、気づかないふりをすることにした。
櫛を入れていたぬいぐるみを隣に下ろし、膝に敷いていた作業用の布を持って、いつものように窓を開けて布に落ちた埃を払おうとした時だった。
「クヌドーラ」
名を呼ぶ声と同時に、扉が開いた。
振り返るより早く褐色の腕が両側から差し出されて、肩と胸を抱え込まれた。布も櫛も、手から落ちた。
「えっ、何?」
いつにない接触に、声が上擦った。拒否したいわけでもないのに、驚きと恥ずかしさで腕の中でもがいてしまう。
すると、腕はすっと離れてしまった。
勝手なもので、解放されてホッとするのに、寂しくなる。
どうして素直に大人しくしていられなかったんだろう、と落ち込みかけたが、両肩を掴まれてくるりとひっくり返されれば、目の前にナラカの整った顔があって、今度は仰け反ってしまった。
「ナ、ナラカ?」
「窓を開ける音がした」
「う、うん」
だって、埃をね……。
「出て行こうとしてるのか?」
「え、えええっ、カーム、もう話したの?」
カームはどこまで話したんだろう。
そりゃ、あの男はナラカ大事の最側近だから。信用したわたしが悪かった。それでも秘密を約束をした、その当日に破るなんて!
牛男に腹が立ったけど、ぐいっとナラカの顔が近づいて、わたしは腹立ちなど一瞬で忘れて、ただ息を止めた。
だって、息をしたら、吐いた息がナラカに掛かりそうなのだ。
近い。近すぎる。
寝てる間にこんな距離になることはある。でもお互い正気な状態が、こんなに恥ずかしいなんて。わたし、目寄ってないよね?
「クゥ」
ナラカが何故かぬいぐるみを呼んだ。さっき隣の席に座らせたはずのぬいぐるみに目線を向けようとすると、顎を掴まれて正面に戻された。
「クゥ。クヌドーラのクゥだ」
えっ、と目を見張った。
ずっと、ぬいぐるみの名前だと思っていた。クゥ、クゥと、とんでもなく優しく呼ぶので、羨ましい!と荒んだこともあったのに。
わたしのことだったの?
や、それより、息。息が、続かない……。
幸い、酸欠になる前に、ナラカはわたしを深く懐に入れて抱き直したから、わたしは息を吹き返した。途端に、慣れない男物の香りが胸を満たした。
頬には柔らかな肌でも寝巻きの布でもなく、固い刺繍と装飾品が当たる感覚がある。薄目を開けて確認すれば、どちらも見るからに最高級品だ。
もしかして、とわたしはごそりと頭を動かしてナラカの顎先を見上げた。
「ナラカ、今王様の格好してるの?」
「ああ、そうだ。当たるのか。今脱ぐ」
「だ、だめ。脱がないで。ちょっと見せて」
不思議そうにするナラカから離れるには、手を繋いでいないとダメだと言われた。
一体何事が起こっているんだという混乱は、一時置いておこう……。
わたしは手を預けたまま、一歩離れて、まじまじとナラカを眺めた。
足元は金のサンダル、何気ない足履きは緋染の絹、上質な麻の長衣にはみっちりと常緑樹の紋様が縫い取られ、帯は金糸を織り込んだ重たげなものだ。
足指にも帯にも手首にも、魔除けの色石が付いた金の輪が付けられ、首元には法を表す金の円環と太陽を表す紅玉とが金鎖で連ねられて下がっている。逞しい首元を辿って視線を上げれば、右の耳からは王の印と言われる金の耳飾りが垂れていた。
金と赤は、ナラカの褐色の肌によく映えた。もとよりその金と黒の斑らの髪と金の目は、豪華な装いに負けることなく輝きを放っている。
想像以上だった。
これが、ナラカ王。
わたしはやっと、王様としてのナラカを見ることができたわけで。
今まで見ないままだったのが惜しくて泣けるほど、立派な姿だった。
「……クヌドーラ、なぜ泣いてる」
「立派だなって、思って。見れて、嬉しい」
ふと、ナラカが眉を顰めて、繋いだ手を辿るように、ゆっくりと近づいてきた。
「表で見たいものは、もしかして、俺の着飾った姿だったのか?」
言い当てられて、恥ずかしい。
反面、気づいてもらえて嬉しくもあった。
俯いて、頷いたわたしに、ナラカは何を思ったのだろう。
しばらくの沈黙の後、はあ、と重たい息が落とされた。
「あ、呆れたの? ため息なんて」
「呆れた。自分にだ。一人狼狽えて、情けない」
「狼狽えた? 困らせたかな、とは思ったけど。ごめんなさい」
「謝らなくていい。謝るのは、俺だ」
言いながら、ナラカはまた私を引き寄せる。
でも自分の格好を思い出したようで、二人の間は、少し空いたままだ。
夜でもまだ早い時間、寒さを感じることはないのに、温もりが恋しい。
そんなわたしの気持ちを察知したように、ナラカはわたしの顔を覗き込んで、金の目を蕩けるように細めた。
