婚約破棄される未来を予知した悪役令嬢、婚約破棄される前に婚約破棄する
『貴女に、大事なお話があります』
『え……なんでしょうか?』
『貴女との婚約を――なかったことにさせて頂きたい』
未来が視えた。
というわけで、わたしこと公爵令嬢『アリア・ニュートン』は、お抱えのメイドであるエマを呼び出した。
「どうやら、わたし、婚約破棄されるみたいなのよ」
「…………」
いつもの、眠たげな半目とは裏腹に、漆黒のエプロンドレスとロングスカート姿のエマは、紅茶を淹れながら『またか、この女性は』という目を向けてくる。
「お嬢様と婚約関係を結んでいると言うと……エドワード王家、第5王子のシリル王子のことですよね? あの人の良い王子様が、なぜ、今頃になって、婚約破棄なんて」
「そうなのよねー、わたしもびっくりしちゃった」
椅子の上であぐらをかいて、砂糖をドバドバと投入していく。
「しかも、あの男! 事もあろうに、婚約記念パーティーの最中、大勢の前で婚約破棄を切り出してきたのよ! まるで、わたしに恥をかかせるみたいに!」
「落ち着いてください。
ご令嬢が、あぐらなんてはしたない。お願いですから、他の方の前で、砂糖をそんなに入れたりしないでくださいね」
「フッフッフッ、悪は砂糖の量になんて、いちいち了見はつけないものよ」
エマは、眉をひそめる。
何を隠そう、このアリア・ニュートン、生まれ落ちてから『悪役顔だ』と言われるような目つきの鋭い令嬢である。悪だ悪だとばかりに言われるものだから、ものの見事にグレて、自ら悪役令嬢を名乗るようになりました。
「驚くべきことに、お嬢様の未来予知能力は本物ですからね。
残念なことではありますが、シリル王子との婚姻は諦め――」
「だからね、わたし、あの男よりも先に、婚約破棄してやろうと思って」
「……は?」
わたしは、ニタリと笑って、悪役顔で切り出す。
「秘技・婚約破棄返しよ」
お盆を身体の前で抱えたエマは、絶句して立ち尽くした。
「あの男の目的は、わたしに恥をかかせることだもの。
だから、途中までは策にハマったと思わせて、最後の最後に『貴方との婚約――なかったことにさせて頂きます』と、あちらよりも先に三行半を突きつけてやるのよ」
「無理です」
にべもなく、真顔のエマはそう言った。
「相手は、こちらよりも、家格の高い王子殿下ですよ? こちらからの都合で、好き勝手に、婚約破棄なんて切り出したら御家の危機に繋がります」
「だったら、調べ上げましょう」
足を組んだわたしは、甘い紅茶を啜る。
「あの男の弱みを握って、婚約破棄の“理由”を見つけるのよ。そうすれば、表立って、秘技・婚約破棄返しを使えるわ」
「秘技なのに、表立って使うんですか……で、誰が、その調査を?」
わたしが手のひらを向けると、エマはあからさまなため息を吐いた。
「エマがあの男を探っている間、わたしはあの男を惹き付けておくわ! これぞ、古来からの習わし! THE・役割分担!」
「惹き付けるって……なにをするつもりですか?」
「男の子の大好きなモノを使うのよ」
流し目でエマを見つめると、彼女は、顔を赤らめて咳払いをした。
「こ、婚前なのですから、あまり思い切ったことはしないようにしてくださいね」
「フッフッフッ、あの男に真の悪っていうものを教えてあげるわ」
シリル王子の来訪を待ちかねて、わたしは、あくどい笑みを浮かべた。
一週間後。
「来た来た来たー!! 来たわよ、エマ!! 週に一回、定例のことなのに、必ず来訪の伺いを手紙で尋ねてくるマメな王子が来たわよ!! ほら、隠れて隠れて!!」
「隠れる必要はないでしょうに……」
窓の下に隠れたわたしたちは、そっと、玄関前を窺った。
