第四十七話 巣食いし者①
「雨守先生、引き継ぎはだいたいそんなところでいいかしら?」
九月から新たに勤務することになった学校の美術準備室で、雨守先生と先任の久坂先生は引継ぎを終えるとこだった。もうあたりはうっすらと暗くなっている。
少し苦しそうに息を継ぎながら尋ねる久坂先生に、雨守先生は穏やかな表情で答える。
「ええ、夏休み開けて授業始まったらどうにかなるでしょう。
それより後のことまで心配していたら、おなかの子に障りますよ?」
「ありがとう、雨守先生。
そうね、そのくらいどっしり構えてたほうがいいわね。
……前の子にも、悪いもの。」
最後の言葉は小さくつぶやくように、久坂先生は大きくなったおなかをそっと撫でた。久坂先生が産休に入る代替で、雨守先生はこの学校に来たの。
あまり詳しくはお話しされてないけど……前のお子さんは、流産してしまったみたい。
「無理してしまったんですね。」
先生の言葉に、久坂先生はおなかを見つめたまま、撫でていた手を止めた。
「……ええ。
だから今度は、何を言われようと、何がなんでもこの子を守るの。」
その声には、どこか力強い信念のようなものが感じられた。
でも久坂先生、大丈夫ですッ。
あなたを守ってる方が、その亡くなった胎児の霊を抱いて、その新しい命は、必ず守るって……。そう言ってあなたに寄り添っているもの。
赤子の霊も、一緒だったのは僅かな時間だったけど、あなたに「ありがとう」って、そんな感情を伝えているもの。
旦那さんが迎えに来た久坂先生を見送ったあと。雨守先生は準備室の椅子に腰かけ、大きくため息をついた。
『久坂先生、
あんなにおなかが大きくなるまで授業されていたんですね。』
「出産予定まで二か月もない段階での交代なんて、普通はないよ。
この話もってきた渡瀬さんも、ずいぶん怒っていたな。」
先生はなんだか苦い表情を浮かべてる。
『先生、一つ聞いていいですか?』
「ん?」
『久坂先生、
さっき「何を言われようと」って言ってましたけど。
おめでたなのに何か言われるって、どういうことですか?』
先生は一度目を閉じると、私を見上げて静かに話し始めた。
「今は福利厚生が進んだから、早々ないと信じたいが……。
過去には女性教師が妊娠することを良しとしない感覚ってあったんだよ。
例えば…
先生が言いかけていたところへ、準備室に二人の先生が入ってきた。五十過ぎくらいの白髪交じりの柔和な感じの男性と、先生より若い、飾り気はないけど、凛とした感じの女性だった。
男の先生が、最初ぼそっと呟いた。
「あれ? どなたかとお話されてたような気がしたけど、気のせいかな?」
まずいまずい! それ私だよッ!! まだ暑かったから戸をあけっぱなしだったもん。
でも、先生が特になんでもないような顔してごまかしたので、その先生はあらためて顔をほころばせて挨拶をした。
「雨守先生、音楽科の間です。
教科主任をしてます。分掌は生徒会の主任です。よろしく。
こちらは……。」
「……書道科の、高野です。」
芸術に書道まである学校って、珍しいかも! でも、なんだろ? 高野って人、初対面なのに憮然としちゃって。感じ悪いのッ。
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雨守先生の歓迎会だって、間先生が半ば強引に誘って短時間ながら夕食を一緒にとることに。それは学校の近くの、人の好さそうな老夫婦が経営する洋風の小さな食堂だった。
「ここのスパゲティ、美味しいんですよッ。」
そう言って注文をまとめた間先生が終始、生徒の様子を中心に学校のことを話していたけど。高野先生は愛想笑いも浮かべず、ほとんど口を開かなかった。
……その話題になるまでは。
それは、先生が疑問をストレートに、無表情に口にした時だった。
「久坂先生のことですが、
普通ならもっと早く産休に入ってたんじゃないんですか?」
間先生の目が一瞬泳いだと思ったら、高野先生がキッと、まるで先生を睨むように顔を上げた。
「まるで私達の職場がおかしいと言いたいようですね?」
「た、高野先生。
雨守先生はただ聞いただけじゃないですかぁ。」
とりなすようにオロオロしだす間先生。でも雨守先生は冷めたような眼を高野先生にまっすぐ向けたまま、はっきり答えた。
「ええ。
おかしいです。
そんなこともわかりませんか?」
うわぁっ! 先生、なにも初対面の日にそんな喧嘩売るような言い方しなくてもっ?!
「……失礼します。」
高野先生、怒るだろうとばかり思ってたから逆にびっくりしちゃった。ぐっと押し黙ったあと、少しして小さくそう言っただけで、ツンと席を立ってしまった。
「あ、会計しとくからねっ。また明日ね。高野先生。」
その背中にやんわり声をかける間先生。でも他のお客さんもいるのにこの場で名前呼んじゃうのって、どうなのかな~なんて心配しつつ……。
ピシャンッ!!