「すぐ脱ぐ。大人しく、待ってろ」
うなず……きかけて、えっ、と首を傾げた。
「着替えるの? お風呂は? 寝巻きって、この部屋に用意があったかな」
ナラカが、彫像になったように、ピシリと固まった。
蕩けていた金の目が、すっと冷えていつものナラカになったようだった。
わたしはそれを、驚いて見つめていた。
「……クゥが、俺との関係を変えられないなら出て行くつもりだと聞いだんだが、勘違いだったみたいなな」
「あっ。あ、それは」
ナラカが意図したことに今更気がついて、猛烈に恥ずかしくなった。
もしかして、ナラカは、二人の関係を今、変えようとしていたのだろうか。
慌てるわたしを置いて、ナラカは、そっとわたしの手を離した。
「いや、俺としても避けたかったことだ。取り返しのつかなくなる前でよかった。傷つけたくは」
「――ナラカ、避けたかったの?」
聞き捨てならない言葉、ではないだろうか。
直前に少し期待をしてしまっていたから、なおさらに。
「そんなに嫌だったんだ」
「いや、そういう意味では」
「じゃあ、どういう意味? ナラカが何を考えてるのか、知りたい。わたし、ずっとナラカの王様姿を見てみたかった。思ったよりずっと、カッコよかった。でも、ナラカはずっと、わたしには見せようとしなかったよね。きっと、わざとでしょ? 他にも、ナラカはわたしに隠したり、わたしから遠ざけていることがたくさんあるでしょ? それは、なぜ? どうして、わたしを誰よりも近いところに置いておいて、遠ざけるの?」
「遠ざけるつもりはない」
「でも、関係を変えるのは避けたい。そうでしょう?」
「……」
黙って答えないのは、とてもずるい。
「できれば避けたかった、って言ったじゃない。どうして?」
「……」
でも、答えを自分で知っているのに、こうしてナラカを問い詰めるわたしも、ずるい?
「関係を変えると、わたしが傷つくから? どうして傷つくって決めるの?」
「……」
諦めきれずに問い続けるけど、一度ナラカが黙ってしまうと、どうせ答えは返ってこない。昔から同じ。黙り込んだナラカの隣で疲れるまで泣いたわたしを、ナラカが遠慮がちに甘やかして、なんとなく元通りになる。わたしが怒ったことは二度としないようにしてくれるけど、肝心なことを言葉では答えてもらったことはなかった。
それはもう十年以上続いてきた二人のやりとりだったから。
この時、ナラカが返事をくれたのは、わたしにとっては夜空から月が落ちてきたみたいな衝撃だった。
「傷つける。男と女は違うし、気持ちの重さも違う」
答えてくれた。
けど、降ってきたのは残酷にも聞こえる言葉で。
何を言っているのか、ぼんやりしてよくわからない。ただ、ナラカはわたしと、気持ちが違うと言っている。それは、わかった。
わたしは呆然と、じゃあ、と口を開いた。
じゃあ、やっぱりわたしは何者でもない、ただのぬいぐるみ係にしかなれない、みなしごで。
ナラカを支えることもできない、ただの弱み、足枷でしかなくて。
いつか、自然とナラカの真ん中からもこぼれ落ちてしまう。
未来は、きっとわたしの予想通り。
「じゃあ、わたしたちはこのまま。でも、いつかナラカは、わたしじゃない、傷つけてでも手に入れたい人を、王妃として迎えるのね?」
はっと、ナラカが息を呑んだ気がした。
「その時、わたしは、もういらない? もう誰にも狙われないから、もう自由だよって、外で生きなさいって言われるのかな。それなら、そんなことになるなら、今、手放して欲しい」
「――クゥ!」
ナラカの叫びに弾かれたように、わたしは部屋を飛び出した。
真剣に逃げた。
兎獣人のわたしは、足が速い。
けれど、ナラカはもっと速い。
ナラカが、初めに追いかけるのを躊躇った数秒。その時間だけが勝機だ。わたしは廊下まで飛び出て、驚くジンを横目に向かいの部屋に飛び込んだ。
何の家具も置かれていない部屋。ここの窓は、奥城でも比較的大きい。
飛び付いて窓を開けると、見込み通り、わたしなら通れそうだ。
背後の廊下で扉の開く音。ナラカがもう来る。
わたしは踝まであるスカートを踏まないように、窓に足をかけて体を持ち上げながら、頭から先に窓の外へ出した。
部屋は二階にある。
外界と奥城を隔てる壁も、夕闇に黒い木立も、どれも足掛かりとなるようなところにはない。きっと無事に庭に降りられても、奥庭の敷地からは出られないだろう。
それでいい。
わたしは奥城から出ようとしてるんじゃなくて。
「クゥ!」
ナラカから逃げてるだけなんだから。
わたしは震える足を励まして、窓枠を強く蹴った。