金色の髪の毛に愛らしい顔立ち、スラッとした体躯が長身に合っていて、常に朗らかな笑みを浮かべている……あの人の良さそうな雰囲気、間違いようもなく、わたしの婚約相手であるシリル王子だ。
「フッフッフッ、バカな男ね……わたしたちの完璧な策の上で、小綺麗なダンスを踊ってるとは知らずに……」
「浅知恵の間違いでは?」
「あっ、こっちに気づいた!」
はにかんだ王子様は、こちらに手を振ってくる。
「よいしょ」
「いやいやいや!! ちょっとちょっちょっと、なにしてるんですかっ!!」
お父様のマスケット銃を窓枠に立てかけて、王子様の顔面に狙いをつけると、エマに羽交い締めにされる。
「昨日一晩、色々と考えてみたんだけど……コレが、一番、手っ取り早いかなって」
「貴女は昔から、極端が過ぎるんですよ! それに、コレ! 弾が入ってないのに、王子殺害を目論むってアホの所業ですか!?」
「えぇ!? お父様の嘘つき!! 昨日、寝る前に相談したら、笑いながら『弾は籠めておくよ』と言ってたのに!!」
「明日、婚約者を撃ち殺すと相談して、真に受ける親なんているわけないでしょうが……」
冗談だと受け取ったのか、王子は笑いながら両手を上げた。
軽やかな足取りで、我が家に侵入してくる。どうやら、二階に上がってくるつもりらしい。
「仕方ない。手はず通りにいくわよ、エマ。わたしが王子を惹き付けるから、その間に、お付きの者たちから情報を入手しておいてね」
「お願いですから、とち狂ったことはやめてくださいね……もう既に、私の胃が、限界を迎えつつあるので……」
「なんで?」
無表情のエマに見つめられ、早速、わたしは動き始める。
男の子を誘惑するための小道具を取り揃えて、一気に階段を駆け下りていき、途中で王子とばったり出くわした。
「おっと」
ぶつかったわたしを抱きとめて、彼は、ニコリと笑いかけてくる。
「お久しぶりです、アリア様。
どういたしましたか、そんなに急いで。僕との逢瀬に気が急いたと答えて頂けると、大変嬉しいのですが」
「ご無沙汰しておりますわ、シリル王子」
わたしは、お辞儀をして微笑む。
「先日は、お手紙、ありがとうございました。王子の近況も添えられていて、昨今の情勢を鑑みながら、楽しく読ませて頂きましたわ。お変わりないようで、私、安心いたしました」
「いつもながら、ご丁寧に。ありがとうございます」
余所行きの完璧な挨拶を前に、シリル王子は微笑を交えて応える。
こう視えても、わたしは、それなりに猫をかぶるのが上手い。お父様が泣きついて頼むので、頑張って、それなりのご令嬢を演じてきたわけだが……もう、その必要はなくなったということだ。
「しかし、先程の冗談は驚きました。
まさか、貴女が、あのような御冗談を――」
「王子」
わたしは、一気に距離を詰める。
目を見開いた王子は、どことなく冷めた目でわたしを見下ろし、口端を曲げてつぶやく。
「どうやら、気分が優れないようですね。
貴女さえよろしければ、ふたりきりで、ゆっくりできる場所に――」
「虫捕りしましょう!」
「…………は?」
わたしは、後ろ手に隠していた、虫捕り網と虫かごを取り出す。目を丸くしている王子に、麦わら帽子をかぶせると、彼はきょとんとしたまま呆けていた。
唖然としている王子を前に、わたしは、内心、ほくそ笑む。
フッフッフッ、効いてる効いてる。男の子が大好きなことと言えば、この季節、虫捕り以外に有り得ないわ。街の子供たちへの入念な聞き取り結果により、作成された『男の子研究帳』……このわたしの計算に抜かりはない!
「え、と……む、虫捕り……こ、公爵家のご令嬢が……アハハ、また、御冗談なんて、びっくりしまし――」
「フッフッフッ、どうしましたか王子? まさか、怖気づいたんですか?」
そして、男の子の大半は負けず嫌い! 挑発への耐性は殆どなくて、勝負事にこだわりを見せることが多い!
