近衛隊長アバス
「今日は、お一人なのですな。いくら腕に覚えがあられるとはいえ、不用心でございますぞ」
いつもは挨拶以上の会話などしないアバスが、そう言ってナラカの前を歩き出した。
露払いのつもりか、十歩ごとに王のお通りだと大声で触れながら、適度な速さで歩いて先導する。
この老人は、こうした奇妙に忠誠心の見える行動を、何故か初めて出会った時から、ナラカに対して惜しむことなく見せてきた。今もその背はいつもよりも真っ直ぐに伸ばされ、心底役目を誇りに思っているかのようだ。
だがそれは、アバスが大した用向きでもないのにわざわざ奥城を訪れたという、その不審を捨て置く理由にはならない。
「アバス。昨日は奥城に来たそうだな。許可も得ず近づくなと、其方にも申し渡したはずだが」
「は、申し訳ございません」
あっさりと、謝罪が返ってきた。と思えば、アバスは歩調を緩め、わずかに二人の距離が縮まった。
他へ聞こえない声量で、老人はこだわりなど何もないように、こう言った。
「剣帯はこうしてお声がけいただくための口実です。いや、お心を煩わせてしまいまして、申し訳ございません。実は、一の大臣が娘御を王様の側妃にお勧めしたと耳にしまして」
「既に断った話だ」
「存じております。それゆえに、です。お断りになられた理由が、奥城にあるのかと、誰もがそう疑うのは自然なこと。そこに障害があるならば、排除しようとすることも」
さらりとした物騒な言葉に、ナラカは老人を睨み下ろした。
体躯に恵まれた若き王に上方から殺気を浴びせられても、アバスは一歩も退かない。かえって、慈しみに満ちた笑みを浮かべた。
「王様、私は一の大臣がそのような短慮をするとは思っておりません。けれど、一の大臣と懇意にする者すべてが英明とは限りませんからな。この一年で、王城は様変わりをし、顔を知らぬ者とすれ違うのが普通のこととなりました。悪いこととは思いません。が、不埒な人間を見極めるのはとても難しくなっているのは確か。ご用心を、と申し上げたかったのです。
――けれども私は、王様の危機には、いつでもどこへなりと駆けつけまする。私には、それができますからな。私にとって、この城はどこもかしこも住み慣れた庭のようなもの。お任せください」
ナラカは、目を細めた。端正な顔立ちが、獣の気配を纏う。金瞳が、長い睫毛の縁取る華やかな影に沈んだ。
「アバス、もし、駆けつけるのに便利な隠し通路があるなら、今度それを教授してもらおう」
「もちろんでございます。ただ地図は作れません。王城の秘ですからな。直接ご案内しましょう」
アバスは何度も頷き笑みを深めたが、それは一瞬のことだった。
「いや、地図を作れ」
「は、しかし」
「全て埋める」
アバスの皺の奥の目が、わずかな間、ナラカの金の瞳をのぞき真意を探った。その瞬間、ナラカもまた、アバスの目の奥を見ていた。そこには確かに、驚きと怒りが閃いたが、すぐさまアバスは低頭し、震えのない声で返答をしてのけた。
「……仰せのままに……」
執務室の扉を従僕が開け、ナラカが足を踏み入れると、「国王陛下」と室内の全員が唱和した。見渡す金の瞳に、全員が真摯に視線を合わせる。そしてナラカが頷けば、すぐさま元の作業を再開させた。
広々とした空間の中央に、薄紗の垂れ幕で仕切られ、クッションなどが配置された王の座がある。王の眼前には、評議に参加する家臣たちのための席も十席ほど設けられているが、今は誰もいない。
その評議の円場を中心として、放射線状に散らばって広い卓がぽつぽつと置かれ、そこに数人ずつが集まっている。資料を検め、まとめ直したり、地図を確認したりと、卓ごとに別の案件を進めているのだ。
王城は広大で、逆に政に関与する官吏の人数は限られている。部署ごとに別々の部屋や階に分かれていては、部署間の情報のやり取りだけで時間を取られてしまう。
伝統を無視し、皆が同じ空間で執務をするこの形にして、効率が上がった。
口数を減らしたアバスは、その中央の玉座にナラカが座ると、自分はその脇に立ち執務室を睥睨した。近衛隊長としての本分というところだ。
だが、奥城からやってきたジンが、堂々と玉座の脇を通って自分と対になる位置に立ったのに、訝しげな顔を向けた。
「貴様は、どこの所属か」
ジンの着る服は、近衛の隊服だ。アバスから見れば、自分の下だと判断したのだろう。
だが、問いかけられたのに、ジンは無言だった。視線を向けることさえしない。
「口がきけんのか」
「アバス、これは奥城の警備を任せている、ジンだ。しゃべらんから、放っておいてやれ」
うるさげにナラカが口を出すと、奥城の、と呟き、それきりアバスも口を噤んだ。
玉座の前に、どっと官吏が列を成したせいもある。
「ああ、お主ら、列を詰めるでない。極秘の案件もあろう。もっと間を空けよ」
アバスは、ナラカの警護はジンに任せることにしたらしい。率先して列の整理に出向いた。
その姿勢の良い後ろ姿にちらりと視線を送ったのを最後に、ナラカは次々に求められる難しい判断に集中していった。
視線が逸れたのを感じて、アバスはふと息をついた。
英雄とされるだけのことはある。なかなか圧力のある視線だ。将来が楽しみだ。
だが。
「お若い。それほど頑なに立ち入りを拒むと、大切なものを隠していると大声で叫んでいるようなものですぞ」
お若いうちに、学んでいただくのがよいでしょうな。
やれやれと呟くアバスは、誰が見ても、穏やかで実直、慈愛と忠誠心に溢れる近衛隊長の顔をしていた。