掌中の珠
「で、ドーラと喧嘩でもしたのか? 確かに反獣人派連中の対策は進まないし、苛立つのはわかるが、今朝は特に殺気立ってないか?」
カームが、揶揄うでもなく静かに問うて来た。
この男は、朝日に呑気な声など上げてみたりしながら、しっかり人のことを観察していたらしい。
穏やかそうに見える灰色の目は、慎重にナラカの気分を推し量っている。どれくらい近づけば獣が飛び掛かってくるのか見定める狩人、いや猛獣使いのような目だ。何があっても対処できる冷静さを保っている。
冷静に見定められれば、ナラカとて見定めたくもなる。
カームは、しなやかに伸びたナラカと背丈は同じほどだが、体は二回りは分厚い。かといって鈍重とは程遠く、走り始めれば誰より早く、いかな体勢で剣を振るっても体軸がぶれることがない。そして、荒ぶるところがなく、野心もないらしい。
幼い頃からナラカのそばに静かに従っていることが多く、率先して上に立とうとはしない。だが、ナラカにできることで、この男にできないことなどないのではないか。
おそらくナラカが道半ばで倒れれば、この男が後を引き受けるだろう。
奇妙な気分だが、ナラカはそう感じている。
苛立つナラカにお構いなく声をかけてくるのは、クヌドーラとこの男くらいだろう。
今は近衛となった、荒事に慣れた屈強な男たちすら距離を取り、手合わせなどは必死で避けようとする。蜂起からこちら、それなりに近くで過ごして来た仲であるのに、だ。
それに、クヌドーラにはナラカの方から近づくのだから、やはりこの男は特異だ。
その冷静な太々しさをナラカは嫌いではないが、今は気に障った。クヌドーラと揉めたのかと問うその口で、遠慮なくドーラなどと呼ばれたからかもしれない。
頼もうと思っていたことを、やはりやめておくかと一瞬気を変えかけたが、この男以上の適任者もいない。
「カーム、今日これから、クヌドーラに付け」
「何かあったのか?」
「表に出たいと言われた」
「ああ、なるほど……」
さも、気持ちはわかると言いたげな反応をされて、さらに苛立つ。
「――出すな。何か外で見たいそうだが、奥城には持って来れないものらしい。何か聞き出せ」
「聞き出すのに俺か? ラーニャの方が適任だろうに」
「ラーニャは、聞き出しても私には隠すだろう」
クヌドーラのことを、自分が仕える王よりも優先する。そんな女戦士は貴重だが、こういう時には使えない。
「それもそうか……。その何かって、モノなのか?」
「モノなら持って来れないものはない。ならば奥城に入ることを禁じられている人間か? ――男?」
会話の流れでふと頭をよぎった想像に、思考が突然煮えた。今、口からこぼれたのは、言葉ではなく毒なのではないか。そうナラカ自身も思うほど、どろりとした声が出た。
カームでさえ、組んでいた腕を解いて珍しく慌てた様子を見せた。
「いや、待て。短絡的すぎる。モノじゃなく、場所とか景色かもしれないだろう。この広場からの日の出だって、城市だって、城下町だって、何も見たことないんだろうよ、ドーラは。大体どこで出会うんだ、そんな男に」
ナラカは、押し黙った。
ドーラはこの一年、奥城以外何も見たことがない。それは事実だ。そのような環境に、ナラカが押し込めている。
何物にも代え難い宝を仕舞い込むためにナラカが選んだのだ。国で一番豪華な城の、懐に抱かれるように在る奥城の、最も位の高いあの部屋を。
今ナラカが広場で振り返っても、城の周囲のどこから見透かそうとも、城の何処の窓からであっても、奥城を視界に入れることはできない。外界から隔絶され、何からも誰からも安全に守られる揺籠のような場所なのだ。
同時にそこは、外の景色を垣間見ることもできず、城と運命を共にするしかない閉ざされた世界。妄執に囚われた者の住む、檻に過ぎない。
そこから見える空すら、狭かろう。
「……見たいのか?」
「は? いやそれはドーラに聞くべきだろう。そもそも、聞き出すのも俺である必要があるのか? 貴方が聞けばいいだろう」
カームに言われて、また押し黙る。
それから、ふいと歩き出した。
日が昇れば城の門が開き、登城が許される。今日も次々と訴状が上がるだろう。その前にやるべき書類仕事が溜まっている。城市の運営会議も予定されている。それを思い出したのだ。
いや、思い出したことにして、振り切ることにした、というべきか。
「おい、まさかドーラ本人に聞けない、ってことないよな? 仲良く一緒に寝てるって聞いてるぞ」
「カーム、お前は奥城だ。今すぐ行け。代わりにジンを寄越せ」
「ジン? あいつは表は嫌がるんじゃないか? ――いや、わかった。説得の理由をくれ」
「あいつが一番全体が見える。クヌドーラを表に出すなら、どこまで整えれば安全か、見極めさせる」
「え、結局出すのか?」
「景色が、見たいんだろ?」
それ以上の質問は、ナラカの背中が許さず。金と黒の斑らの髪を、王の象徴である大振りな耳飾りと同じほどに朝日に煌めかせて、歩き去ってしまった。
残されたカームは、太い首をぐるりと回して思案した。
「これはお一人ですかな、王様」
執政室に向かう廊下でナラカを待ち構えていたのは、痩身の老人だった。
禿頭に色鮮やかな布を巻き、肉が薄い顔をにこにこと笑み崩して好々爺の面持ちだが、それだけの人物ではない。
この城を内乱の激戦下で守り通した功績で、騎士団が解散となった後も近衛隊長として城に残ることになった老騎士、アバスだ。
年齢とともに細くなっても、その立ち姿には芯が通り、体幹の強さが並の老人の比ではないことを見せている。
アバスが特別に扱われているのは、それだけではない。
彼の用いる「王様」という呼称だ。自らの仕える相手として王を呼ぶ時、この国では「陛下」と尊称を用いるのが通常だ。だが彼は、心は前の王に捧げたと、陛下という尊称をナラカに対して使うことを免じてほしいと願ったのだ。
その特別な呼称は、思いがけずアバスの名声を高めているようだ。
ナラカにとっては、ただの呼び名、役職名でしかない。
一切興味がなかったので、是とも否とも答えず、好きにさせている。
その結果、城や城下で「陛下」と呼ぶ者と「王様」と呼ぶ者が混在するようになったことは把握していても、気に留めてもいなかった。なにしろ王城を離れた土地では、治められている実感すらないまま、「王さん」と気安い友のように呼ぶ者だっているのだ。
王様呼ばわりをして愚痴をこぼし憂さ晴らしにするなど、あいさつのようなものだ。ナラカを揺るがすことはない。
だが、奥城の宝の部屋で、たったひとりの女に王様と呼ばれてしまったら。
ナラカの胸には穴が開き、風が通る。
あの瞬間は、心底厭わしい。
クヌドーラには、思いも寄らないことなのだろう。いい大人の男が、些細なことで振り回され情けない思いをしているなどと。
いつか。いつかクヌドーラにも、同じ心許なさを味合わせてやりたいと、憎らしく思うこともある。
その一瞬後に、そのような苦痛をわずかにでも与えたくはないと思い直す。
どんな悪意からも、守りたいのだ。
獣のような、己からも。
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