「このアリア・ニュートン! こう視えても、虫捕りに関しては定評があります! 麦わら帽子が似合うと、お父様からのお墨付き! 大切に育てられた秘蔵っ子と舐めていたら、痛い目を見ますよ!」
「……虫捕り」
彼は、わたしの手渡した虫取り網を握る。
「そこまで言われたら、勝負しないわけにはいきませんね」
シリル王子は、笑って、わたしのかぶせた帽子をかぶり直した。
庭に出たわたしたちは、紫色のミヤコワスレが咲き誇る庭園の真ん中で、ティーカップ代わりの虫取り網をもって対峙する。
「ルールは簡単です。この日時計が、日暮れを示すまでの間に、多くの蝶々を捕まえたほうの勝ち。ニュートン家の庭園を荒らさなければ、なにをしても構いません」
「承知しました」
わたしは、ニコリと笑う。
「現在、ルールを承知しましたね?」
「え……あ、はい」
「では、こちらへ。まずは、宣誓の握手を」
朗らかな笑みを浮かべた王子が、大木の下に立っているわたしの下へと歩いてきて――急に、上へと引っ張り上げられた。
「オーホッホッホッ!! オーホッホッホッホッ!!」
わたしの仕掛けたブービートラップに引っ掛かって、縄で宙に吊り上げられた王子様は、ぽかんとした表情でわたしを見つめる。
「失礼。思わず、隠しきれんばかりのご令嬢が口から。
油断しましたね、王子! このニュートン家の庭は、このアリア・ニュートンの手のひらの上! 数多のブービートラップが仕掛けられた、さながら戦場の如き、罠空間なのですよ!」
わたしは、咳払いをして、逆さまの王子に微笑みかける。
「コレが悪というものですよ、王子。頭に血が上る前には、助けてあげますが、それまでの間、暫しの別れと洒落込もうではありませんか」
颯爽と立ち去ろうとしたわたしは、なにか地面が沈み込んだ感触を足先に感じて――
「あっ」
一気に、上へと引っ張り上げられ、王子の隣にぶらんぶらんとぶら下がる。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……ぷっ、あはは! あははははっ!!」
王子は笑い声を上げ始め、ズボンに着替えていたわたしは、抱腹絶倒の彼を見つめる。
「か、仮にも、第5王子の僕を罠にハメて、自分も罠にかかるなんて……ひ、酷い……酷すぎる……あ、貴女は、なにも考えてないんじゃないですか……あはは!」
「は、ハンデを与えてあげただけですがぁ!? な、なに勘違いして、笑っちゃってるんですかぁ!? 恥ずかしくないんですかぁそういうのぉ!?」
腹筋の力で起き上がった王子は、護身用の短剣を引き抜いて、手慣れた手付きでロープを切って落下する。
華麗に受け身をとった彼は、わたしのロープも切ってから抱きとめた。
「では、勝負を再開しましょうか?」
「フッフッフッ、わたしに情けをかけたことを後悔させて差し上げますよ」
地面に下ろされた瞬間、わたしは駆け出した。
そして、王子には視られていないことを確認し、花畑の中に隠しておいた虫かごを取り出す。中には、大量の蝶々が入っていて、ぱたぱたと元気に羽ばたいていた。
「フッフッフッ、策は二重三重、百重の王がニュートン家の鉄則……数日かけて、集めておいた蝶があれば、負けることなんて有り得ないわ」
茂みから王子を窺うと、彼は楽しそうに笑いながら、蝶々を追いかけ回していた。だが、狙いを上手くつけられておらず、まったくもって捕まえられていない。たぶん、虫捕りなんてしたことがないんだろう。
「王子、虫捕りの基本は――」
わたしが深呼吸した瞬間、周囲の景色が蒼色に映り込んで――数秒先の未来が提示される。
「数秒先の動きを“予知”することですよ」
四方八方、振られる虫取り網。
目線も動かさずに、背後に回した網を回転させながら、未来通りに動いた蝶を確保する。あっという間に、虫かごの中身は、パンパンになっていった。
そして、日暮れを迎えた。
わたしが、大量の蝶々を見せつけると、彼は驚嘆の表情でこちらを見つめる。
「すごい! 本当にお上手なんですね!」
「ニュートン家に伝わる、裏技があるんですよ。その技がなければ、さすがのわたしでも、危うかったかもしれません」
「残念ながら、僕の負けのようですね」
予想よりも、ずっと、多くの蝶を集めてきた王子は虫かごの戸を開いた。
名残惜しそうに、ぱたぱたと、色とりどりの蝶々たちが舞い上がる。夕焼けの橙に、青や緑の色彩がにじんで、夢が終わるみたいに掻き消えていった。
「今日は……本当に、楽しかった。誰かと一緒に遊んだことがないので、なにもかもが新鮮でした。
ですから、その、よろしければ」
「また、一緒に虫捕りをしましょう」