きろりんきろりんきろりんッ
ドアをもの凄い音を立てて出て行った高野先生。まだドアに付いた鈴の音が響いてるよぉ。びっくりした他のお客さんが、こっち見て目を丸くして……あ、そむけたっ。
空気が一気に重いですよおおおおう。
するとまた取り繕うように間先生が話し出した。
「いや~、気を悪くしないでくださいね、雨守先生。
高野先生も、悪気はないんだよ。
むしろ、彼女なりに感じることがあったとこに、
バシッと雨守先生に言われちゃったから……。」
「どういうことですか?」
「うん。
年長の私が、もっとしっかりして、発言力があればいいんだけど。」
そして間先生は、食べかけのスパゲティを口に運ぶでもなく、フォークに絡ませては皿に落としながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
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『なんだか今度の学校って先生達の仲、ドロドロな感じの学校ですね?』
「ドロドロはそう珍しいことでもないけどね。
でも、ちょっとひどいよな。」
ため息をついて私に答えながら先生は、また学校へと、とうに暗くなった通学路を戻っていく途中だった。
さっきの間先生の話によると、久坂先生は二年生のクラス担任もしていたんだけど、校務分掌*の代わり手……つまりは担任の交代要員がなかなか決まらず、それで久坂先生は産休に入れなかったみたい。
「二年生の今頃って言うと、
修学旅行を控えていたり、三年生と生徒会役員の入れ替えがあったり。
担任持ってると結構大変な時期なんだ。」
そう言えば二年生って行事も多くて楽しかったっけ。私は生徒会って図書委員くらいしかしなかったな。委員長とか、私にはとてもとても無理なんて思ってたりして。
でも私達生徒が知らないだけで、先生達はそんな感じだったんだ~。
『大変なことは、したがらないってことですか?』
「そういうことだね。」
雨守先生は教科だけの交代要員だし、非常勤講師は分掌を持たない立場だから必然的に久坂先生が持っていた役割は他の先生が受け持つことになるんだって。
あの高野先生も既にもってる生活指導係と、久坂先生が担当していた図書視聴覚係を受け持つことになったらしい。
それに久坂先生が持っていたクラス担任も……。
『たらい回しになった挙句、ですよね?』
「普通はそのクラスの副担任が代わるものさ。
それが何らかの事情でできない場合は、
同じ学年の他の副担任が代わるものだが。」
それでも決まらなくて同じ教科だからって理由だけで夏休みが明ける直前、高野先生にお鉢が回ったらしい。
「間先生の話だと、保護者の中にもめんどくさいのがいるそうだしな。」
『モンスター……。』
「ああ、絶滅しないだろうな。
あの類は。
だから尚更、代わりが決まらなかったんだろう。」
高野先生、余計な仕事を増やされたから、久坂先生に対して面白く思ってなかったのかな? だからずっと憮然としていたのかな?
でも、間先生の話にはもっと酷いことが。
『それにしても私、信じられません。
「担任が終わるまで子ども産もうと考えるほうがおかしい」なんてこと、
言っちゃう先生や保護者がいるだなんて!』
それが私には信じられなかった。仕事で無理を押したために流産までしてしまった久坂先生に、よくもそんな言葉を!!
私はお父さんお母さんが、年齢もちょっといっちゃって子どもをあきらめようと思った時に私を授かったから、とても嬉しかったんだよってお盆に聞いていたから……尚更だよ!
きっと私、思いつめたような顔してたんだろうな。はっと顔をあげると、先生はじっと私を見つめていた。
「縁の感覚が正常だと俺も思うよ。
ひと昔前は、そんな酷いことも当たり前に言われたようだがね……。
だからと言って、今それを言ってしまえる人間も、
そういう輩が何人もいるっていうこの学校も、
やっぱりおかしいよな。」
そう言って先生は、既に辿り着いていた校門をくぐった。さっきまで顔を出していた月は、すっかり雲に隠れてしまっていた。
そのまままっすぐ歩いて、雨守先生は職員玄関のカギを開け、昼に説明を受けたばかりの手順で機械警備を解除する。
ヴィッ!
なんだか間抜けな解除の機械音が響いて、びくっとしちゃった。
先生は真っ暗な校舎の中を明かりも点けず、まるで幽霊のように音も立てずに歩いていく。
長い廊下には非常ベルの赤い灯だけが、点々と灯っている。私、幽霊なのに、こっここここ怖いですよぉ~ッ。先生の背中に隠れるようにピタッとくっつく!
先生は迷いもなく二階へ上がり、廊下の突き当りにある部屋の扉を二度、ノックした。
『ここ、図書館……ですよね?』
恐る恐る部屋の入口に掲げられた「図書館」と書かれた札を見上げる。先生は低い声で小さく答えた。
「ああ。」
ここにいる誰か……霊に先生は会いに来たに違いないんだ。それがこの学校にヤダなって感じてることと、なにか関係あるのかな?
きっと、そうに違いないわ!
でも、当然のように図書館の中からはなんの返事もないから、先生は再びノックする。
「話くらい、聞かせてくれてもいいんじゃないですか?」
先生は今度ははっきり声に出して呼びかけた。
すると、施錠されていたドアがカチャッと小さな音を響かせ、二つの扉がゆっくりと中に向かって開いていく。
先生が入っていくと、真っ暗な図書館の中央に、一人の女の幽霊が、ぼうっと照らし出されたように立っていた。
む、武藤先生?!
一瞬、あの、私がいた学校の傲慢な武藤先生かと見違えちゃったけど……明らかに別人だ。
なんだかもっと前の時代、大正か明治の頃のような……袴っていうのかな?
そんな服装をしている。
その武藤先生にとても雰囲気がよく似た年配の幽霊が顎を上げ(仕草までそっくりっ)、先生と私を、見下すように目を細め、じっと見つめていた。
校務分掌*
最初の『非常勤講師、雨守。』でも雨守のセリフの中で簡単に触れましたが再度。
進学指導や生活指導といった先生達の中での役割分担のことです。
正直、先生によって得手不得手あるそうです。
係以外にはいくつもの委員会というものがあり、各教科や各学年から代表の先生が出て構成されてます。
主要な委員会には教頭が必ず入ってる感じ。
なにかと会議も多く、昔のドラマみたいに校長を失墜させてその座を狙うような暇は実際の教頭にはないそうですw
生徒や保護者からもわかる分掌としては、部活動の顧問、クラス担任がそうだと言えます。