わたしが手を差し出すと、彼は、嬉しそうにその手を握った。
「というわけで、あの男は、既にわたしの魅力で籠絡されたわ! なにせ、彼の中で、わたしは、唯一無二の虫捕りマイスターになっているのだから!」
「…………」
さっきから、頭を抱えているエマは、悪夢を振り払うように首を振ってから口を開いた。
「公爵家の令嬢が、王子を罠にハメて、一緒に虫捕り……し、しかも、卑怯な手を使って勝利をおさめただなんて……旦那様に知られたら、また、寝込むことに……」
「で、エマ、そちらはどうだったの? 上手くやったんでしょうね?」
エマは嘆息を吐いて、居住まいを正した。
「大体の事情は把握しました。
どうやら、シリル王子は、御自身の家……つまり、エドワード王家に復讐しようとしているようですね」
「ふくしゅー?」
「えぇ。なにせ、彼は第5王子。しかも、妾腹だと噂を流されて、産みの親である母親は早くに亡くされておられます。ご兄弟には疎んじられて、父親からは厄介者扱い、幼い頃から政治の道具として使われて、此度の婚約も、彼には一切の話がないまま締結されたようです」
――誰かと一緒に遊んだことがないので、なにもかもが新鮮でした
わたしは、あの言葉を思い出し、椅子の上であぐらをかいた。
「ココに来るまでの間、王子は、一度たりとも笑わなかったそうです」
――ぷっ、あはは! あははははっ!!
「普段は口数が少なく、なにに対しても、興味はもたれないとのことでした。さながら、生きながら死んでいるような。牢獄のような一人部屋に閉じ込められて、ただ、じっと、小さな窓から外を眺めていると」
――今日は……本当に、楽しかった
「さすがのエドワード王家でも、ニュートン家を相手に、直前で婚約破棄などもちかければ、ただでは済みません。きっと、それが目当てなんでしょう。捨て身の覚悟で、たったの一太刀を、浴びせるつもりなんです」
「……だからと言って、わたしに恥をかかせて良い理由にはならないわ」
「もちろんです。彼の復讐に巻き込まれる側としては、たまったものではありません。お嬢様には、正当な、婚約破棄の理由がある。
証拠を押さえるのに、幾らかの時間をください。彼の企みを暴ければ、婚約破棄返しも成り得るかもしれません」
わたしの返事を待たずに、お辞儀をしたエマは出ていった。
たぶん、彼女は、怒っている。エマは、わたしに対する敵意を許したりはしないから、本気で彼の罪を暴こうと必死になるだろう。
では、わたしは――悪役令嬢は――なにをすべきだろうか?
ついに、この日がやって来た。
わたしが、王子から婚約破棄を告げられる、王家主催の婚約記念パーティーの日が。
蒼色のドレスをまとったわたしの両目は、定例の逢瀬(なぜか、一週間ごとから一日ごとに変わった)で見飽きたシリル王子を捉える。
もしかして、こちらの企みに勘付かれて、探られているのではないかと、気が気ではなかったが……バレてないことを祈ろう。
「アリア様」
まばゆいばかりのシャンデリア、シミひとつない純白の円卓、豪華できらめきを放つ料理群に一流のオーケストラ……豪華絢爛なホールで、わたしを見つけ出したシリル王子は、満面の笑みを浮かべて近寄ってくる。
「今日、この時を……本当に、心待ちにしていました。貴女との婚約関係を、皆に知らしめることが出来るなんて夢のようです。もちろん、貴女をモノ扱いして、所有権を口にするつもりなんてありませんが、魅力的な貴女に悪い虫がつかないような“防虫剤”代わりにはなる」
そして、愛おしそうに、わたしの手の甲にそっと口づけた。
これから、婚約破棄を口にする男とは思えないくらいに、熱っぽくて甘ったるい愛の言葉だった。だが、わたしは既に未来を予知しており、彼の企みにも気づいているので、余裕っぽく受け流せる。
「そうですか、では」
「えっ」
すいっと、彼の横を通り過ぎて、料理を食べ始めると……彼は、苦笑して、懲りずにわたしの横に並び立つ。
「あまり、傲慢ぶったことは言いたくはありませんが……ココまで、女性に蔑ろにされたのは初めてです。しかも、婚約者に」
「そうですか。
あ、コレ、なかなか美味しいですよ」
わたしが、彼の皿に料理をとってあげると、嬉しそうにぱくつき始める。
「僕は、貴女が好きです」
「へぇ……あ、コレも、美味しいですね。
さすがに、お金がかかってま――」
「貴女に、大事なお話があります」
しんと、ホールが静まり返る。
まるで、彼のその言葉を待っていたかのように、来賓客たちは押し黙った。そして、わたしもまた、心待ちにしていたひとりで、お皿をテーブルに置いてから、彼の前へと向き直った。
――え……なんでしょうか?
次の、わたしのセリフはこうだ。
だからこそ、わたしは、ココで秘技を見せつけなければならない。
息を吸って――そして、言った。
「今直ぐ、僕と結婚してください!!」
「貴方との婚約――なかったことにさせて頂きます」
えっ。
なにか、王子がとんでもないことを言った気がしたが、もうなにもかもが未来へと進んでしまっている。
呆けているシリル王子を横目に、わたしは“悪役を熟す令嬢”として、傲岸不遜な顔立ちをまとった。
「貴方との婚約……なかったことにさせて頂きます」
ざわつく会場。
思わず起立したエドワード王が、呆然とこちらを見下ろしていた。
「な、なぜ?」
「なぜ? 当たり前のことでしょう? だって、貴方、妾腹なんですから」
一気に、騒ぎが広がっていく。
わたしの大胆不敵な発言に、会場中がざわめきに包まれた。わたしは、その中心に起立して、不遜な笑みを浮かべる。
「私、こう視えましても、結婚相手の家格には拘る方です。まさか、妾腹の第5王子と結婚できるわけもありませんわ。正直言って、今の今まで、騙されていただなんておぞましい」
「な、なにをバカなことを!! 公然と我が王家の血筋を貶めるとは、どういったおつもりか!?」
でっぷりとした腹のエドワード王が、激怒で顔を真っ赤にしながら、口角泡を飛ばしながら叫んだ。
わたしは、ただ、保身に走った彼に冷徹な目線を向ける。
「お、おい!! その女を捕えろっ!! 謝罪を聞くまで、牢にでも閉じ込め――」
バァン。
凄まじい勢いで、わたしの頬が張り飛ばされて、会場が静まり返った。
仕込みどおりに手加減抜きで、わたしの頬を全力で打ったお父様は、泣き崩れながら王を仰ぎ見た。
「た、大変、申し訳ございませんでした……どうか、お許しを……なにせ、この娘は、昔からの跳ねっ返り……この顔立ちからしてみても、傲岸不遜を地でいく娘であります……まさか、シリル王子が妾腹などとまやかしを口にするとは……」
「にゅ、ニュートン爵……なにもそこまで……いや、つい、儂も頭に血が上って……た、ただの冗談だ……き、貴公と儂の仲ではないか、不遜な物言いもすべて許そ――」
「ただ、妙な噂を耳にしたのも事実」
見事なカイゼル髭をもつお父様は、すっと表情を消して、王へと目線を向ける。
「エドワード王家が、シリル王子を蔑ろにしていると……その上、まるで牢獄のような一室に王子を閉じ込め、あたかも他人のように振る舞っていると聞き及びました……」
王の顔が、わかりやすく青ざめる。
「そのような事実、あるわけもないでしょうが……もし、事実だとすれば、シリル王子の妾腹を公認するかのような振る舞い……まさか、妾腹の王子と、我がニュートン家の大事な一人娘との婚姻を無理に推し進めようなどと……そんな王とは思えぬ、悪辣奔放を是としようとするのであれば……」
お父様は、微笑みながら、笑っていない目で言った。
「許せませんな」
「そ、そんな、ま、まさか、なにを、あ、有りえぬことだ。う、うむ、あ、安心めされよ、し、シリル王子は、我が愛しの五男である。
そ、そのようなことは――」
口内を切ったわたしは、マスケット銃を片手に、一歩一歩、壇上へと歩みを進めていって――王の胸に、銃口を突きつける。
そして、お父様を真似て、表情を消し去ってから小首を傾げる。
「……ひっ!?」
「王、どうか、油断なさらぬように。
この世は、万事、小悪が巨悪に絡みとられて、食い尽くされるのが定め」
誰もが、一歩も動けない中で、わたしはゆっくりと引き金を絞り――
「貴方に、悪役は――似合わない」
銃口に詰め込まれていた、ミヤコワスレがずり落ちて、ゆっくりと王の膝下に落ちる。
ミヤコワスレ、花言葉は――
「秘技・婚約破棄返し」
別れ。
滴り落ちていた口元の血を拭いながら、わたしは、マスケット銃を肩に担いで、会場を出ていく。後ろに付き従っているエマは、どこか誇らしそうに、わたしの顎元をそっとハンカチで拭いた。
「というわけで、一件落着ね!」
「まったくもって、一件落着ではありません」
時は流れて、ようやく落ち着きを取り戻したニュートン家。わたしは、いつものように、エマの紅茶を啜っていた。
「お嬢様。一歩間違えれば、エドワード王家とニュートン家の間柄が、険悪なものに変わってしまうところだったのですよ。何事もなかったから良かったようなものの、公衆の面前で、王に銃口を突きつけるとは何事ですか。
旦那様は、ショックでずっと寝込んだまま、執務にも手がつかないのですよ」
「なんで?」
「愛しの娘の頬を、手加減抜きで張り飛ばしたからですっ!! 貴女は、もう少し、周りの気持ちに気を配ってください!!」
わたしのことを愛し過ぎているお父様は、ちょっとわたしと口論しただけで、号泣するようなメンタリティだ。今回ばかりは、さすがに、やり過ぎだったのかもしれない。
「そうですよ、アリア様。あまりにも、お義父様がかわいそうだ」
「で、なぜ、シリル王子がいるんですか?」
猫舌らしいシリル王子は、ティーカップを片手に、ふーふーと息を吹きかけていた。
「貴女に、僕の想いが伝わっていないからです。お陰様で、王も兄弟たちも、まるで人が変わったかのように親切にしてくれています。
ココまでされて、貴女に、恋い焦がれない男が果たしているでしょうか?」
わたしは、エマを呼び寄せて、口を耳元に寄せる。
「エマ……シリル王子って、友達、いないのかしら……正直言って、毎日のように、家に押しかけてくるほど、虫捕りにハマるとは思わなかったわ……」
「自業自得です。もう、私は、関与しません」
「え、なんで?」
「お嬢様のお優しいところは好んでおりますが、ソレ以外は、ぜーんぶ嫌いですっ! もう、知りません! シリル王子と結婚しちゃってください!!」
なぜか、急に怒り出したエマは、開いた扉を思い切り閉めて出て行った。
わたしのお優しいところって……ただ、王の小悪党ぶりが、わたしの悪の美学に反していたから痛めつけただけなのに……女心っていうのは、斯くも、複雑で難しいものなのかしら……
「視てください、アリア様」
沈んでいた思考から舞い戻り、わたしは、シリル王子に促されて庭園を見つめる。
日光に照らされて、映し出されたのは、純白が敷き詰められた天上風景……咲き誇る花々は、昨晩の雨露で艶めいて、神々しい光を放っていた。
「貴女は、不思議な女性だ……貴女と一緒にいられれば、あの咲き誇る花々の花言葉も信じられるような気がする……なにもなかった僕に、初めて、差し込んだ光が……あの小さな窓から、照らしてくれたのが貴女なんだ……」
彼は、微笑んで、わたしを見つめる。
「愛していますよ、アリア様。婚約破棄なんて、絶対にしたりしません」
彼は、笑いながら言った。
「アリア様、スズランの花言葉をご存知ですか?」
たしか、スズランの花言葉は――
「秘技・婚約破棄返し返し」
再び幸せが訪れる。